「第6章 開かれた二枚のルーズリーフ」 (2)
(2)
約束の十時まで残り七分を切ったところで巧は会計を済ませて店を出た。
こちらから会いたいと約束をした以上、先に待っているのは当たり前だ。
巧は、つい数分前までいた暖かい喫茶店から風の強い中、信号のない横断歩道で彼女の到着を待っていた。
視線の先は正面ではなく右側。大通りから曲がってくる彼女の車を待っている。時折、車は入って来るがどれも昨日とは違う車であり、その姿を確認する度に緊張とため息が繰り返されていた。
そろそろ約束の時間だという頃、一台の黒い車が入って来た。
その車を見た瞬間、ドクンっと心臓の鼓動が大きくなった。
間違いない、彼女の車だ。彼女の車はそれまで見ていた他の車とは明らかに違うオーラを纏っていた。
車は歩道に寄せてハザードを付けて停車する。
左側の運転席のドアが開き彼女が現れた。スーツの色が昨日はグレーだったが今日は黒い。黒い車から出てきた事でよりオーラを増していた。
こちらにゆっくりと近付いてくる彼女。巧は頭を下げる。
「おはようございます。昨日は無理を言ってすみません。今日はよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げて話す巧。そんな彼を彼女は訝しむように目を細める。
一体、何だろう。何か間違った事を言ってしまったか。
途端に不安が頭を過ぎる。やがて、彼女小さくため息を吐いた。
「今日、創立記念日だって言ったのに。やっぱり嘘だったんだ」
「……っ、すいませんっ!」
その視線が自分の制服に向けられていたのだと気付き、耳を赤くする。
同時に最初に言わなければいけないと、昨夜決めていた事を彼女に言われてから気が付いた。
「まあ、昨日の今日だものね。大人しく学校に行くなんて無理か。その様子じゃイエローブースターで今日を創立記念日に変えた訳じゃなさそうだし」
「まさかっ、そんな事は」
否定をしながらもその手があったと内心驚く。確かにその方法だったら合法的に休めた。
いっそ、今からでも。つい、右手に意識がいく。
「言っとくけど、今やってもダメだからね。そんな事したら、すぐ帰るから」
「分かってます。イエローブースターで今日を創立記念日にしません。約束します」
見抜かれていた右手の意識を慌てて沈めて巧は笑う。すると彼女は少し大げさな動作で両肩を落とす。
「まったく、小さい頃は一生懸命で可愛いかったのに」
「一生懸命?」
ポツリとこぼした彼女の言葉に巧は反応する。すると相手は「おっと、危ない危ない」っとワザとらしく口元に手を伸ばす。
「その辺りの話も教えてください。全部」
巧がそう詰めると、彼女はクスッと笑った。
「ええ。君が知りたい事は一切隠さず話します。約束します」
数秒前に言った台詞で返されて戸惑う巧に彼女は「ほら、早く」っと手を取り車へ連れていく。
寒空の下、すっかり冷えてしまった手が温かく柔らかい彼女の手に包まれる。何もかも許して包み込んでくれそうな温もりに負けないように、唇を引き締めて車へと向かった。
夜空の一部を切り取ったような黒い車。
この車に昨日(正確には二十四時間以内)乗っている。だから、何も恐れる事はない。
助手席に足を踏み入れる時、押し寄せる緊張の波を受けてそう自分自身にそう強く言い聞かせた。
降りる前までエンジンをかけていたので、車内はまだ充分暖かい。ゆっくりと革製のシートに腰を沈める。
「それでは行きますか」
彼女がプッシュスタートボタンを押す。
眠っていた車が起きてエンジンがかかり、ヒーターが動き始めた。
彼女は慣れた動作でウインカーを出して、後方を確認。安全を確認すると静かに車を発進させる。ココまでは昨日と同じ。問題はこの後だ。
一体、どこに行くのだろうか。今日一日で終えるはずなので、そこまで遠くには行かないはずだが……。行き先についてあれこれ考えを巡らせていると、車は昨日とは反対方向へ曲がった。
「どこに行くんですか?」
「ん〜? さあ、どこでしょう」
車は海に向かって南下。そのまま湾岸沿いのインターチェンジへと入った。ETCレーンが反応し車が高速道路へ入る。
交通量が多いのもあり、それまで落ち着いていたスピードがグンっと加速する。家の車以外で高速道路に乗った経験が修学旅行のバス程度しかなかった巧は、そのスピードにどうしても不安になる。
不安が口数を減少させて、代わりに車の走行音とヒーター、時折発するナビの音が目立つようになる。話しかけようと緑の案内板が見える度に横を向くが、具体的に何を話せばいいのか分からず結局、沈黙を守っていた。
彼女は不機嫌な様子はなく、ハンドルを握り運転に集中している。その様子に急に話しかけたら悪いと判断した巧は、取り敢えず現状を維持し続ける事に決めた。
高速に入って一時間近くが経過した。そろそろ三つ目のサービスエリアに差し掛かるとナビが主張する。おそらくこれも彼女は無視をするだろう。現在までノンストップなので、いつの間にかそう決めつけていた。
ところが、今回は違うらしく車は追い越し車線から走行車線へと進路変更を行った。
グンっとスピードが落ちてサービスエリアに入る。平日にしては混んでいる駐車場で隅に空いているスペースに駐車した。
ここはサービスエリアから有名な大きな湖が見える。その為、多くの人間は柵の前から眼下に広がる湖を写真に撮っていた。車を停めた位置からは、降りなくても湖の端を覗く事が出来た。そうなると自然と視線が湖へ誘導される。
「さてっ」
一時間ぶりに彼女の声を聞く。それだけでまだエンジンを切っていない車内の空気が変わった。
「私達の話って、誰かに聞かれていい話じゃないでしょう? でも、どうせなら景色が良い場所がいいと思ってココまで来ちゃいました」
「はい。お気遣いありがとうございます」
ココに来た経緯を話す彼女に巧は深く頷いて同意する。
礼を言うと彼女は「良かった」っと微笑んで、車のエンジンを切った。
「ゴメンね。流石にエンジンを点けっぱなしには出来ないの」
「平気です」
長い高速道路の走行で暖められた空気は、エンジンを切ってもかなり余力がある。
「段々寒くなってくるから、後でスターバックスでコーヒーを買いましょう」
彼女が指さす先には見慣れた丸い緑の看板があった。
コーヒーを予定に入れるという事は、それだけ話が長くなるという事。
おのずと顔に緊張が走る。
すると巧の緊張を金欠だと解釈した彼女が小さく笑った。
「心配しないで、奢ってあげるから」
「あっ……、すいません。ありがとうございます」
咄嗟に否定しそうになったが、素直に礼を言っておくべきだ。
そう思って巧はその姿勢を貫いた。
「うんうん。まだ子供なんだから、大人しく奢られてなさい。じゃあ前置きはこのくらいにして、始めましょうか」
「はい」
巧は通学カバンを開けて透明なクリアファイルを取り出した。
そこには、昨晩出てきた物が入っている。
クリアファイルを彼女に手渡す。
「んっ」
彼女は息と声を混ざった返事をしてそれを受け取る。
クリアファイルを開いて、中身を確認する彼女。その様子を巧は直接見られず、視線を下にして音だけで感じていた。
本来は顔を上げるべきだが、とてもじゃないが出来そうにない。
この後、彼女が何を話すか容易に想像出来るからだ。
「二枚あるけど、どっちの日付から読んだらいい?」
その問いに覚悟を決めた巧は顔を上げる。
彼女の手には、二枚のルーズリーフがあった。しばらく間を置いて巧は元々決めていた順番を告げる。
「日付が古い方からお願いします。イエローブースターのおかげで読むだけで頭の中に映像が浮かぶようになってますから」
「分かった」
巧の指定した順番に従って新しい方のルーズリーフはクリアファイルに戻される。決して雑にではなく、丁寧に扱ってくれている事が嬉しかった。
クリアファイルを膝の上に乗せた彼女は、ルーズリーフに目を向ける。
A4一枚のルーズリーフ、両面にびっしりと文字が書かれている。上下に目が動き、文字を追う彼女の姿を眺めつつ、巧自身も書かれていた内容を頭の中で回想する。あれはまるで、一つの短編映画のようだった——。
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