「第6章 開かれた二枚のルーズリーフ」 (4)
4)
「成る程ね」
彼女がそう呟いた時、丁度巧も回想から帰って来た。
「読み終わったよ。そっか、中学生の巧君にそんな事があったんだね。それで、これを読んだ時、どう感じた?」
「最初は信じられませんでした。でも、映像が浮かんで実際にあの学校にいた記憶がある。それなのに××の事は思い出せなかった。それに今回の回想でも××って名前とか顔は不透明でした。それはやっぱり……」
「うん。巧君の予想通り、四回目のイエローブースターを使ったからだと思う。本来の使用方法とは異なる使い方をしたから、バグが出たんだ」
「じゃあ、相手は本当に消えてしまったんですか? 新城さんのように」
「失敗したイエローブースターの結果は分からない。奇跡というのはとても精密なんだ。ほんの少しの切っ掛けで狂ってしまう」
「じゃあ、××の行方は……」
巧の呟きに彼女は静かに首を左右に振る。
彼女なら××の行方を分かると思っていただけにその答えは、とても重かった。同時に自分がした事の愚かさと甘さをあらためて実感した。
当時よりも年月が経過している分、より大きな自責の念が巧を押し潰そうとする。最初からクラスに溶け込む努力をして、××以外の繋がりを持っていれば、依存するような事はなかった。イエローブースターの事だって話しても良かった。今なら分かる。××は話しても決して変に思わない。
それなのに与えられた事に満足して自分勝手にしがみついて、取り返しの付かない事を……。
無限に近い後悔が巧の心を黒く侵していく。
最早、自分自身でも止められない。それ程までに強大になっていた。
そんな巧に頭にポンっと彼女の手が乗る。柔らかな感触と甘い香りが狭めていた視界を広げていく。
「そろそろ車内も寒くなってきたね。約束通り、コーヒー買って来るよ」
「あ、俺も行きます」
ドアを開けようとする彼女に続いて、巧もドアを開けようとドアロックに手を伸ばす。
「いいの。巧君はココにいて」
「でも……」
「いいから。何か飲みたいのある?」
「いや、特には。お任せします」
「うん、分かった。じゃあ楽しみ待ってて」
そう言って彼女は運転席のドアを開けた。
車のドアの向こうから外の空気が入ってくる。顔に当たる冷たい風に大人しく待っていろと言われている気がした。
ドアが閉まり車内に一人残される。
「あー」
一人になった途端、思わず声が出た。彼女が運転席に置いたクリアファイルに手を伸ばす。
ココから見えるスターバックスの窓口は行列だった。戻って来るまでには時間がかかるだろう。巧はクリアファイルから彼女が読んでいたルーズリーフを取り出す。一度読んでいるせいか、頭に映像は浮かばなかった。
当たり前だが昨日と読んだ時と内容に変化はない。
「ふぅ」
半分まで流し読み、ため息と共にルーズリーフを下げる。
顔を上げると、ゆっくりと流れる白い雲が見えた。雲なんていつ見ても同じような物だと思っていた。なのに、ルーズリーフを読んだ前と後では、何故か印象が全然違って見える。
こうなったのはお前のせいだ。
空に浮かぶ薄く白い雲から冷たい声でそう言われた気がした。もう、空を見上げる事すら、苦痛に感じてしまう。巧は目を瞑って視界を暗くした。
視覚が無くなると代わりに聴覚が敏感になる。風の音がずっとよく聞こえた。歩く人達の足音やそれまで言葉として認識出来なかった話し声がきちんと分かるようになる。
次々と流れてくる情報を一つ一つ、頭の中で処理していく。
次第にその作業に疲れた巧の脳の回転数が落ちていった。
心地良い倦怠感が巧を襲う。そう言えば、昨日は何時に寝たんだっけ? 最後に見た時計の時刻を思い出そうとするが、ボヤけて思い出せない。
抗いようのない倦怠感は更に出力を増していく。ゆっくり、ゆっくりと首が重力に負けて下がってそのまま巧の意識は沈んで行った。
ふいにコーヒーの香りが鼻をくすぐった。豊かな豆の香りが沈んだ巧の意識を浮上させる。
「——あっ」
乾いた声が口から漏れる。開いた視界に映るのは、ドリンクホルダーに掛けられたスリーブ付きのスターバックスの白いカップ。
「起きた? ったく、昨日は早く寝なさいって言ったのに」
「すいません。寝たつもりだったんですけど」
ぼやけた頭は下手な言い訳をしなかった。
「そっか。疲れが溜まってたんだね。ま、無理もないか」
ハンドルの向こうに持っていたはずのクリアファイルが置かれていた。
中に入っていたルーズリーフを手に持っている。透明なクリアファイルに残っているのが、最初に読んでいた物。つまり、今彼女が読んでいるのは、二枚のルーズリーフである。
そうか、あれを読んでいるか。
巧の視線の先を察した彼女は苦笑して「ごめん」っと謝った。
「了解も得ずに寝てる間に読むのはマナー違反だったね」
「いえ、大丈夫です」
むしろ隣で彼女が読んでいると意識をしない分、寝ていた方が良かった。
巧の言葉に「ありがと」っと返した彼女は、ドリンクホルダーに置かれたコーヒーを手に取り、そっと口を付けた。コーヒーを啜る音が車内に響く。
口を離した時、漏れたコーヒーの風味が巧まで届いた。彼もそれに触発されて、コーヒーに手を伸ばして口を付ける。
喉を通って入ってくる温かなコーヒーはキャラメルの風味を纏って全身を駆け巡り、巧の疲労を緩やかに取り除いて、思考をクリアにしていく。カップから離した彼の口からは、彼女と同様にコーヒーの風味が漏れた。
「美味しい」
大事に両手で持ったコーヒーに自然と感想を漏らす。
「良かった。巧君、普段は甘いのは飲んでなさそうだったから、敢えてキャラメルマキアートに挑戦してみました」
「いつもはブレンドコーヒーで、他のを飲んだ事がなかったんです。キャラメルマキアートってこんなに美味しいんですね。今まで損してたなぁ」
「損なんてしてないよ。今知れたんだから、それで充分。そうやって、少しずつ自分のペースで視界を広げていけばいいんだよ」
彼女の言葉の一つ一つが、コーヒーと一緒に全身を駆け巡る。
温かい温泉に浸っているようで、いつまでも浸かっていたくなる。いつも彼女と会話出来る人は、とても幸せ者だ。
気付けば軽くなっていた体で巧は、彼女に質問をする。
「二枚目も読んだ感想はどうでした?」
「まだ途中だけど、一枚目とはまた別の種類の衝撃に驚いている」
彼女の感想に頷く。
「そうですよね。俺も逆の立場なら同じ事を思っていると思います」
「まあ、そうだろうね。じゃあ続きを読もうかな」
そう言って彼女はルーズリーフに再度目を通し始める。巧は彼女が読み終わるまで余計な口を挟まず、じっと待った。
両手に持っていたキャラメルマキアートにまた口を付ける。
最初に比べたら、少しぬるくなっていた。
まるで、休み時間の終わりを示すチャイムのようだった。
余計な何かを見る必要もなければ、変に話しかける必要もない。
だから巧は、目を閉じて彼女が読み終わるのを待つ。今度は先程とは違い、眠くならない。キャラメルマキアートが効いているからだ。
彼女の細かな息づかい。ルーズリーフが掠れる音。
巧はそれらを背景に二枚目に書いてあった内容も思い出す。
二枚目は一枚目よりも読むのに時間がかかった。もう一回読めるかと言われても出来ない。だからこそ、彼女には大切に読んでほしい。
巧は耳に入る音を聞きながらじっと待っていた。
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