「第3章 フィルター越しの世界が壊れる時」 (5)
(5)
体がまるで斜め上に動くエレベーターに乗っているような感覚に襲われた。速度はかなり出ていて、胃の底から不快感が込み上げてくる。今、目を開けたら確実に吐く。両手を口に当てて、巧は懸命に耐えていた。
移動が終わり、込み上げていた不快感が静かに引いていく。
「……ふぅ」
溜め込んでいた空気を吐き出して、目を開ける。
「寒っ」
暖かい地下鉄とは違い、容赦ない寒風にマフラーに顔を埋める。
周囲を確認すると、思い浮かべていた通りの場所に立っていた。
現在、自分が立っているのは沙代が行く場所の一本隣りの通り。目的地にそのまま飛ぶと見つかってしまう恐れがある為、ズラしたのだ。
重い足に鞭打って駆け出す巧。
通りの突き当たりを曲がり、目的地へ向かう。
息を荒げて角を曲がると、そこには沙代の姿があった。
あの日と同じように白いイヤホンをして、下を向いている。違うのはそれを喫茶店で見ているか、外から見ているかの事だった。
良かった、間に合った。その事実に思わず気が抜けそうになるが、どうにか堪える。
沙代の下へ近寄り、まだこちらに気付いていない彼女の手を力強く掴んだ。
「ひゃっ!」
目を瞑っていた沙代は手を掴まれた衝撃に声を上げて驚いた。
警戒しながらおそるおそる目を開く。そして巧と目が合った瞬間、本当にどうしようもない程の弱々しい表情を見せた後、力無く笑った。
「……また、止められちゃった」
「当たり前だ。こんな事をさせない為にあの日も助けたんだから」
沙代を捕まえられた安心と連続のイエローブースター使用にどっと疲れた巧は正直な心情を口にする。
「そっか、やられちゃったなぁ」
「取り敢えず、また喫茶店に行こう」
前回と同じ様に喫茶店を勧める巧。だが沙代は首を左右に振る。
断られるのは意外だったが彼女の希望は最優先で尊重すべきなのですぐに代替案を出す。
「だったら横断歩道を渡った公園にあるベンチに座ろう。どこでもいいから、一度ちゃんと腰を下ろした方がいい」
「うん、ごめんね」
こうして前回の喫茶店ではなく横断歩道の先にある小さな公園に入る事になった。
その公園は四方をビルに囲まれているが、比較的広くて中心に噴水がある。今は時間帯の関係からベンチには誰も座っていない。おそらく平日の昼間には休憩中のサラリーマン達が大勢来るのだろう。
入って一番近い木製のベンチに腰を下ろす。長い時間寒さに漬かって、座った人間の体温を吸い取るようになったベンチは、その効力を十二分に発揮する。堪らず巧はすぐに立ち上がり、隅にある自動販売機を指さした。
「何か買ってくるよ。何がいい?」
隣で大人しくベンチに座り、震えている沙代に尋ねる。彼女は自動販売機と巧を交互に見てから「ミルクティー」っと小さな声で呟いた。
「分かった」
注文を聞いた巧は駆け足で自動販売機へ向かう。ベンチから離れるので最低限の警戒は怠らない。万が一、沙代がいきなり駆け出したらイエローブースターを使うつもりでいる。まだ、今日の分は一回残っているのだ。
注文されたミルクティーと自分のコーヒーを買ってまた駆け足でベンチへ戻る。
「はい。ミルクティー、熱いから気を付けて」
「ありがとう。あっ、お金」
通学カバンから青い長財布を取り出した沙代に手で制す。
「いいって。これくらい、何でもないから」
「でも……、香月君に奢ってもらう理由がないもん」
「理由なんか適当にこっちで作るから。それまでは大人しく飲んでくれ」
財布を戻そうとしない沙代にそう答える巧。それを聞いて彼女はクスっと笑った。
「じゃあ、私が納得出来る理由が作れたら教えてね? そうじゃないとお金払っちゃうから」
「了解。楽しみにしてて」
一応の納得をしてくれた沙代は財布を通学カバンへしまう。
「話をする前にまずは一口飲もう。この寒さだから、早く飲まないとすぐに冷めちゃうから」
「そうだね」
二人はプルタブを開けて、それぞれの飲み物を口に運ぶ。
すっかり冷たくなった体が喉を通るコーヒーの熱で生き返る。熱は食道を通り、足の先まで全身を駆け巡った。
「あぁ、美味しい」
口を離した巧は白い息を吐き出して感想を口にする。
「うん、本当に美味しい」
二人して百二十円の飲み物の美味しさに感動する。
そこから新たな会話が生まれる事はなく、黙々と飲み続けた。
巧は自分から話さず、沙代から話すのをひたすらに待った。こちらから言わなくても、彼女本人から話してくれると信じていたからである。
缶の中身が半分まで減った時、遂に沙代が口火を切った。
「……最初はね、気のせいだって思ってた。でも、違うんだよね。気のせいなんかじゃない。皆と私の間には薄い膜がある」
「ああ」
ふとした拍子に風に流されて飛んで行きそうな、沙代の小さな告白を取り零さないように耳に意識を集中して受け止める。
「香月君ってメールでも書いてたけど、何度か転校を経験しているじゃない? 今まで黙ってたんだけど実は私もなんだ。隠しててごめん」
「いいよ。別に問題ない」
残っていたコーヒーに口を付けて沙代の謝罪を受け流す。
「あれって本当、慣れないよね」
「慣れない。いつも転校初日の朝は憂鬱だった」
「それで香月君は、高校ではああいう態度を取るようになったんだ? 分かるよ、そうしたくなる気持ち。痛い程よく分かる」
巧の高校生活の過ごし方に頷いてから「初めは私もそうしようかなって思ったけど、やっぱり出来なかった」っと沙代は続けた。
「教室には既に人間関係は出来上がっていて、そこに転入生という異物が入るじゃない? 受け入れられても拒否されても、ずっと異物のまま。何より、自分が転校する前の話には絶対に入れない。だからその類の話をされた時は限りなく透明人間になるしかない」
下を向き、既に温もりを失いつつある缶を両手で握りしめる沙代。
巧には沙代の話にとても共感出来る。
「私はいつも転校した先で、どうやったら上手く溶け込めるかを考えて立ち回っていた。だから今みたいに一から始まる環境でも、それを引きずっている。言うならば後遺症だね、転校病の後遺症だ」
そう造語を口にした沙代は視線をこちらへと向けた。彼女の水面のように揺れ動く茶色い瞳をじっと見ながら、巧は同意する。
「成る程、転校病の後遺症か」
「しょうがないよね。だって知らないんだもん。一から始まる教室にいた事がない。どうしたらいいのか分からない。私はもう、普通の交流が出来なくなってる。常に周囲の目を気にして誰とでも話さないとって考えて、誰にでもいい顔をする。その結果、今の私が出来ちゃったの」
沙代の話を聞くと、巧は自分と彼女が根本的には似ている。そう思った。ただやり方が真逆。どちらが正解かは分からない。もしかしたら、正解なんて最初からないのかも知れない。
人との関わりを薄くする代わりに孤立する巧。
誰とでも関わろうとする代わりに深くは溶け込めない沙代。
互いの方向は違う。
そして、巧には沙代の真似は絶対に出来ない。
「その、怖くないのか? 今の状態が」
「怖くないよ」
沙代は即答する。そこには強い意志を感じた。
「いやだって、普段から話している連中が、実は裏では自分の悪口を言っているんでしょ? そんなの俺だったら怖くて堪えられない」
「陰口ぐらい、何でもないよ。多分だけど、あの子達も私に気付かれているのを知ってるんじゃない? それに陰口を言っていても、私の前では笑顔で会話してくれる。それで充分」
「そんなの楽しいか?」
咄嗟に出た言葉に巧は後悔する。しかし、出てしまったものは戻せない。
沙代はしばらく考えてから「うん」っと一回頷いて笑顔で口を開く。
「これっぽちも楽しくない」
背筋が震えた。
決して寒さのせいではない。現状を受け入れている沙代の在り方に理解が及ばず、体が恐怖を感じたのだ。
巧が何も言えずにいると沙代は「でもね、」っと更に続けた。
「承知はしているけど、そこを担っているのは心の中のほんの一部分。大部分は否定している。意味がないじゃないかって」
意味がない。
その言葉を聞いて巧は息を吹き返したように沙代に食ってかかる。
「そうだっ! 意味なんてない! 自分の事を嫌っている連中を受け入れてまで付き合う必要はないんだ。そんな歪んだ関係の中で頑張るくらいなら、最初から関係を薄くすればいい。そうすれば得るものは少ないけど被害だって少ない! それが、なんで分からないんだっ!」
巧は自身の考えを残らず声にする。沙代と同じく複数の転校を経験した彼は、この考え方を構築して指針としている。彼女に押し付ける訳ではないが、言わずにはいられなかった。
巧が勢い良く話してから、また沈黙が流れる。
沙代がどう返すのか。巧はじっと待っていた。やがて、微かなため息の後、彼女はゆっくりと首を左右に振る。
「無理。少し考えたけど、香月君のような事は出来ない。想像するだけで体が震えちゃう」
「でも、さっき心の中の一部分しか担っていないって……」
「うん。そうだね、私の心はずっと矛盾し続けている。認めている部分と認めていない部分が混在している。そのせいで、ガスが溜まるんだ」
「ガス?」
初めて出てきた単語を聞き返すと、沙代は頷く。
「矛盾を抱えたまま我慢し続けると、心にガスが溜まるの。それは体中を巡って活力を奪う。だから何をするのも億劫になる。朝、起きる事。ご飯を食べる事。着替える事。そんな簡単な事から、息をする事や歩く事といった、生きるのに欠かせない事まで段階が上がっていく。ガスがそこまで溜まった時、私はあれをやるの」
「あれっていうのは、目を瞑って横断歩道を渡る事?」
「ええ。言うなればあれは、神様とのちょっとしたゲーム。自分の命を希薄にする行動は、終わった時に何物にも代え難い充実感を得る。そして、それをやると溜まっていたガスも消えているんだ」
「じゃあ、今までも……」
「安心してココ最近はやってないよ。最近は今日と、この前の二回。負けちゃったけどね。あと、香月君と毎日メールや電話のやり取りをしていると、ちょっとずつだけどガスが消えていったの。それもあってやろうとは思わなかった」
「えっ、どうしてガスが消えたの?」
巧の問いに腕を組み「う〜ん」っと首を傾げて唸る沙代。
「最初は私と似た境遇の人だからって思ったけど、それだけならガスが消える程の効果はないと思うんだ。どうしてだろう?」
「まあ、何でもいいよ。ガスが消えたっていうのなら」
理由なんか何でもよく、沙代のガスを消す役に立っていたのなら、それで良かった。
「ガスが消えた事実に気付いてから、香月君に依存して、毎日連絡してた。それでも足りなくて学校でも話そうとした。香月君が話すのは止めようって言っても、聞かなかった。本当にごめんなさい」
学校で話すのを止めようと提案した時、認めなかった沙代の真意。まさか自分の存在がそこまで大きくなっていたとは思ってもみなかった。
「だけど香月君でガスを消しても。次第に溜まるスピードの方が速くなって消化が追いつかなくなった。だから今日……」
「もういいよ。最終的には助けたんだから。あれをゲームっていうなら、前回も今日も俺の勝ちだ」
「そうだね、私の負けだ」
缶の中身は空になっていた。沢山話したから喉が渇き途中、何度も水分補給が必要になった為である。
話も一段落付いたし、そろそろ喫茶店に行った方が良いだろう。すっかり体が冷えてしまった。沙代だって、もうそろそろ離れたいはずだ。
そう巧が考えていると、沙代は微かな笑顔をこちらに向ける。その笑顔は心臓の表面を直接撫でられたような独特の怖さがあった。
「本当にずっと負けてる。神様にも、香月君にも」
喫茶店に行こう。
そう提案するだけでいいのに、巧の口は思うように開かない。
やっとの事で口が開いた時、沙代が「でも……」っと遠くを見て呟いた。
「今日は私の勝ち」
沙代が何を言っているのか理解出来なかった。
驚く巧を余所に沙代は勢い良く立ち上り、一気に公園の外へと駆け出した。
「なっ!」
駆け出した先は、先程渡ったのとは違う信号のある横断歩道。
三車線ある大きな通りで、近くに高速道路のインターチェンジがあるせいで、車の流れが全体的に速い。
信号は赤。
一瞬、呆気に取られてしまった巧も慌てて立ち上がり追いかけるが道路までの距離が短く、彼の手が届く頃には沙代は道路の中へと足を踏み入れていた。
トラックが向かってくる。至近距離で脳が揺れる程の大きなクラクションを鳴らす。しかし、沙代の耳にはまるで届いている様子はない。
視界に映る何もかもがスローモーションになった。
通りを走る全ての車のスピードが遅くなる。
件のトラックも例外ではない。マントのように残像を纏いながら、ゆっくりと、本当にゆっくりと沙代に向かって走る。
残りはあと一回。
巧は無我夢中で右手を振り上げる。
詳しい状況を考えている余裕はない。願う奇跡は一つだけだ。極限の心理状態の中、研ぎすまされた巧の思考は、一本の線のようにシンプルだった。
いつもみたいにもし、例えばなんて手段を悠長に考えていられない。
沙代を助けて。
ただそれだけを願って、右手を振り下ろす。
「イエローブースタァァァーッ!」
大声で奇跡の名前を叫ぶ。近くの木に止まっていた鳥が羽ばたく音が聞こえた。この分じゃ、通行人にも聞かれているだろう。でも、そんな事は助かってしまえばどうでもいい。
車に囲まれた沙代には今の叫びが届いたのか分からないが、彼女は足を止めて、こちらを振り返った。
周りの速さに合わせて沙代が振り返るスピードも非常に遅い。
そしてやっと、沙代が振り返った瞬間、彼女の体がフッとその場から消えてしまった。
スローモーションが解除される。
本来ならば、沙代を轢くはずだったトラックは知らない顔をして、そのまま走り去った。その事が現実をどこまでも曖昧にさせる。
「……あれ?」
沙代が、消えた? 轢かれなかった事実を喜ぶよりも先に彼女が消えてしまた衝撃に動揺を隠せない。
その場に立ち尽くして、周囲を見回す。
誰かが異変に気付いているのではと淡い期待を抱く。ところが周囲の人間は、誰一人、足を止めて道路を見ていない。沙代が道路に飛び出たのを歩いている人間には見えていたはずだ。それにトラックのクラクションがあれだけ喧しく鳴っていたのに気付かない訳がない。訴えるように道を歩く人間の顔を見るが、誰も反応を示さず、中には巧を訝しむように見ている者もさえいた。
何事も無かったかのように世界は進み、彼だけが進む前の世界に取り残されてしまった。
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