「第3章 フィルター越しの世界が壊れる時」 (4)

(4)


 沙代と関わりを持つようになって、巧の学校生活が少しずつ変化していった。それが良いのか悪いのかは、まだ分からないが、現状困っていない。


 あの電話以降、沙代と学校でも話すようになった。


 廊下でのすれ違いの時や移動教室の僅かな隙間に話す程度のもの。


初めは、どうしても以前と同様の空気が生まれたが、次第に順応していったらしく、最近は視線も集まらなくなった。


 勿論、無理をして時間を作るような事はしない。基本的に沙代は常にグループでいる。よって優先順位はそちらの方が上。あくまで巧はおまけに過ぎない。ただ、そうだとしても彼の学校生活は確実に変化していた。


 一ヶ月前は考えてもいなかった現在。 


 戸惑いつつも、そうした生活を受け入れ始めていたある日の事。


 放課後、学校が終わり地下鉄で電車を待っていた。


 ホームにはトンネルからの風が流れていた。それらは季節を過剰に重んじているらしく、夏は不快感の塊のような熱風が吹き、冬は体の芯まで冷やす寒風が吹く。今日も例外なくそれに沿っていた。


 風から身を守るべくとマフラーに鼻を埋めていると、ふとホームの端に立っている沙代の姿を発見した。彼女は学校の時とは違って一人だった。


 沙代の家は反対側の路線だったはず。どうしてこちら側にいるのだろうか。ああ、そうか繁華街に寄るのか、トンネル前に立つせいで自分よりも風を受けている彼女を見て、巧はそう考える。


 沙代は巧に気付いていない。かつ、次の地下鉄が来るまで五分程ある。


 メールや電話をこの距離でするのは、あまりに非効率だ。今は沙代一人。理由は不明だがその珍しい環境を避ける事はない。


 巧は沙代の方へ足を向けて、一歩を踏み出す。


 その時だった。


「おい、香月」


 不意に後方から肩を掴まれた。その衝撃で巧の体が揺れる。


 振り返ると、そこにいたのは悠木だった。彼は振り向いた巧の顔を見て「ああ、悪い悪い」っと片手を上げて謝った。


「何だよ」


 折角の貴重な機会を邪魔されて、巧はあからさまに不機嫌な顔を作る。


「そんなに怒るなよ。ちょっと声掛けただけじゃないか」


「ったく」


どうやら悠木には沙代の下へ行こうとした事は気付かれていないようだった。助かったと小さくため息を吐く。


「たまたま一人で帰る事になったんだよ。たまには一緒に帰ろうぜ」


「……ああ、分かった」


 正直、気乗りしないが、断ると余計な疑いを向けられる可能性もあるので、巧は取り敢えず了承する。


 ホームに次の地下鉄の到着を知らせるアナウンスが鳴り響く。


「お、来た来た。やっとだな」


「みたい」


 アナウンスを聞いてトンネルの奥に二人の視線が向くと暗闇が地下鉄のライトでたちまち白く明るくなる。そして、大きなブレーキ音を立てて地下鉄が到着した。


 近くのドア付近に立って、降りてくる客の後、元々並んでいた客の後ろから二人は地下鉄に乗った。


 車内に入ると、そこら中にある温かい空気が全身を包み迎え入れる。


 朝に比べて格段に空いている車内。適当なシートに二人は腰を下ろす。


 隣に悠木がいる事に変な緊張をしてしまう。


 地下鉄は発車してすぐにトンネルに入った。これから巧が降りる駅まではずっと地下を走る。窓の外の景色はコンクリート一色。その事が閉塞感を作り、自然と二人の間に会話は無かった。


 巧は隣に悠木がいると、いつもみたいにイヤホンをして音楽を聴いたり、携帯電話を触ったり出来なかった。もっともそれは、彼も同じなようで特に何かをする訳でもなく、退屈そうに変わらない窓の外を眺めていた。


 出発して何駅目かになる人の乗り降りが少ない駅を地下鉄が発車すると、沈黙を守っていた悠木がこちらを向かずに口を開く。


「香月、最近変わったな」


「そう? 自分じゃ分からないけど」


 本当は分かっていたが、悠木の意図が不明の為、巧は呆けて答えた。


「ちょっと前までは、学校生活なんか興味ない。誰も自分に近寄るなってオーラが全身から出てた。でも、最近はそれが薄くなってる」


「大げさだ。そんな事思ってないって」


 小さく笑って悠木を否定する巧。だが、そんな事は言われるまでもなく、本人が一番理解している。そんなこちらの心境を見抜いているのか悠木は「ま、本人がそう言うならそれでいいけど」っと前置きをして話を続ける。


「どういう経緯で新城さんと仲良くなったのか知らない。そこまで詳しく知ろうとは思わない。だけど、周りからはあんまり良く思われてないからな」


「へぇ」


 地下鉄に乗る前まであった悠木に対する感情が変化する。有力な情報を得られたからだ。今の話を聞けただけでも一緒に電車に乗った価値がある。


教室に馴染んでない自分にとって、この類いの情報は非常に有難い。


「確かに今までクラスで孤立してるヤツが、急に新城さんみたいな人気者と会話し始めたらそう思われてもしょうがない。わざわざ教えてくれてありがとう。今度から気を付ける」


 今夜にでも沙代にメールを送って、話し合う必要がある。控える方向へ進んだら、彼女は嫌がるだろうけど、こればっかりはどうしようもない。向こうに迷惑はかけられない。


 巧がそう考えていると、悠木は小さくため息をついた。


「勘違いしてるみたいだけど、良く思われてないのはお前じゃないから。新城さんの方」




「……はっ?」




 巧は悠木が言っている意味が理解出来なかった。


 耳が言葉を受けても脳まで届かない。途中で霧散する。


 悠木は何を言ってるんだ? 


 沙代が良く思われてない? どうして? 


 そんな事ある訳がない。何を意味不明な事を言っているんだ?


 頭の中で意味不明というエラーだけが、無造作に生まれては消えていく。


「今までクラスにまともに関わってない香月が、新城さんを人気者って思っているのは分かる。だけど、実際はそうじゃない」


「嘘だ。だって、いつも教室でグループになって仲良く話してるじゃないか。笑えない冗談言うのは止めろ」


「教室ではな。けど、本人がいない所で大分言われてる。現にさっきホームでも一人だっただろ? 彼女、いつも登下校は一人なんだ。知らなかったのか?」


 巧は首を左右に振る事しか出来なかった。


 今まで抱いていた新城沙代の人間像が崩れていく。


「どうして、なんだ?」


 辛うじて声を絞り出して、何とかそれを尋ねる。


「切っ掛けは本当に些細な事だった。誰にでも良い顔をする。男子に告白されても断っておきながら、翌日には平然と話す。常に人の顔色ばかり見て会話するから本音を言わない。そんな積み重ねが、今の状況を作ったんだ」


「でも普段は皆で、」


「そう。教室ではむしろ、周りから積極的に新城さんに集まって話しかけている。なのに本人がいないと陰口のオンパレード。異常だよ、彼女が可哀想だ」


 深くため息をついて、大きくシートに持たれる悠木。その態度に彼自身も決して話したい内容ではなかったのだと伝わる。


 更に悠木は「あー」っと何かを思い出したように小さく声を上げた。


「一応言っておくが、お前の陰口は誰も言ってないぞ。ってか、そもそも空気扱いだから、何とも思われてないだけだけど」


 悠木がそう言い終えた時、地下鉄が丁度、とある駅に到着した。


「じゃ、俺はこの駅だから」


 床に置いていた通学カバンを肩に掛けて立ち上がる。開いたドアから駅の匂いが入って来た。僅かな停車時間。巧は地下鉄を降りる彼の背中に向かって、先程とは違う種類の礼を言う。


「本当に教えてくれてありがとう。助かった」


「あいよ。また、明日」


 振り返って笑顔で手を振り悠木は降りていった。そのまま近くの階段を上がって見えなくなり、発車のベルを鳴らして再び地下鉄が動き出す。


 窓から映る景色が再び、コンクリート一色。になった。


「スゥ——、ハァ〜」


 吐き出す息に声を乗せて巧は深呼吸をする。周囲の乗客が訝しそうに見るが気にならなかった。それぐらいこの数分の衝撃は大きい。


 巧は目を閉じて、沙代について振り返る。


 自分は何も知らなかった。同じクラスにいたのに勝手なフィルターをかけて、架空の沙代を作っていた。


 関わりが無かったと言えばそれまでだが、それは逃げに過ぎない。


 何故なら沙代が目を瞑って横断歩道を歩いたのを巧はその目で見ているからだ。結局今日に至るまでその話はしていない。日が経つにつれて薄れてしまったのだ。彼女にいつでも連絡していいからと言ったのも、イエローブースターを使ってまで助けたのに、自分のいない所で死なれたら、嫌だから。


 完全に自分本位の理由だった。


 メールの返信が遅い事で嫌になったのではないかと電話をかけてきた。


 一緒に教室に入った時、向こうはまずメールで謝った。


そして、こちらが誰かに何かを言われたかという質問には答えなかった。


 更にその事があっても、沙代はまた学校で話そうと提案してきた。


 喫茶店での会話、自分はどう見えるかという質問に沙代が礼を言ったのは、声が澄んでいる。という点だけだった。


 バラバラになっていたピースがはまっていく。


 兆しは最初からあったのだ。それに、気付けなかっただけで。


 だったら、気付いた今の自分に出来る事は……。


 巧はこの地下鉄にまだ沙代が乗っている事を信じて下を向く。自分のローファーを見ながら、これからしようとしている事に緊張し始めていた。


 最後に使ったのは、もう一ヶ月前。あの時も沙代に使用した。


心臓の鼓動が少しずつ大きくなる。


大丈夫。久々に使うと言っても、この間までは年単位のブランクがあったんだ。それに比べたらどうって事ない。大丈夫、絶対に。


自分にそう強く言い聞かせて鼓動を落ち着かせる。次第に落ち着いたところで、巧は目を閉じた。


もし例えば、沙代が今から行こうとしている場所が頭に浮かんだら。


そう頭に思い浮かべて、目を開く。


そして奇跡の名前を呟き、右手を振り下ろす。


「イエローブースター」 




 全ての音が一瞬、聞こえなくなった。




 キーンっと前と同じ耳鳴りが巧を襲う。


しかも今回は、頭の中に氷水が流れるような鋭い痛みにも襲われた。


「うっ……!」


 強烈な鋭い痛みは、そのまま巧の体をシートから崩れ落ちさせた。


車内の雰囲気が変わっていく。


 倒れ込んだ巧にサラリーマンが「大丈夫か?」っと声をかけてきた。痛みが響く頭で「大丈夫です」っと返事をする。どうにか重い体を起こして、崩れ落ちたシートに戻った。


 余計な注目は未だ続き、シートの左右の間隔が広がっていた。


 出来る事ならこのまま数分横になりたいが、そうも言ってられない。


 映画のワンシーンのように頭に浮かんだ沙代が行こうとしている居場所。


 多分、沙代の方がそこに繋がる出口に近い。だからホームの端にいたのか。彼女に追い付く為には走らないと。


 トンネルから吹く風が冷たいはずなのに、敢えてそこに立っていた理由。それがようやく判明した。事実が明らかになった事で体に余計な安堵を与えてしまう。


 張り詰めていた緊張が緩んだ事で巧の意識は静かに落ちていった。




 視界が閉じていた事に気付き、巧はゆっくりと目を開ける。人工的な車内の光に目を細めつつ、頭を振り意識を起こす。


 丁度、駅に止まっていたようで、ドアが閉まり発車し始めていた。


 流れる景色を目で捉えていると、駅名が記載された看板が目に入る。


 そこに書かれていたのは、降りる予定の二つ先の駅だった。


「……しまった」


 呆然と呟き体を起こす。しかし、既に地下鉄は発車してしまっている為、降りられない。次の駅までは約五分。急いで駅を出て走ったとしても既に駅を出ているはずの沙代には追い付けない。


 何もかも終わってしまう。


 サーっとした寒気が巧の背中を滑り落ちた。取り返しの付かない事態までのカウントダウンは始まっている。


 この現状を打開出来る常識的な手段を頭の中で必死に思い描く。


 しかし、いくら考えても常識的な手段など出てくる訳がない。


 そう。


 現状で有効なのは、常識ではなく非常識。奇跡の手段しかない。


 巧はシートに乗せていた通学カバンを肩にかけて、緩んでいたマフラーを巻き直した。そして、目を瞑り奇跡の内容を考える。


 もし例えば、次に目を開けた時、目的地のすぐ近くにいたら。


 起こる奇跡をそう決めて、巧は右手を振り下ろす。


「イエローブースター」


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