「第2章 臆病な彼の無意識な勇気」 (3)

(3)


 雨の中、二人は駅へと続く一本道を歩く。駅が近付く程に徐々にサラリーマンの数が増えていく。時間は遅いが無理に急がず、周囲のサラリーマンとスピードを合わせた。雨が降っているせいか、二人の間に会話はない。


 ただ、交差点の赤信号に捕まった時、ふいに沙代が話しかけてきた。


「素敵なお店だね」


「あそこには色々助けてもらってる。空いている時限定で勉強も教えてくれるよ。香夏子さん、国立大学出身で頭が良いんだ」


「へぇ、それは良い事を聞いちゃった」


「教え方も上手い。授業と同じ箇所なのに全然退屈しないんだ」


 香夏子を褒めてもらえた事が嬉しく、得意気になって巧は彼女の話を続けた。話を聞いていた沙代が、ふっと笑ってから首を傾げる。


「好きなの? 彼女の事?」


「えっ。まさか。向こうはこっちよりも全然歳上なんだから。俺なんて子供に見られて終わり」


 突然の事を聞かれて思わず躓きそうになるが、何とか転ばずに堪えた。


「じゃあ、同い歳でクラスも一緒だったら?」


 否定しても引かず質問を続ける沙代。彼女の質問に巧はあらためて香夏子との関係性について考える。


 香夏子が同じ年齢だったら? クラスにいたら? 


 自分はどうしただろう。今日のように仲良く話しているだろうか。


 ほんの数秒間、存在しない未来を思い描く。


 そして自然と出た答えを受け入れて、巧は口を開いた。


「多分、同じクラスだったら話しかけないと思う。っと言うか出来ない。きっと香夏子さんはクラスの人気者になっただろうし。根本的に俺とは違う。今の関係だから続いてるんだ」


 あくまで存在しない未来の話。だとしても、いざ考えると今のような関係にはなるはずがない。その未来は不思議なくらい容易に想像出来る。


 巧の答えを聞いて、沙代はしばらく黙っていたが、やがて小さく「……そっか、それならしょうがないね」っと口にした。その後、前を向いた彼女にはこれ以上話を続ける気はなさそうで、では巧側からは他に話題があるのかと言われれば、特に思い浮かばない。


結局二人は、駅に着くまで会話なく歩いていた。


 駅に到着すると時間帯のせいもあり、学生は殆どおらず、駅の白い照明の下、黒いコートを着たサラリーマンが傘を片手に各々歩いていた。


 ココから二人の方向は真逆になる。


 巧はいつもの電車、沙代は地下鉄で学校のある駅の二つ先で降りる。


 路線が分かれる案内板の下で、二人は足を止めた。


「じゃあ、俺はこっちだから」


「うん。今日はありがとう。また来週、学校でね」


 来週、学校で。それを聞いて、巧はあらためてあの、新城沙代と数時間一緒にいたのだという事実を再認識した。


 また同時に彼女の発した言葉の無意味さを悟る。


 来週になれば、いつもと同じ学校生活が始まるだけだ。沙代と学校で何かをする事は無い。勿論、嫌だとは思わない。


 沙代はそれだけ言って、背中を向けて改札へ向かった。このまま改札を抜けたら、今日の一連の出来事は終了する。


 目を瞑って、横断歩道を渡ろうとした沙代。


 そこも来週からは何も無かったようにして、学校生活を送る。


 何も残りはしない。全て今日一日で完結する。続くとしたら自分とではなく沙代と香夏子の関係かも知れない。会計時、彼女はまた店に行くと帰り際に言っていた。今度は二人の会話も弾むだろう。


 それと本人は知らないが巧が沙代にした事はもう一つ。


 イエローブースターで沙代を助けた。


 明日以降は起こらないであろう偶然が、今日たまたま起きた。


 今日のような偶然はこの先も都合良く訪れる事はない。


 徐々に遠ざかっていく沙代の背中。自然と巧の足は動き始めていた。


 サラリーマンの波を掻き分けて階段を降りる直前の沙代の細い腕を掴む。


「うわっ!」


 突然、腕を捕まれた沙代は両肩を跳ね上げて大声を出す。その声に周囲の何人か反応して振り返る。だが、何でもないと分かると彼らはすぐ興味を失って彼女の横を通り過ぎて行った。


「ビックリした〜。香月君、どうしたの?」


 階段前で足を止めた事で人の流れも止めてしまい後方のサラリーマンが苛立ちながら、沙代を一瞥して階段を降りていく。二人は階段横へ逸れた。


 その間も巧の手は沙代の腕を掴んだまま離していない。


「……どっ、どうしたの?」


 沙代の瞳は怯えていた。知らぬ間に彼女を怖がらせていた事に気付き、巧は慌てて手を離す。


「ゴ、ゴメン」


 離した手の内側が空気に当たって冷たく感じた。沙代は尚も戸惑いの視線を向けてくる。このままでは日和って終わってしまう。巧は一瞬のため息を吐いてから、勇気を圧縮して口を開く。


「何か話したくなったら、いつでもメールしてくれて構わないから。ほら、俺なら、大して事情を知らない分、普段一緒にいる連中よりも話やすいだろうし。それこそ愚痴でも何でも聞くから」


「えっ……」


 話したくなる時それがイコール、沙代が今日起こした行動の時とは限らない。酷く曖昧な言い方だ。しかし、それだけで彼女はすぐに察する。


「いいの? そんな事言われたら喜んで毎日でもメールするよ? そしたら今は良くてもすぐに私の事、ウザいって思うかも」


「別にメールぐらいでウザいなんて思わない。だから安心して」


「優しいんだね。香月君」


「優しいとは、違うと思うけど」


 沙代に優しいと言われて巧は首を左右に振って否定する。


「ううん。香月君、本当に優しいよ。もう二度と私があんな事しないように心配してくれてるんでしょ?」


「あっ……、えっと」


 何て返したらいいか。言葉が見つからず口どもる巧。そんな彼に向かって沙代は話を続ける。


「大丈夫。私は本当に大丈夫だから。じゃあまたね香月君。メール、近い内に必ず送るから」


 沙代は笑顔で巧にそう言ってから、今度こそ階段を降りて行った。下に降りて行く彼女の後ろ姿を見て、巧の心に小さなトゲが刺さる。


 メールをしても構わないと言ったのは、沙代が心配なだけじゃない。それとは別にイエローブースターを使用した事が含まれている。


 偶然、一回だけ助ける事が出来たに過ぎないが、それでも助けた事は紛れもない事実。


 あの日、あの喫茶店に自分がいたからこそ出来た。


 一度、イエローブースターで助けてしまった命。


 せっかく助けたのに、これで自分のいない時に沙代が死んだら、間違いなく後悔する。


 それは損からなのか。それとも怯えなのか。もしくは弱さなのか。


 答えはその時になってみないと分からない。


 とにかく、巧は一度助けてしまった沙代を見捨てない。重要なのはイエローブースターで助けた事実。それがたとえ彼女じゃなくても別の誰かでも構わなかったとしてもだ。


だから、沙代から優しいと言われると、心に電気が走り痛みを覚える。


もう沙代は見えないのに階段前に立ち尽くしていた巧は、振り返り自分の乗る電車の改札へ向かう。途中、人混みの足音に紛れてため息を吐く。


「……はぁ」


駅構内に捨てたため息を踏み付けて、巧は改札を抜けるのだった。


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