「第2章 臆病な彼の無意識な勇気」 (2)
(2)
それから三日が経過した金曜日。
巧は一人高校から最寄駅までの道を歩きながら、今週一週間を回想する。
あれから沙代はこちらに来る事はなく、自分の机で熱心にペン回しを練習していた。来週になれば、三日前の休み時間の出来事なんてクラスの記憶から完全に消えて、彼女の新たな特技が披露される事になるだろう。
そんな事を考えて、帰り道を一人歩く。その足取りは普段より若干軽い。
巧は普段あまりしない寄り道をする事に決めた。地下鉄から乗り換える大きな駅で降りて、繁華街方面へと足を向ける。
前々から追いかけている作家の新刊を買おうと、アーケードにある書店を目指す。大勢の人の間を避けて進み、書店のガラス戸を開けた。
外の世界との境界線を作るヒーターの風が巧の頬を優しく撫でる。
この書店は五階まである大型書店、余裕があれば一階の雑誌コーナーから存分に堪能したいところだが、あいにく今日は買った後の行動も既に決めている。よって彼はマフラーを緩めながら一直線に文庫本コーナーへ続くエスカレーターに乗った。目当ての本を平積みされている新刊コーナーから見つけ、レジに持って行く。代金を払い、ブックカバーも掛けてもらった。
ビニールの手提げ袋に入った文庫本を持ってすぐに書店を出る。長居をするとせっかくの予定と時間を無駄にしてしまうからである。
外に出た途端に冷たい風がヒーターで暖まった頬を容赦なく切り付ける。
寒さに緩めたマフラーを再び巻き直した。巧は、決めていた目的地へと足を向ける。そこで振り返り、大きな駅を視界に捉えた。このまま駅に向かい、暖かい車内で買ったばかりの本を開くのは、決して悪い選択ではない。
しかし、巧はその誘惑に何とかブレーキをかける。明日は休み。少し特別な平日の夕方。そんな日に電車の中で済ましてしまうのは勿体ない。
やはり、当初の予定通りにしよう。
再度、意思を固めた巧は、駅には向かわずに海の方角へ足を進めて、繁華街から居留地街へと向かう。
やがて歩道がコンクリートから石畳になり、左右に並ぶ店も誰も知っている高級店へと変わっていく。また、オフィス街でもある事から、歩いている人間もサラリーマンが多い。
学生服では場違いなのを自覚しつつも巧はひたすらに歩いて、とある喫茶店の前に到着する。
その喫茶店は、緑色のドアがそのまま店名となっている。
駅前にあるチェーン店との違いは、騒がしくなく、時間の流れが緩やかに流れる落ち着いた雰囲気であるという事。
休日以外は訪れる頻度は少ないが今日はいい。
巧は、緑色のドアを開ける。
カランコロン。上部に取り付けられたカウベルが店内に響く。
個人店なので店内はそこまで広くない。カウンター席が十席。テーブルが四席程だ。暖色系のライトと外国製のオイルヒーターが、先程の書店とは違う種類の温もりを持ち、巧を迎え入れてくれる。
「いらっしゃいませ。あっ、巧君。制服じゃない。学校帰りに来てくれるのは珍しいね」
店内に入るとカウベルの音に反応してウエイトレスの香夏子がやって来た。
「ええ。今日は好きな作家の新刊が出たんです。明日は土曜日だし、家に帰る前に我慢出来なくて、一章だけでもココで読もうかと」
去年から通っている巧は店員とすっかり仲良くなり、肩の力も程良く抜けて学校にいる時よりも饒舌になる。
「いいねえ。そういうの私も学生時代にやってたなぁ。ワクワクする気持ちが抑えられないんだよね。分かる分かる」
「やっぱり、大人になって働き始めると難しいですか?」
「うーん、まず時間を作る事から始めなきゃいけないからなぁ。あ〜、あの時代は思い出したくない」
「あっ、すいません」
以前聞いた話では、彼女は大学を卒業後、とある県庁の職員として働いていたそうだ。そこからどういう経緯かは知らないが現在は退職して、家業であるこの喫茶店で働いている。
肩まで伸びる軽くウェーブがかかった茶色の髪をポニーテールにしている。また、黒のフレームの眼鏡をかけており、優しい話し方も加わって全体的に落ち着いた印象を持つ。一人っ子の巧にとって、香夏子の存在はまるで姉のようだった。
香夏子に案内されて、巧はいつもの窓際テーブル席へ腰を下ろす。反対側の椅子に通学カバンとダッフルコートを置いて、ビニールの手提げ袋から購入した文庫本を取り出した。
「さて、ご注文はどうしますか?」
「いつものブレンドを」
お冷やとおしぼりを持って来た香夏子に、巧は立て掛けてあるメニューを見ずにブレンドコーヒーを注文した。
「はい、かしこまりました」
注文を聞き、丁寧に頭を下げてカウンターへ向かう香夏子。カウンター奥には店長、そして彼女の父親の山科純一郎がコーヒーを淹れ始める。黒いエプロンを付ける彼は調理担当。コーヒーからクラブハウスサンドまで全ての料理を一人でこなしている。
ただお昼時には、香夏子の後輩の大学生二人にウエイター・ウエイトレスをしてもらい香夏子も調理を手伝っている。それ以外の時間は基本的に落ち着いている為、親子二人で充分に回る。
事実、今も店内にいるのは、他の客はカウンターに大学生風の女性が一人のみである。
「お待たせしました」っと香奈子が運んで来たブレンドコーヒーにミルクを少々入れてそっと啜りながら、文庫本を開いた。
今回の新刊は中学生の男子が冬に遠く離れた地まで一人で桜を見に行くというストーリー。
両親に黙って夜行バスに乗る主人公の背中を見つめながら、巧は展開するストーリーに夢中になっていく。きっと大人だったら何て事のない普通の事を中学生の視点で進んでいくと、ただ夜行バスに乗るのも大冒険となる。
巧は展開されていくストーリーに次第に夢中になっていく。
主人公がバスターミナルで自身が乗る夜行バスを待っているところで、第一章は終わった。
「ふぅ」
第一章までと決めていた巧は文庫本を閉じて、口から息を吐く。今のところ中々に良い。この後の展開も楽しみだ。
心地良い読後感に浸りながら、少々温くなったブレンドコーヒーに口を付ける。腕時計を見ると来店してから一時間近く経過していた。
これ以上長居すると、香夏子から夕食の注文を取られ兼ねない。
赤い窓枠のすっかり暗くなった景色に視線を移しつつ、そう考えていると、街灯の下に知っている顔を見つけた。
新城沙代である。周囲には誰もおらず、珍しく一人だった。こんな時間まで何をしていたのだろうか? 一瞬、疑問が生まれるが、向こうも自分と同じく金曜日の放課後を満喫しているのだとすぐ結論を得る。
だとしても最寄駅までの帰り道だって常にグループ行動している沙代が、こんな時間に一人でいるのは何故か?
知っている顔という事もあり、つい巧は沙代の動きを目で追ってしまう。また、今店を出ると見つかる恐れがあるので、取り敢えず彼女の前方にある横断歩道を渡ってから、店を出ようと考えていた。そして帰り支度を始めていた巧がふと、忘れていた事実を思い出す。
そう言えば、あそこの横断歩道って信号はないはず……。
一体、沙代は何を待っているのか。白いイヤホンをして下を向いている彼女は誰かと待ち合わせをしているようには見えない。
まさか、横断歩道に信号がない事を気付いてない? ずっと下を向いて歩いていたら、あり得る話ではある。
もしそうなら、出るタイミングを計るのがより難しくなる。巧がそう思った時、沙代は一歩、足を前に動かした。どうやら横断歩道に信号がないのは、流石に気付いたようだ。ほっと安堵する。
「なっ!?」
だがその安心はすぐに消失して、驚きの声を上げる。突然上げた声は予想外に大きく、カウンターでカップを拭いていた香夏子が振り返った。
しかし、そんな事はどうでもいい。何故なら。
沙代が歩く横断歩道の向こうから、大型トラックが来ているからだ。
あの横断歩道は近くに高速道路のインターチェンジがある為、車の流れが速い。加えて横断歩道の手前で下を向いて立ち止まっていた沙代。
スピードを出していたドライバーが彼女には渡る気がないと判断したのも無理はない。白いイヤホンをしている沙代にはトラックの走行音も聞こえないのだろう。
大型トラックが大した減速をせず、走り去ろうとしたまさにその時、沙代の一歩が出たのだ。
コンマ数秒の世界。余計な事を考えている暇はなかった。
もし、例えば沙代の体が浮き上がり、後ろへ飛ばされたとしたら。
巧は右手を振り下ろして小声であの言葉を口にした。
「イエローブースター」
また、全ての音が一瞬、聞こえなくなった。
キーンっと耳鳴りが巧を襲う。痛みが地下鉄で使った時より大きく、顔を歪ませる。
もう片方の細くなった視界で確認すると、沙代の体はフワッと浮き上がり、数メートル後ろに着地をした。立ったままではなく、尻もちを付いている彼女本人は自身に起きた現象に驚いた様子で左右を見回していた。大型トラックも横断歩道を過ぎて一時停止をしたが、彼女が無事だとが分かると、ドライバーは運転席から降りる事はなく走り去って行った。
巧は店を飛び出す。カランコロンと入店時と同じ音が店内に響くが立ち止まって耳を傾けはしなかった。
未だ横断歩道で尻もちを付き、呆然としている沙代の下へ駆け寄る。
「ハァっ、ハァ……っ! しん、じょうさんっ!」
急に走ったので息が上がり口が上手に動かなかった。それでも何とか沙代の名前を呼ぶ。呼ばれた彼女はゆっくりとこちらを振り返る。
「……香月君? えっ、どうして?」
沙代には、どうして巧がココにいるのか分かっていなかった。
巧は息を整えてから説明する。
「さっき、トラックに轢かれそうになってたからっ」
轢かれそうになっていた。その言葉に反応してピクンと肩が動く沙代。
本人なりに状況を察したらしく、立ち上がりスカートを両手で軽く叩く。
「そっか。香月君が助けてくれたんだ。どうりで誰かに引っ張られた感じがしたんだよね。……あはは、誰もいないと思ってたのに、悔しいな」
「悔しいって何を——」
言っているんだ。そう聞こうとした時、頬に一粒の水が当った。
顔を上げれば、夜の空は雲に覆われて、ポツポツと雨が降り始めていた。
自分の荷物は喫茶店に置いたままだし、何よりこんな沙代を放って置けない。巧は彼女の手を取り、もう片方の手で喫茶店を指差す。
「あそこの喫茶店に荷物を置いているんだ。雨も降っているし、良かったら中に入らない?」
巧の提案に沙代は、ぼんやりとした視線を喫茶店に向ける。
緑色のドアは開かれており、香夏子が心配した顔で二人を見ていた。
「うん、分かった」
沙代は弱々しく頷く。二人は喫茶店に入った。
まだ本降りではないのでタオルはいらない。それなのに心配して白いタオルを渡そうとした香夏子に「ありがとうございます、大丈夫ですから」と笑顔で断った。
置いていた通学カバンを自分の椅子に掛ける。そこに沙代は大人しく座ったが下を向いてこちらを見ようとしない。
巧は立てかけてあるメニューを手に取り、沙代に向けた。
「えっと、何か飲む?」
広げられたメニューの端が視界に映ったのだろう。ようやく沙代は顔を上げた。その様子を見て一安心する巧。
ページを捲り、どれにするか悩んでいた沙代の視線が止まったので、決まったかを尋ねると、彼女はコクンっと頷く。
巧はカウンターの方を見ながら手を上げる。
すぐに香夏子がお冷やとおしぼりを持って、やって来た。
「ご注文はお決まりですか?」
巧の時とは違って完全なウエイトレスとして、香夏子は対応する。その方が沙代の負担にならないからだ。その証拠に表情は普段と変わらない。
「カフェラテをお願いします」
「はい。かしこまりました」
沙代の注文を聞いて頭を下げて、香夏子はカウンター奥へと戻って行く。彼女の事だ、カフェラテを持って来るタイミングも完璧なはず。
だからこそ、巧は安心して沙代に尋ねる事が出来た。
「話し辛いとは思うけど、良かったら聞かせてほしい。一人で抱え込むより誰かに話す事で意外な解決策が見るかも知れないし」
「ありがとう、……本当に」
沙代は巧の目を見て礼を言う。その様子は教室でペン回しを教えてほしいと言ってきた彼女とはまるで別人だった。あまりに変わってしまった彼女の態度に何か手掛かりはないかと、今日一日の薄い学校生活を回想する。
こんな事になるような事件は起きなかったはずだ。無論、自分程度の認識ではクラスで何か起こったとしても気付いていない可能性も大きい。
沙代は言葉を迷っているのか。礼を言ったきり、口を開こうとしない。
話さない沙代の気持ちを無視するのが正しいのか。
それとも彼女を尊重するのが正しいのか。
答えなんかどれだけ考えても出ない。それを分かっているのに巧は迷い続けた。そんな彼に沙代が震える口をそっと開いた。
「……どこから話せばいいのかな」
弱々しいがそれでも精一杯、声を発する沙代。巧は彼女が発言してくれた事に安堵しつつ、顔に出さないように注意する。
「香月君から見た私って、どんな人?」
「いつも仲が良いグループがいて、クラスの人気者で、皆が振り返る程の澄んだ声の人、かな」
巧は自身が抱いている印象を惜しげもなく口にする。
そこには嘘も批判もない。
巧の真っ直ぐな言葉を聞いて、初めて沙代は小さく笑った。
「澄んだ声なんて言われたの初めて。ありがとう」
「いや、あくまで俺の中の感じだからっ! 他の人がどう思うかは……っ」
同じ歳の女子を面と向かって褒めたのは生まれて初めてだ。意識した途端、慌ててしまい沙代から目を逸らす。
逸らした視界の隅で沙代は微笑む。
「ううん、それでもありがとう。じゃあ香月君から見た私は、とてもあんな事をする人間には思えないよね」
「ああ、思えない」
頷いて沙代に同意する。彼女が学校生活に不満があるとは、とても思えない。少なくとも自分の目には一切映っていない。
「そっか。でも、しょうがないよ。毎日、同じクラスで授業を受けているだけだから。いちいち細かい事なんて知らないよね。だから、ここまでしてもらって悪いけど、理由は話せないかな」
沙代の言った事は、まるで彼女自身に向けて話しているような印象を受けた。彼女の中に一体何があるのか。それは本人にしか分からない。
人はそんな簡単に分かり合えない。ただ分かった気になるだけ。
そう巧が考えていた時、香夏子がカフェラテを運んで来た。外の冷たい風に当たった体には目の前に置かれたカップから立ち上る湯気は、何よりも魅力的だった。
「うわぁ〜、美味しそう〜」
これまで流れていた嫌な空気がカフェラテのお蔭で暖かく変化する。
「ココのコーヒーは全部美味しいんだ。俺もお代わりしようかな」
少々予算的に厳しいが止むを得ない。それに沙代の前に置かれたカフェラテから上る湯気と香りを嗅いだら、我慢せずにはいられなかった。手を上げて香夏子を呼び、二杯目を注文する。
香夏子は笑顔で了承して、カフェラテの時よりも早く運んで来た。
沙代と合わせる為だろう。空になった一杯目のカップを下げる時、お礼の意味を込めて、小さく会釈をする。
その様子を見て沙代は巧に質問をした。 「この喫茶店にはよく来ているの?」
「まあ、二週間に一回程度かな。駅前のチェーン店みたいに騒がしくないから、落ち着いてコーヒー飲みながら本が読めるんだ」
「いいなぁ……。こういうお店、私は知らないから」
巧の話を聞いて沙代は羨ましそうに呟く。
「新城さんも来ればいいよ。駅から遠いから少し歩くけど、昼時以外は落ち着いているから。ゆっくり出来る」
「ありがとう。今度は私も一人で来てみよっと。確かに落ち着けそう」
微笑んで頷く沙代。その表情からは、とても目を閉じて横断歩道を渡ろうとした人物とは思えない。
どうしてあんな事をしたのか。何か得るものはあるのか。
今までもやった経験はあるのか。疑問は尽きる事なく、湧き上がる。
最初のように優しくではなく、強気に質問するのは簡単だ。答えてくれるかどうかは別として、聞く事自体は難しくない。
少なくともこちらは一回、助けたのだ。先程は理由を話せないと言われたが、強行すればいい。その権利は充分にある。理由を話してくれない沙代に半ば苛立ちつつそう考えていた時、せっかちな口が先に開いてしまった。
「えっと……」
だがいざ、口から言葉が出ると、考えていた苛立ちは瞬く間に萎んでいった。残ったのは行き場のない感情のみである。
「んっ? どうしたの?」
巧の奇妙な言動に首を傾げる沙代。時間が経過する毎に彼女は教室にいる時と変わらなくなってきている。落ち着きを取り戻している証拠だ。
それなのに今また横断歩道の話をしたらどうなるか。
結果は火を見るよりも明らかだ。
「いや何でもない。大した事じゃないんだ」
「そう? ならいいけど。あ、そうだ。香月君、アドレス交換しない?」
沙代は、ブレザーのポケットから携帯電話を取り出した。
「いいよ」
沙代に合わせて巧もブレザーのポケットから携帯電話を取り出す。
巧の携帯電話はストラップ一つないシンプルな銀色の機種だ。特にこだわりがない彼は、0円で購入した携帯電話をずっと使っている。更に家族と以前に住んでいた友人達とのコミュニケーションツールとしてしか使用していないので、機種変更する必要もない。
一方、沙代の携帯電話は白い。それに巧のとは違って、細い虹のストラップが付いている。てっきり彼女ぐらいになるとプリクラを貼っていたり、プリントビーズで装飾していると思っていたが、意外にもそういった事はされていなかった。
「香月君の結構古いタイプだね。赤外線通信はある?」
「大丈夫。あるよ」
巧は滅多に使用機会のない赤外線通信を起動する。
「よーし。じゃあ先に私から送るね」
「了解。……ああ、届いた届いた。じゃあ、次はこっちから」
「うん。お願い」
二人は互いの連絡先を交換した。
自分の携帯電話に新城沙代と表示されるのを見て、そう言えばあの高校でアドレス交換したのは彼女が初めてだと、小さな感想を抱く。
その後二人は、しばらく他愛の無い話を続けた。
ペン回しをかなり練習したので殆ど完璧に出来るようになった事。
期末テストの勉強を怠っていて、このままでは一夜漬けの必要がある事。
冬休みはアルバイトをして、友達とスキー旅行を計画している事。
これまで知らなかった沙代の話を巧は沢山聞いた。教室だったら彼女の予定を聞ける環境はまず作られないだろう。
しかしココは教室じゃない。
だから沙代の話をしっかりと聞けたし、こちらからも話す事が出来た。
盛り上がった話が一段落する頃には、店内にあるアンティークの壁掛け時計が指す時間が、九時を越えようとしていた。
予想外に話が弾んでしまった。流石にもう帰られなければ。既に自分達以外に客はいない。この喫茶店は十時で閉店だから、このままではラストオーダーを尋ねに香夏子がやって来る。夕食を聞きに来なかったのは、話が弾んでいたからだろう。
自身の後ろを見ている巧の視線に気付いた沙代は、振り返り同じ方向を向く。彼と同様に時間を見た彼女は「あっ」っと小さな声を出した。
「香月君、そろそろ帰ろう? これ以上は流石にお店に悪いよ」
巧は赤い窓枠から外に様子を見た。強くはないものの、雨は依然として降り続いていた。
「まだ雨は降っているけど、しょうがないな。少し遠回りになるけど、地下道からなら、濡れずに駅まで行ける」
「うん、そうだね」
外を歩いたサラリーマンの手には手前のコンビニで購入したと思われるビニール傘を差している。既に、コーヒーを二杯飲んでいる巧には傘を買うお金はない。
どうしても最寄り駅からは濡れてしまうが、そこまではどうにかなる。母親には図書館で勉強していたと言えば、まず疑われる事はない。
この後の事を考えつつ、二人は席から立ち上がりレジへと向かう。
自分達が立ち上がった音を聞いてテーブルを拭いていた香夏子がすぐにレジに立った。
「すみません。もう、お店も閉まるのに」
「大丈夫大丈夫。二人はお客様なんだから、そんな事気にしなくていいの。それに今日は巧君が二杯分飲んでくれたしね。遅くても全然オッケー」
「あははっ。そうでした」
冗談を言い合いながら、巧はコーヒー二回分の料金を払った。後ろに並んでいた沙代が申し訳なさそうに青い長財布を取り出す。
「私もすみません。一杯しか飲んでないのに、長居しちゃって。カフェラテとっても美味しかったです」
後ろで巧と香夏子の話を聞いていた沙代は、そう言って頭を下げた。
香夏子はそれに対して、大げさ気味に首を左右に振る。
「ぜーんぜん大丈夫。子供達の居場所を作るのは、大人の役目だもの。遠慮しないで。ウチのカフェラテを気に入ったならまた来てくれると嬉しいな」
「ありがとうございます。また絶対に来ます」
香夏子の優しい言葉に沙代は笑顔になる。
そのやり取りを聞いて、つられて巧も笑顔になった。こういう香夏子だから、彼はこの店が大好きなのだ。
会計を済ませた二人は店のドアを開けた。カランコロンというカウベルの音と共に外の匂いが風に乗って顔にぶつかる。雨が降っているから、入店時とは違って、地面の湿った匂いが混ざっていた。
「そこの地下道から駅に行こう」
「分かった」
巧は駐車場横の地下道の入口を指さして、沙代に提案する。彼女はその提案に頷いて同意した。念の為に巧は沙代に尋ねる。
「もし傘持っていたら、一人で地上から帰ってくれていいから」
「うん。でも、本当に傘持ってないの。だから安心して」
「そうか。ゴメン、変な事言って」
沙代が傘を持っていない事が判明して、これで心置きなく(少し変な言い方だが)地下道から帰れる。
巧は開けていた喫茶店の緑色のドアを閉めようとする。
すると、そのドアを香夏子が止めた。
「香夏子さん?」
「二人共、傘ないんでしょ? ほら、これ使って」
香夏子は二人にビニール傘を手渡す。
「えっ、でも……」
「いいのいいの。どうせ余り物だから。持って行ってくれると助かるし。それに大切なお客様を濡れて帰らせるなんて出来ません」
笑顔でそう答える香夏子。注文を聞きに来るタイミングといいい、この傘といい、彼女には感謝の気持ちで一杯だ。
「ありがとうございます、香夏子さん」
「ええ、もう遅いから気を付けてね」
受け取った傘を開き巧は礼を言う。続いて受け取った沙代も礼を言った。
「何から何までありがとうございます」
「今度来てくれた時は美味しいチーズケーキを用意して待ってるから」
香夏子に礼を言って店を出た二人は地上から帰る事になった。
突き当たりを曲がり、お店が見えなくなる時、巧は一度振り返る。すると、まだ店先に立っていた香夏子と目が合った。こちらに向かって笑顔で手を振る彼女に軽く笑ってから一礼をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます