「第2章 臆病な彼の無意識な勇気」
「第2章 臆病な彼の無意識な勇気」 (1)
(1)
初めてイエローブースターを使ってから、二週間が経過した。
今日もいつもと変わらない朝を過ごして、高校へと通う。
外の気温は下がり、マフラーが手放せなくなった。
一回目の電車の乗り換えを終えた巧は、運良く座れたシートから外の景色を眺めつつ、この二週間を振り返った。
あれからイエローブースターで小さな実験を重ねた。どれも大した事ではない。当たり付きの駄菓子を三回連続で当たりにするとか、テレビのじゃんけんコーナーに必ず勝つといった、事情を知る者がいたら、勿体ないと呆れられるような規模の実験。一日三回しか使えない奇跡を惜しみなく小規模な実験に使用した。
実験で得た結論は、イエローブースターはこれ以上使用しない事。
今はまだ小規模だからいい。だがこれ以上規模を拡大させると、取り返しの付かない結果を生んでしまう可能性がある。
その際に絶対に訪れるであろう罪悪感が既に怖くてたまらない。
巧は非常に臆病な人間だった。
幾度の転校や現在の壊れた家族関係から、彼を構成したのは上昇志向の欠如。安定化されたパターンを好み、新たな変化を極力避ける。
大きな何かを得ない代わりに特別何かを失う事もない。
現状の保存。それが、巧の生き方の指針だった。
だからこそ、どんな奇跡も可能にしてしまうイエローブースターは危険極まりない。普通の男子高校生ならば、それこそ欲望に任せて好き勝手に使うのだろうが、そんな度胸はない。
このまま使わないでいれば、いずれ時間が存在を忘れさせてくれる。
それで構わない。元からないものだと考えればいい。
巧はそう結論付けて、また始まる今日に備えて体力を温存する。彼を乗せた電車は地下鉄に繋がる大きな駅へと到着した。
地下鉄の改札を抜けてホームへと出る。あの日のアクシデントはもう影も形も無い。定刻通りに到着する地下鉄は、巧を乗せてゆっくりと発車する。駅に停まる度に同じダッフルコートを着た生徒達が増えていき、降りる駅ともなれば殆どの乗客はウチの高校の生徒になった。
駅に到着して改札を抜ける。まるで、一つの民族のように同じ格好の生徒達が歩く中に混じって足を進める。周囲の生徒達の声はイヤホンから流れる音楽でシャットアウトされて聞こえない。
余計な物を見ないように視線を下にして、高校に向かってひたすら足を動かした。その道のりは遠く徒歩で約二十分はかかる。その間、たっぷりと曲を聴く事が出来るので、巧はそれが決して苦痛ではなかった。
昇降口から玄関に入り、ロッカーから上履きと教科書類を取り出す。ローファーを脱いでまだ固くて冷たい上履きに履き替える。
今日一日分の必要な教科書類を取った巧は、教室がある三階へ向かう。
転校は中学で終わり。高校入学時に父に言われた事から、それは確定事項である。しかし、今更変わらない環境を手に入れても既に遅く、本当にそれを願った時には戻れない。
巧は現状を全く喜んでいなかった。家から遠い高校では皆、違う種類の人間に見える。一年生の五月にそれを感じ取った彼は、この高校で友人を作らず、クラスで空気のように目立たない存在に徹した。
小さく息を吐いてから引き戸を開けて、教室に入る。
当然誰も巧に視線を向けないが、彼も承知しているので、イヤホンは席に座るまでは外さない。
自身の席に座り通学カバンを机横のフックに掛け教科書類を引き出しに入れる。イヤホンを取りMDプレーヤーをブレザーの内ポケットにしまった。
代わりに通学カバンから文庫本を取り出す。
どこの学校に行って違う制服を着ても巧は、一人の時には常に読書をしていた。誰にも邪魔されず、すぐ物語の世界に逃げる事が出来るからだ。
この習慣は高校生になっても変わる事はない。
騒がしい教室で、それしか知らないかのように毎朝、決まってホームルームが始まるまでの僅かな間、本を読む。
八時四十分、朝のホームルーム開始まであと五分となった時、教室の引き戸が勢い良く開いた。
「おっはよ〜! いやぁ、今日も危なかったあ〜。ギリギリセーフ」
声自体は決して大きくない。
それなのに澄んだ彼女の声はまるで彗星のように教室を一直線に流れた。
声に反応したのは、いつも話している三〜四人のグループ。彼女が自分の机に行くのに付いて行き、そのまま話している。
彼女の席は巧の斜め左下。そのせいか、この時間や休み時間になると、いつも後ろが賑やかだ。
彼女の名前は、新城沙代。
肩まで伸びている枝毛のない綺麗な髪は、毛髪検査で注意されないギリギリ明るさを維持。偏見なく誰とでも親しい為、一人でいるのを見た事がない。顔が整っているのもあるだろう。常に誰かといて人望の高さが窺える。
実際、沙代の他人に対して距離を感じさせない能力は高い。何故なら彼女は巧にも話しかけてきたのだ。
「ねえ香月君、さっきの英語の時間にやってたペンのヤツ、どうやるの?」
授業と授業の十分程度の休み時間。にも関わらず、自身の下に集まってくる友人達に「ちょっとごめん」と謝り、沙代は巧の所へやって来た。
「えっ?」
二年になって約九ヶ月。クラスメイトとの会話などまずしていない巧は突然話しかけられた事に動揺してしまう。
小さく咳払いをして喉の調子を整えてから、沙代に事情を尋ねる。
「ペンのヤツ?」
「ほら、こう。クルってやるヤツ。さっきの授業中、ずっと後ろから見てたんだけど、全然出来なくて」
手に持っていた白のシャープペンを回す仕草をする沙代。
「これの事?」
筆箱からシャープペンを取り出して、沙代の前で回す。彼女は目を輝かせて「それっ! どうやるの?」っとやり方を尋ねてきた。
澄んだ沙代の声はどうしようもなくクラスの注目を集める。
あの二人が何を話しているのか、周囲が注目しているのが空気を通して伝わってくる。沙代の机の周りから、いつも話しているグループの冷たい目が彼女の後ろ越しに向けられる。耳の裏がカッと熱くなった。
「そんな大した事じゃないから。えっと、こうやって……」
「うんうん」
巧の手を見ながら持ち方を真似する沙代。注目の視線は依然こちらに向かったまま固定されている。
一刻も早くこの空気を終わらせたい。逸る気持ちが嫌な汗をかかせる。
こちらの手元を見て練習を重ねる沙代を余所に巧は、黒板の上にある壁掛け時計を一瞥する。
残り、六分ちょっと。
いつもはあんなに進みが速いのに、こういう時に限って変に遅い。
秒針の気まぐれに苛立ちながらも巧は熱心に聞く沙代にやり方を教えた。
「うわっ、出来た。なるほどこういう感じなんだ」
何度も目の前でシャープペンを回して見せた結果、沙代は数回に一回だが成功するようになった。一回でも成功したら、後は力の入れ具合の問題なので練習をすれば出来るようになるだろう。
何とか休み時間内に教え終わる事が出来て安堵する。この調子ではもし、終わらなかったら次の休み時間も来たかも知れない。
そうなったらこっちの身が保たない。このクラスになって、もう大分経つのに彼女はそんな事も分からないのか? それとも、分かる分からないなんて最初から、向こうにはないのか。おそらく後者だ。
満足そうにシャープペンを回す沙代。
彼女が成功するのを見計らっていたように今になってチャイムが鳴る。
「あっ、もう次の授業か」
「後は、自分で練習して」
もう来ないでほしいという真意を裏に隠して、沙代に伝える。
そんな巧の意図は全く伝わっておらず、満足気な笑みを浮かべた沙代は、スカートのポケットに手を入れて、何かを取り出した。
「ありがとう香月君。手、出して」
言われた通りに手を出すと沙代の閉じられた手が巧の手の上で開かれる。
白く細い指が自分の手に微かに触れた。そして重力に従い小さい何かが、巧の右手に落ちる。
それは、半透明の包装紙に包まった四角いキャラメルだった。
「お礼。じゃあね」
手を振って沙代は自身の席に帰って行く。チャイムが鳴ったので彼女の机にいたグループも知らない間に各々の席に戻っていた。
ちゃんとお礼が言える人なんだ。
キャラメルをポケットにしまって話す前まで思っていた沙代に対する印象をあらためる。
机の引き出しにから勉強道具を取り出す。ノート、教科書、問題集。基本的な物を取り出して、後は担当教科の教師が訪れるのを待つのみとなった。
そのほんの数秒。十分間のロスタイム。
巧は沙代に教えていた事でずっと出していたシャープペンを手に取り、何気なく回す。クルっといつもと変わらず回るシャープペンに、たまには役に立つもんだと感想を抱いたのだった。
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