「第1章 それは優柔不断な朝から始まった」

「第1章 それは優柔不断な朝から始まった」 (1)

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「……イエローブースター」


 いつもと変わらない白い天井に香月巧は、そう呟いた。


 カーテンの隙間から入る太陽光。耳元で携帯電話のアラームが鳴っていた。軽快な電子音は先程まで見ていた夢の内容を急速に希薄にしていく。


 携帯電話を黙らせて体を起こした巧は、まだ機能していない頭を掻きながら、本日最初の欠伸をする。


 昔の夢を見た。


 身長から考えてまだ小学生頃。となると、十年近く前になるか。


 昔の夢を見る事はたまにある。疲れていたりすると特に見やすい。


 その多くは、友人達と遊んでいる夢や学校生活の夢だ。


 転校が多い家に生まれた自分は、夢の中で別々の学校の友人達が混合した状態でクラスにいる事がある。その時点では疑問を持たないのに目が覚めて数秒すると違和感につい笑ってしまう。


 だが、今日はそれには当てはまらない。


 あの公園はどこだろう。公園の風景には見覚えがある。それなのに詳しい事は思い出せない。ああ、面倒だ。もうちょっとで思い出せそうなのに。


 朝から鬱々とした感情が巧に寄ってきたが、結局思い出せない事が分かり、気持ちを切り替える。


「ふう」


 一分一秒が貴重な平日の朝、無駄遣いは出来ない。


 ベッドから降りて、寝間着を脱ぎ壁に掛けてある制服に着替える。毎日同じ動作の繰り返しである為、無駄な動きはなく体が勝手に動いていた。


 姿見を見ながら、学校指定の紺のネクタイを結び、リビングへと向かう。


 南向きのリビングは、太陽光をよく通す。そ蔭で明かりはいらなかった。


 予め、出勤前に母親がテーブルに並べてある焼いた食パンと目玉焼き、それにまだ温かいベーコンの香りが鼻から胃を刺激して食欲を促す。


 既に朝食を食べ終えたらしい父は新聞を広げてコーヒーを啜っていた。


「おはよう、父さん」


「ああ」


 短い挨拶を交わして、巧は用意された自身の朝食を食べ始める。食パンを一口齧って、リモコンを手に取り、テレビを点けた。


 ニュース番組はこの冬のイルミネーション特集をやっている。


 巧が知りたい情報は、天気やニュースなので興味はない。けれど別のチャンネルに変えて探すよりは、いずれやるはずだと、流し続けていた。


 ハイテンションの女性アナウンサーが紹介するイルミネーション特集を聞き流しながら、淡々と朝食を口にする。目の前に座る巧の父はテレビに興味を示さず、それしか出来ない機械のように新聞の活字を目で追っていた。


「母さんは?」


「いつも通りだ。先に出掛けた」


「そう」


 いつも通りじゃないのを期待して毎回尋ねているが、答えは変わらない。


 巧は両親が事務連絡以外の会話をしているのをもう二年以上聞いていない。直接的な理由は知らないがおそらく父にあるだろうと推測している。以前、夜中に大声で喧嘩をしているのを聞いた事があるからだ。


 その時の会話はとても聞くに堪えなかった。相手の尊厳を蔑視するもので、その夜は人生で初めてイヤホンをして眠ったのを覚えている。


 あの日以降、二人の会話が失われて、現在の環境が出来上がった。


 巧の母は結婚前から働いていたが、父の仕事の都合上、引っ越しが多かった事から専業主婦として働いていた。だが今は、近所の中小企業に事務員として、パートに出ている。


 働きながらも母はきちんと家事を行なっていた。それは父に隙を見せない為である。毎朝、絶対に用意される朝食からそれが伝わってくる。


 当の父は大して気にしていないようで、母のパートに口は出さなかった。


 巧としては両親の問題に子供が口を挟むと厄介になりそうだと、直接意見はせず、間接的に父に母の様子を尋ねる程度に抑えている。


 テレビ画面左上に表示されている時刻は、七時三十分。


 それまで新聞を読んでいた父は立ち上がり洗面台へ。歯磨きと髪のセットをしてから玄関のドアを開けて会社へ向かった。


 ガチャリと外から鍵をかける音が聞こえる。


 一人になった巧は食べ終えた食器を台所で洗って水切りカゴに置く。


 父を含めて二人分の食器を洗い終えた巧は、やっと始まった天気予報コーナーを立ったまま見てからテレビを消して洗面台へ行く。歯ブラシを口に咥えながら自室に入り、学校の用意を揃える。


 昨夜終えた課題プリントをクリアファイルに入れて、通学カバンに入れた。自室から出る際に通学カバンを玄関へ置いておく。


 歯磨きを終えるとリビングに戻り窓の施錠を確認してカーテンを閉めた。


 太陽光が遮断されて真っ暗になったリビングのドアを閉めて、自室のクローゼットを開けてブレザーと学校指定のダッフルコートの袖に腕を通す。最後にマフラーを巻いてから玄関に立った。


 玄関の姿見で自分の姿を確認後、ローファーを履き玄関のドアを開ける。


 ドアの閉める直前に巧の口が小さく開く。


「行ってきます」


 当然、返事は返ってこない。それでも習慣として巧は毎朝言っていた。


 外に出た途端に季節を象徴する風が巧を襲う。思わず顔をマフラーに埋めた。少し前までは暖かかったのに今まで忘れていたのを慌てて取り戻すかのように今週から急激に寒くなった。


 今後、この寒さが日に日に勢いを増していくと思うと、マフラーは手放せない。そんな事を考えながら、巧はブレザーのポケットからカナル型のイヤホンを取り出して両耳に入れる。耳に入るゴムの冷たさに小さく震えて、イヤホンに繋いだMDウォークマンの再生ボタンを押した。


 MDには、レンタルビデオ店で借りたアルバムを録音してある。ディスクはいつも二枚あり、二枚目の半分まで聴く頃に学校に着く。


 最寄駅までの一本道。


 軽快な音楽と共に黙々と歩く。途中で何人かの学生にすれ違うが彼らとは制服が違う。それだけで同年代なのに全く違う生き物のように見えた。


 巧が通っている私立高校は、この最寄駅から通っている生徒は他に一人しかいない。しかもその一人は顔しか知らず一度も会話をした事がない。


 だから、彼は余計な心配をせず、安心してマフラーに顔を埋めて、耳から流れる音楽に集中出来た。


 最寄駅に着き、財布から磁気定期券を取り出して改札を通る。


 最初は大人の一員になった印象を持ったこのアイテムもすっかり書店のポイントカードに混じって財布に溶け込んでいる。


 最寄駅から一回乗り換えて、大きな駅まで行ったら今度は地下鉄に乗る。


 その間、余裕があれば文庫本を開き、無かったら目を瞑って過ごす。


 これがいつもの登校風景。


 現在の高校に入学してからあっという間に一年が過ぎて、二年生となった巧の朝だった。


 桜が咲いて過ごしやすい穏やかな日も。


 歩くだけで汗が滝のように出る暑い日も。


 今日みたいに風が容赦なく寒い日も。


 慎重に歩かないと転んでしまう雪の日も。


 この朝は崩れなかった。


 ところが、今朝はそれが崩れるイレギュラーが起きてしまう。


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