第19話 マナーと誤解と再会

「ひぎぃっ‼」

 背中に走る痛みに、何とも情けない悲鳴を上げてしまう。

 アプロディタ様が言っていた通り、クレメンチーナさんは滅茶苦茶怖い人なんだと分かった時には、遅かった。


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「礼儀作法、後回しになっていたが、本日よりこれも指導開始だ。小娘、本日より、ヤーニャの授業の後から、クレメンチーナによる指導を受けろ。」

 ジークリンデさんと共にお叱りを受けた翌日の早朝、アプロディタ様の自室に呼ばれ、眠そうな表情のアプロディタ様からそう告げられた。

 完全にやらかした直後なので、私には「はい。」と答えるしかなかった。


 その日からクレメンチーナさんによる、作法や所作、つまり、マナー講座が始まることとなった。

 当初言われていた予定よりも早く始まったマナー講座、想像力を働かせながら、見様見真似でやっていた私のマナーは、よっぽど酷かったのだろうか?

「リリー様、先ずは立ち方から矯正していきます。」

 クレメンチーナさんの言葉。矯正って…椅子に腰掛けながら、そんな感想を抱く。

「お、お願いします…」

 アプロディタ様が恐れる彼女に、怯えながらそう返事をする。

「はい、宜しくお願い致します。では、お嬢様に申し付けられておりますので、厳しく行いますが、御容赦下さい。」

 ペコッと一礼するクレメンチーナさんだが、一瞬キラッとその目が光ったのを、私は見逃さなかった。


「では、リリー様、お立ち頂いてもよろしいでしょうか?」

 丁寧な疑問形だが、実質命令だ。

「はい。」

 私の思い付く限りの優雅さを表して、立ち上がる。

「お話になりません。やり直しです。」

 シュルル、と伸びて来た糸が身体に巻き付き、無理矢理椅子に座らされる。

「あ、あのぉ…これは…」

 ガッチリ縛り付けられた私は、痛い程締め付ける糸に疑問を呈する。

「矯正と申し上げた筈ですが?」

 それ以上の反論を許さない声と目に、泣きそうになる。クレメンチーナさんの顔はいつも通り無表情だが、その目は獲物を狩る狩人の目だ。

「はい…」

 それ以上何も言えず、正しい所作を習い立ち上がる。

「違います。何度言えば分かるんですか?」

 ギュウっと糸が私を締め付ける。自分でも何度目になるのか分からない程やり直し続け、脳死状態なる。

 それから、漸く合格を頂いた立ち方。それを起点に、様々な場面に応じた所作を習い、行う。

「お話になりません。もう少し強い罰が必要な様ですね。」

 呆れた様子で溜息を吐いたクレメンチーナさんは、馬用の鞭を手にする。

「さあ、もう一度。」

 鞭を掴む手とは逆の掌で鞭の先を握り、クレメンチーナさんが言う。

 何度も鞭に打たれ、脊髄反射的に動かざるをえないまでに、様々な所作を痛みで叩き込まれる。そんな日々が続く。悠々自適な生活を思い描いていたけど、貴族って、大変なんだなぁ…そんなことを、完全に脳死した状態で考えていた。


「やってるわね。」

 数日後、愉しそうな表情を浮かべ、マナー講座が実施されている部屋にヤニーナ様が入ってきた。その後ろには、渋い表情浮かべたアプロディタ様の姿もある。

「ヤーニャ…我を何故連れてくる…」

 狩人の瞳となっているクレメンチーナさんを見て、アプロディタ様は苦々しくそう言う。アプロディタ様の表情や口調で、私はなんとなく察する。きっと、彼女もこの精神を完全に破壊され、思考を停止し、ただ身体に叩きこませるだけのマナー講座を受講したのだと。

「あら…ローディ、顔色が悪いわよ。」

 これまた意地悪そうな笑みを浮かべて言うヤニーナ様。

「別に何でもない…」

 苦虫を嚙み潰したような表情で、アプロディタ様は呟く様に答えるが、その目は、常にクレメンチーナさんから逸らされている。

「そう、ならいいけど…ねえ、ローディ?話は変わるのだけど、指導が少し甘いとは思わないかしら?」

 悪魔は、私とアプロディタ様に対し、邪悪な笑みを浮かべてそう言う。

 この人には、血が通っていないのだろうか?

「そ…そうか?我は十分だと思うが…」

 ひたすらにクレメンチーナさんを視界から外す様に視線を逸らし続けるアプロディタ様がそう答える。

「ふふ…ローディ、貴女ももう一度指導を受けてみたら?」

 そんなアプロディタ様の肩にもたれ掛かり、ヤニーナ様が言う。その言葉に、ビクッと震えるアプロディタ様。

「おや、名案ですね。最近のお嬢様は―」

 クレメンチーナさんがそれに同意した時、

「いかん!!仕事が残っておった!!我は戻るが、小娘、しっかりとクレメンチーナの指導を受けるのだぞ!!」

 青い顔をして大きな声でそう言い放ち、私の返事を待たずに一瞬で姿を眩ませた。そう、本当に一瞬で。


「相変わらず、本気でお逃げになられたら、追いつきませんね…」

 昔を思い出す様に小さく笑うクレメンチーナさん。

「でも、久しぶりに良いお灸になったんじゃないかしら?私たち貴族にとって、教育係っていう存在は、最も恐ろしく、最も信頼出来る存在…それを思い出したと思うわよ、トラウマと一緒にね。」

 煙草に火をつけながら、クレメンチーナさんを見つめてそう言うヤニーナ様。

「しかし、それも保って数日だけでしょう。お嬢様は、如何なる罰よりも、己の楽しみを優先される方ですから。」

 ヤニーナ様の言葉に、同意しつつも呆れた様子で答えるクレメンチーナさん。

「全くもって同意よ。でも、そんな彼女だから、私たちは傍にいないといけないのよ。」

 煙を吐き、何処か遠くを見つめるヤニーナ様。

「ええ、分かっております。」

 先程までの微笑みが消えたクレメンチーナさん。彼女たちの思いも、考えも、何一つ分からない。しかし、彼女たちふたりには、きっと何か共通した思いがあるのだろう。そう感じた…

「リリー様、何をボケッとしているんですか?」

「ひぎぃっ!!」

 そんな思案に耽っていた私に、鞭の一撃が振るわれた。





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「姉御、あのクソガキをどうするつもりだ?姉御の子分にするには、色々と足りてねぇぜ。というより、利点がねぇだろ、あいつ。」

 マナー講座が行われている部屋を出ると、廊下の端で待ち構えていたジークリンデが、そう言いながら我の後ろをついてくる。

「確かに、あの小娘は弱いし、真っ当な教育も受けていない。教育したところで、政治も軍事も、突出した才能はない。まあ、職人としては、一流にはなるだろう。あの頑固親父を越えれるかは分からぬがな。」

 率直な感想だ。

「なら、職人として囲うのか?それだとしても、もっと腕の良い奴はいるぜ。姉御の資金力なら、そいつら数人囲うのも容易いだろ。」

「あの頑固者が生きておる限り、他の職人は不要だ。」

 お抱えだというのに、一切命令に従わぬバンク・ペチェノという男がいる以上、他の職人は必要ない。扱い辛いが、腕は紛う事なく天下一品だ。

「なら、ますます分からねぇ。あのクソガキがなんで要るんだ?」

 そう問うジークリンデの声には、様々な感情が入り混じっている。

「そうだな…気まぐれ、だろうか?なかなかに愉快だろう?あの小娘は。それに、なんとも愛らしいではないか。偶には、ああいうのを愛でるのも一興と思ってな。まあ、我の方が愛らしいし、何よりも美しいがな。」

 笑いながらそう答えると、ジークリンデは呆気にとられた様に、目をまん丸にしている。

「あ、姉御は、そういう趣味…いや、それならそれでいい。なら、あのクソガキの護衛、ちっと色を付けてくれよ。」

 少し引き攣った顔でそう言うジークリンデ。

「よかろう。お前は良い働きをしておるし、小娘も懐いておるようだ。次回の報酬は良い方へ考えておこう。お前も小娘同様、我は気に入っておるのでな。」

 そう微笑みかけてやる。嘘偽りない本心だ。ジークリンデは我の配下にはいないタイプだし、何より、生き残れば勝ち、という清々しい価値観は好きだ。故に可能な限り重宝したいと思っている。

「お、俺にはそっちの気はねぇんで!!」

 そんな我の言葉に、少し頬を紅潮させて、我から逃げる様に走り出した。

「おい、廊下を走るな!!」

 そんな注意をしながら首を傾げる。はて、何故逃げるのだ?別に怖がらせる様なことは言っておらぬし、寧ろ褒めてやったのだが…

 ああ、そういうことか。あまりにも美しい我に褒められ、照れたのか。全く、我も罪な女だな。


 まあよい、我も仕事をするとしよう。別棟に向けて歩みを進める。

 奴らも久々の仕事だ。腕が鈍っていないか、少し見てやるとしよう。





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「だからまだ結婚してねぇのか…」

 姉御の元から走って逃げた後、一息ついてそう呟く。

 抱いていた疑問が一つ解消した。解消したのだが、出来れば知りたくなかった。…いや、知れたから対策出来るだけ、知ることが出来たのは良かったのか?

「まさか、女色家だったとはな…」

 姉御、あのアプロディタという女は、大陸でも一番歴史のある名門中の名門たるエルドグリース家という大貴族の娘という、家格は最高クラスであり、その上、桁外れで規格外の出鱈目に膨大な魔力を有し、挙げ句にゃ、あの容姿。縁談が来ないなど絶対にあり得ない筈だ。

 それなのに、婚姻どころか、恋人の話も、浮いた話一つ無いというのに違和感があったのだが…先程の会話で疑問が解消された。

「女に抱かれたことはねぇなぁ…」

 生きる為に、身体を売ったことは何度かある。買い手は毎度傭兵の男だった。

「俺はまあ、金次第でそういう関係になってもいいが…」

 選択肢としては考えてもいい。よく考えりゃ、楽に稼げるし、愛人となれば言うけど身の安全も確保出来る。この世で一番強ぇ姉御の愛人となりゃ、世界で一番安全ともいえる。

「しかし、あのクソガキはおぼこだし、歪んじまうだろうな…」

 ツインテールのアホ面を思い浮かべる。あのクソガキ、テメェが売られているのに気付いてねぇんだろうなぁ…

 恐らく、マナーを叩き込まれた後、姉御のお手付きになるのだろう。

「まあ、どうでもいいか。俺は、俺が生きてりゃそれでいい。」

 俺は俺で、俺に姉御の触手が伸びて来た時に考えるとしよう。そうと決まれば…

「酒だな!!」

 屋敷を抜け出し、今日も坑道市ヘ向かう。





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「クソっ!!」

「ふん、またお前の負けだな。」

 勝ち誇った笑みを浮かべた男は、机に置かれた金貨をつまむ。

「こうなりゃもう一回だ!!」

「私は別に構わんが、お前、もう金がないだろ。」」

 悔しさに机を叩く俺に、男は呆れた様に言う。

「全く、毎月毎月、飽きないものだ…毎回有り金全部スッて、挙句私にたかりに来るのだから。」

 そう溜息を漏らす男。

「しょうがねぇだろ、こんな何にもねぇ所にいんだ。少しの楽しみくれぇ。」

 シャンバルという閉ざされた世界にいるのだから。

「だからといって、毎回全財産を賭け事に注ぎ込むな!!」

 バンッと机を叩き男は怒鳴る。

「そうカッカすんなって。折角坑道市に来てんだ、賭けだけじゃなくて酒も楽しもうぜ。出来りゃあ、女も買いてえが…」

 チラリと男を見るが、

「人の金で娼館に行けると思うな!!この馬鹿者!!」

 怒鳴られる。

「そもそも、我らは身に余る幸運で誇り高いお役目を授かっているというのに、そんな我らが娼館など、言語道断だ!!」

「お堅いこって。」

 しかし、誇り高いお役目ねぇ…俺ぁそう思わねぇけどな。

「別に俺ぁ、オメェみてぇにお嬢に心酔してるわけじゃねぇし…」

 あの圧倒的な強さに惹かれて下についているが、こいつの様に、全てを投げ棄てれる程の思い入れはない。

「お前に今更口調や作法を正せと言っても無駄なのは分かっている。しかし、せめてお嬢様と呼べ!!それに、認められぬが、お前の言い分を考慮しても、責任ある役職だという自覚は持て!!」

 育ちが良いせいか、こいつは所々頭が固い。それがこいつの長所でもあり、短所でもある。


「っかぁーーーっ!!やっぱ酒があっての人生だぜ!!」

 奢って貰った酒瓶の内一本をそのまま一気に半分程飲み干す。

「品の無い…グラスは何のためにあると思っているんだ…」

 呆れた様子で溜息を漏らす奴は、俺とは対照的に、お上品にグラスに注がれた酒をチビチビと口にしている。

「マナーだなんだというけどな、酒にはそれぞれ正しい飲み方ってもんがあんだよ。こういう安酒の場合、お上品に飲む方がマナー違反だぜ。」

 へへっ、と笑い、そう言う。

「こればっかりは今だに慣れない。…いや、立場上、これに慣れるわけにはいかん。」

 俺とは真逆の世界で生きてきたこいつには、こういう世界は慣れようと思っていようと、いつまで経ってもどこか遠い世界なのだろう。

 堕ちてきたこいつと、這い上がってきた俺。その二人がこうしてテーブルを挟んで酒を酌み交わす。すっかり慣れてしまったが…世の中、何があるか分からないもんだな。


「そういや、お嬢のお気に入りになったガキ、どう思う?」

 ひと月程前、このシャンバルに遣いとしてやって来たガキ、それが何故かあのお嬢のお気に入りとなり、屋敷で様々な手解きを受けながら過ごしている。

「どう、と言われてもな…私は、主がそう決めたのなら、それに従うだけだ。」

 少し考えながらも、模範解答をする。

「いや、そういうことじゃなくてだな。今はガキだが、順当に育ちゃぁ、中々いい女になりそうだと思わねぇか?」

 初めての謁見の時に見ただけだが、やせ細っていくいるが素材は良かったと思う。お嬢の庇護下で真っ当に、いや、普通では考えられない程の贅沢な暮らしをして育てば、きっといい女になるに違いない。

 そんな俺に奴は何も言わずに溜息だけを吐く。

「なんだよ?」

「いや、呆れてもう何も言う気になれんだけだ。」 

 そう言ってもう一度溜息を吐き、酒をチビチビと口に運ぶ。

「おめぇよぉ、お上品に振る舞ってるけどよぉ、男は枯れたら終わりだぜ。いい女に反応しなくなった時、そりゃ、終わりの時だ。」

 そう言う俺に、

「先ずは自分の歳を考えろ。あの娘が成人する時、お前は爺だ。」

 俺は今四十六歳。あのガキが成人する頃となれば…五十二歳か。

「五十二で爺かよ、若者は厳しいねぇ。そんじゃあ、俺らの隊長は、棺桶に入ってるってこったな。」

 俺たちの上官の姿を思い浮かべながらそう言う。

「節操を持てと言っているだけだ。隊長を愚弄するな。」

「別に愚弄なんかしてねぇさ。俺だってあいつにゃぁ、一目置いてる。」

 老いてなお、いや、老いるまで生き残り、戦い続けてきた男は、その経験と勘、そしてその技術において、勝る所はないと思える。こんな俺だって、流石にそんな相手には敬意を持つさ。

「なら、もう少し敬えよ。」

「お生憎様、そういう礼儀を教わってねぇんだよ。」

 酒瓶を煽りながら、そう答える。人生の後半に入ってから知った、今までとは違う世界。これもこれでいいもんだ。そう思いながら、酔いが回っていく心地よさ、さて、これからどう生きようかねぇ…

 取り敢えず、この二回りも年の離れた男の行く末は、可能な限り見てやろう。そう思った。


 そんな俺の柄にもない思考を中断させる様に、湧き上がる歓声が響く。

「何だ?急に騒がしくなったな。」

 男が坑道市の中央付近から湧き上がる騒ぎ声に振り向く。

「喧嘩でもおっ始まったか?」

 俺は、酒瓶片手に立ち上がり、男と共に、その騒動の現場に近寄った。

 そこで見えたのは、女に飢えた坑道夫たちが、酒を片手に輪を成して馬鹿騒ぎする様。そんな男共を湧き立たせているその中心に一人の女がいた。

「おらおら!次だ!なんだぁ!俺に勝てる奴はいねぇのか!?」

 大笑いしながら、空になった酒瓶を地面に叩き付けながらそう叫ぶ女。ぼさぼさの真っ赤な髪は長く伸びきっており、その長い髪で顔の左半分を隠しているが、遠目でも分かる、整った顔立ちに、男たちを魅了する大きな胸に、キュッとしまった腰つきに、引き締まりながらも程よく肉の付いた臀部とスラッと伸びた脚。

 一言で言うのなら『いい女』。そんな女が、酒で火照ったのか、薄着になっているのだから、こんな坑道にいる男でもには、たまったもんじゃないだろう。

 まあ、女の方はそれを上手く使い、ただ酒にありついているみたいだが…


「な、なんと破廉恥な…年頃の婦女子がして良い格好ではない!」

 そう強い口調で言いながらも、顔を赤くして視線を逸らしながらも、チラチラと見ているお坊ちゃんをニヤニヤと見る。青いねぇ。

「随分といい女に育ったじゃねぇか、ジークリンデ。」

 もう何年前だ?まあ、そんな細けぇこたぁ、どうでもいいか。

 久しぶりの再会だ。いっちょ挨拶でもしてやるか。


 そう思い、一歩踏み出した。






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