第14話 初授業
「保護者からの頼みで、小娘は暫くこちらで預かることとなった。」
騎士団の滞在最終日、出立の準備を終えた騎士団の面々に、先日同様、軍服姿のアプロディタ様が朝食の席でそう言う。
昨晩私の所に謝罪に来たアンナさん一人を除き、団長だけでなく、騎士たちも少々驚いた様子で、少しざわつくが、すぐに収まる。
まあ、突然名門のお嬢様が、貧乏貴族の養女を預かるとかなったら、訳が分からずに驚くのも無理はないのかもしれない。因みに、昨晩アンナさんにはその旨を伝えている。その時の、羨望と憎しみに塗れた表情は今も忘れられない。
そんなこんなで、食後防寒具を身につけ、アプロディタ様と共に騎士団の見送りをする。貸してもらった防寒具は、今まで使っていた物が何だったのだろうという程、寒さを防ぎ、着心地も最高だった。
見送りの馬車には、行きは食糧が大量に積まれていたが、帰りには、大量の魔石が積まれている。あの馬車一台分の魔石だけで、質素な生活を送るなら、何人もの人々が生涯生活していけるだけの額になる。そう考えると、彼らは、とんでもない緊張感の中で積荷を運んでいるだろう。積み荷にそれだけの価値があると分かる者も少なくないだろうし、行きよりも警戒や緊張は高まっている筈だ。
騎士団がわざわざ駆り出される訳だ。
「さて、小娘。我は危険区域を抜けるまで、彼らのに同行する。昼までには帰ってくるだろうから、それまでは、ヤーニャの指揮下に入っていろ。」
「?分かりました。」
アプロディタ様の仰る、危険区域というのが何か分からないが、なんだか彼女の口調から、騎士団がアプロディタ様を護衛するというより、その逆に聞こえる。実力的には間違ってないけど、立場的には逆だろう。
行きに、私が乗っていた馬車に、アプロディタ様が乗り込んだところで、騎士団が出発する。その背中に、暫く手を振り、お屋敷へと引き返す。
如何に優れた防寒具とはいえ、肌が出ている部分は寒い。顔なんかは、冷たい風に晒され、赤くなっているだろう。
「温か~い。」
このお屋敷は、そんな冷えた箇所が痛くなる程温かい。この中で快適に過ごしていたら、元の生活に戻った時に、耐え難い冬、極寒の我が家に帰った時に、凍死してしまうんじゃないかと不安になる。
廊下を進み、食堂に戻る。
「帰って来たわね。」
食堂に一人残り、煙草を吹かしていたヤニーナ様が、私にそう言う。
「はい、アプロディタ様に、ヤニーナ様に指示を仰げと言われました。」
彼女の側まで行き、そう告げる。
「ええ、分かっているわ。早速だけど、軽く導入としての授業を行うわ。とは言っても、教材が無いから、書庫に行って、必要な物を取って来ることから始めるわよ。…本当、面倒くさい。」
気怠そうに、煙を吐きながらそう言う。なんで引き受けたんだろう…
「アプロディタ様が仰っていたんですけど、危険区域ってなんですか?」
別棟の二階にあるという書庫に、ヤニーナ様と数人の侍女と共に向かっている途中、そんな疑問をぶつけてみる。
「危険区域、言葉通り、強力で凶暴、人の手に負えない魔法生物が闊歩する区域の事よ。この屋敷から離れたらすぐにそこに入り、そこから馬車の速度で三時間程度の範囲が特に危険で、そう呼んでいるのよ。」
成程、お屋敷を離れたらすぐ…
「私、見送りに出て、無事に帰ってこれたのって、奇跡か何かですか。」
さっきの騎士団の見送りでさえ、危険だってことじゃん。
「一人だったなら、そう言えるでしょうね。ローディがついている限り、大丈夫よ。彼ら野生の生物は、本能という部分が優れているの、自分よりも圧倒的な強者の側には、服従以外では近づかないのよ。だから、あの子の周辺が、最高の安全圏となるの。」
つまり、この魑魅魍魎が跋扈するシャンバルにおいて、最も安全な場所がアプロディタ様のいる場所ということ、あの人本当は女神様なんじゃないだろうか?どう考えても、強さが人の域を超えている。
「あれ、でも、アプロディタ様が離れたら、お屋敷が危ないんじゃ…」
「ああ、それは大丈夫よ。この屋敷の建築は、彼女がやってるから、地面から、壁や柱の一本一本まで、嫌という程流し込まれたローディの魔力のおかげで、魔法生物は近づかないわよ。」
私の不安など、不要だと。ヤニーナ様は即答でそう返す。
「そもそも、ここが危険になるのなら、私はローディと一緒に行動するし、それが無理なら、縛り付けてでもここから出さないわよ。」
成程、ヤニーナ様が普通にここにいるってことが、安全の証明ってことか。褒められた理由じゃないけど、説得力がある。
「でも、騎士団を護衛するお嬢様って、なんだか普通とは逆ですね。」
昔、絵本で読んだ騎士の物語とは真逆だ。
「ローディを守れて、彼女よりも強い存在がいるなら、それはそれで問題よ。」
仰る通りです。アプロディタ様みたいなのが複数いて、戦い始めたら、大陸は無人の荒野と化してしまうだろう。
「書庫って、倉庫みたいなイメージでしたけど、どっちかっていうと教会の図書館みたいですね。」
別棟二階、その奥、案内された扉の先は、大量の棚にこれまた大量の本が並んでいる。
「今でこそ本は少し高価とはいえ、誰でも読めるようになってるけど、かつては富と権力の象徴の一つよ。本は知識、その知識を独占することで富も権力も独占出来たのよ。教会が、教会の人間以外が教典を読めなくしたみたいにね。」
知っているか知らないか、その違いは大きい。その程度なら分かる、でも…
「教典って、読めた方がいいんじゃないですか?教えを説いてるわけですし。」
そんな私の疑問に、ヤニーナ様は、
「まあ、その辺は、歴史や宗教について学べば分かるわ。ただ、簡単に理由を言えば、支配者からすれば、被支配者は何も知らない方が楽なのよ。善悪の区別さえね。」
そう言いながら、書庫の中に入っていく。
「皆が勉強出来て、知識を持ってる方が、いろいろと発展する気がするんですけど?」
疑問を口にしながら、その後をついていく。
「その通りよ。でも、安定した支配、搾取する側からすれば、有能で優秀な労働者よりも、無知で真面目な奴隷が最も理想なのよ。歴史には何百年もの間、暗黒期と評される様な、発展しないどころか、退化した時代があるのよ。それが、そういう支配体制が産んだ弊害であり、未だに続く、悪しき習慣と価値観に繋がっているのよ。」
「悪しき習慣と価値観ですか?」
「『貴族には、青い血が流れている。』なんて、本気で言ってる連中が最たるものね。…ああ、ローディにはその言葉や、そういう、貴族と平民を区別する様なことを絶対言ったら駄目よ。最悪命の保証は出来ないわ。」
アプロディタ様が、身分制度に対して何を考えているのかは分からないけど、最悪死ぬ程度の怒りを買うということは、そういう身分差というものに対して、寛容な考えを持っている可能性が高いのだろう。というより、同じ貴族とはいえ、月と鼈位には差がある私に対しても、寛容に接してくれてる(最初はちょっと傲慢な印象だったけど)し、寛容な考えをお持ちなのだろう。
「さあ、さっさと運びなさい。」
次々と渡される分厚く、重い本が、私の情けない細腕に積まれる。
「ヤニーナ様!無理、無理です!もう持てません!」
どんどんと積まれていく本の重みで、腕がプルプルと震える。
「ちんたらしてると、ローディが帰って来るわよ。」
そんなことを言われても、無理なもんは無理だ。
「そもそも、何処に運べばいいんですか?」
「貴女の部屋に決まってるでしょう。」
私の部屋って…結構な距離がありますよ。絶対途中で腕が限界を迎えるじゃん。
「これじゃあ日が暮れるどころか、何日経っても終わらないわ。…仕方ないから、貴女たち、手伝いなさい。」
引き連れてきた侍女さんたちに、ヤニーナ様が指示を飛ばす。いや、最初からそうして下さいよ。
ヤニーナ様の指示で、動き出した侍女さんたちは、ひょいひょいと、私の腕に積まれた本を回収、それだけでなく、ヤニーナ様から渡される本の数々も回収していく。
重みから解放された私は、痺れる腕をパタパタと振り、血を通わせていたら、侍女さんたちが、台車に本を載せていく。そんな便利な物があるなら、さっさと出して下さいよ。何処に怒りをぶつけるべきか、そんなのは決まっている。ムスッとして、ヤニーナ様を睨みつける。
そんな私の姿を凄く楽しそうにヤニーナ様が見てる。絶対わざとだよあの人。
「さて、行きましょうか。」
こんなにいるの?と言いたくなる程の本が持ち出される。逆に言うと、これだけの知識を、学園に入学する貴族の子弟は身に付けているということだ。
今のままで学園に入学すれば、大変なことになる。アプロディタ様に感謝しなければいけないなぁ。
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恐怖の地であるシャンバルが、全く恐ろしくない。
行きの旅路、巨大な魔法熊の襲撃を受けた時には、死を覚悟したが、この帰路では、そんなことがあったなぁ、という程度には楽観出来る程に安心出来る。
これ程頼もしい味方はいない。
その人物が中に居るであろう馬車を見つめる。あのドドル王国との戦争、絶望的なウックルの戦場に俺は居た。あの時も、窮地を救ったのはあの人だったな。
まごう事無き英雄であるアプロディタ・モコシュ・エルドグリース様。彼女があの時来たお陰で、俺は生きてるし、家族の待つ家に帰れた。それについては感謝しかない。
しかし、それとは別に彼女を全面的に支持するか、と言われれば否である。エルドグリース家の騎士団に所属している以上、主君はエルドグリース家の当主であり、彼女ではない。そして、彼女の立場は微妙な位置にある。
家族があり、生活がかかっている以上、仕えるべきは主君であるし、有難いことにこの任務から帰還した後に、副団長に任じられることが決まった。
「任務以外で、関わる事もないだろうし、別にどうでもいいがな。」
騎士ではあるが、平民である自分にとって大切なのは、家中の権力闘争や政治的なことではなく、生活と収入だけだ。
しかし、ペチェノ家の養女を暫く預かると言っていたのは、少し羨ましい。貴族としての教育を施す為と言っていたが、超一流の貴族の下で、一流の教育を受けるという幸運に恵まれた少女は、息子と同い年だ。
「うちの息子も預かってくれねぇかな…」
あいつにも、そういう教育を受ける機会を与えてやりたいと思うのは、親として、己を超える才能を有すると思っているからだ。
「アルマゾフ分長、声が漏れてますよ。」
「おお、悪い。ペチェノ家の嬢ちゃんが羨ましくなってな。」
若手の騎士が横に馬をつけてくる。
「ああ、息子さんって、ペチェノ家の養女さんと同い年でしたっけ。」
「同じ十歳だ。戦争や任務で、偶にしか会えてないがな。」
「じゃあ、久しぶりの再会ですし、土産話でもしてあげて下さいよ。俺も、子供の頃、親父の話を聞くのが楽しみでしたし。」
そういや、こいつも代々騎士団所属の家系だったな。
「土産話っつってもなぁ…寒かったってしか言えねぇだろ。」
アプロディタ様の事は、例え家族だろうと言えない。そういう通達があったからだ。それを言えないとなれば、特に話すことはない、下手に魔法生物に襲われたなんて言えば、不要な心配を掛けてしまうしな。
「じゃあ、ペチェノ家の養女さん、リリーヤ嬢の話でもしてあげたらどうですか?息子さん、彼女の事好きみたいですし。」
「はぁ!?キリルの奴が!?」
別に息子が誰を好きになろうと、否定する気は無いが、そういう話は、もう少し先になると思っていた。
ペチェノの嬢ちゃんは確かに愛らしいし、キリルが惚れてもおかしくは無い。ちと瘦せすぎだがな。
「まだ十歳だぜ、最近のガキはませてんだな。」
「いや、自分の息子でしょう…」
「しかし、全然そんなこと知らなかったぞ。」
まあ、本当に暫く会ってないから仕方ないのかもしれないが…
「衛兵として街の巡回とかしてると、キリル君がよくペチェノ家の令嬢追っかけてますよ。偶に意地悪したりして、気を引くのに必死になってるの見ると、なんだか自分の子供の頃を思い出して、甘酸っぱい気持ちになりましたよ。」
「おい、それって駄目なやつじゃないねぇか。」
ペチェノの嬢ちゃんには、その気がないだろそれ。
「男は振られて強くなっていくんですよ。」
「流石、失恋王、説得力のあるな。」
「そういうことで、誰かいい子いませんか?紹介して下さい。」
「馬鹿野郎、俺は妻一筋で、他の女なんか知らねぇよ。そうだ、エルモレンコはどうなんだ?」
この騎士団唯一の新人女騎士の名を出す。
「いや、エルモレンコは…なんか怖いんすよ、あいつ。別に何かされたりしたわけじゃないですけど、なんか怖いんすよ…」
「怖い?まあ、気は強そうだが、悪い奴じゃないだろ。真面目だし。」
彼女に対して、特に悪い印象は無い。寧ろ、真面目で勤勉だと評価している。
「いや、それは分かってるんですけど、ほら、なんか怖くないですか。」
そう言ってアプロディタ様の乗る馬車を指す。
その馬車に並走し、穴が開くのではないかという程、扉を凝視する女騎士の姿、なんか、並々ならぬ執念を感じる。
「ま、まあ、あいつはアプロディタ様を尊敬し、憧れて騎士になったわけだし、多少仕方ないんじゃないか?」
「さっきまで、あいつと一緒にいたんですけど、話しかけても聞こえない位集中して見てるんすよ。瞬きもしてないから、絶対、目かさかさですよあれ。」
瞬きしてないのか…それはヤバいな。憧れとか超えてんじゃねぇのそれ?
「顔は悪くないんすけど、なんか…って感じっすね。」
「そうか…」
とりあえず、エルモレンコがヴィドノ行きの任務ばっかり志願しない様に、調節する必要がありそうだな。
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何故?どうして?
そういう疑問を持ち、何でも質問して、知識を深めていく。それが許されるのは子どもの特権であるが、その質問に正しく、且つ理解出来る様に説明出来る者がいなければ、疑問は解決されぬまま、子どもは過ごしていくこととなる。そして、そんなことが積み重なり、『それは、そういうものだから』と理解することも、疑問を抱くことも放棄して生きていくこととなる。
支配する側からすれば、これ程都合の良い労働力はないが、そのままでは、いずれ取り返しのつかない程の停滞を及ぼし、国家は終焉を迎えることになる。
この国がどうなろうと知ったことではないけど、自分の領地や、そこから生み出される利益や生活を領主として、おいそれと崩壊させる気はさらさらない。
ルユブル王国だけではない、ドドル王国やルリラ皇国、大陸にある大国と呼ばれる多くの国が、停滞している。それだけなら問題ない、全ての国が停滞しているなら、それは現状維持であり、悪化ではない。しかし、自由都市連合王国を筆頭に、変革を行い、停滞から脱した国家がある以上、停滞は後退へとなる。
ただでさえ、ルユブル王国は他の大国に遅れをとっている。そこに変革の兆候が大陸各地で起こり始めているというのに、この国は、停滞、旧態依然としたものの考え方に固執している。
いずれ、巨大な波に飲み込まれてしまうのではないか…そんな予感が、常に頭をよぎる。そんな波に抗う為に、最も必要なものは、正しい知識だ。口先だけ、額面だけの甘言に惑わされずに、物事の本質を見抜く知恵と知識。それを、市民レベルで普及させる必要があるだろう。最も、それこそ夢物語とも言えるけど。
しかし、目の前にいるこの子はどうだろう?知識はない、学んでいないから当然だ。しかし、思考する能力はある。
この子は天才ではない。だからといって、才能が無いわけではない。人よりも少しだけ優れている程度には能力がある。
使える様になるかは、これからの教育次第といったところね。魔導具を作るという能力は、是非とも欲しい人材ではあるけど、無能なら不要だし、有能過ぎれば、彼女の養父の様に、扱いづらい。程よい腕と、柔軟な思考が、この子に必要なものだわ。
それが、リリーヤ・ペチェノという少女に抱いた、私の感想だ。
教師の真似事など、面倒極まりないが、使える人材を、自らの手で育てるというのも、間違ったやり方ではない。試してみるだけの価値はあるでしょう。
「さて、面倒で仕方ないけど、授業の始まりよ。先ずはマルネェ大陸の法や文化の根幹、宗教から始めるわ。」
マルネェ大陸で最も影響力のある宗教、ビーブラ教。創造神にして主神たる女神アプロディタと、そのアプロディタによって生み出された十二の神々を信仰する宗教。この宗教の教えが、法や習慣、文化の基礎となっている為、何を学ぶにも、そこから始めなければならない。
「宗教って、ビーブラ教のお話ですよね?それなら教会で教わりましたよ。」
なにを今更、そんな顔で発言する小娘に、イラッとする。子どもって苦手だわ。
「そう、じゃあ、どこまで理解しているか、一から説明してみなさい。因みに言っておくけど、宗教の話は別にビーブラ教だけじゃないわよ。」
そう言うと、しまった、という表情になるリリー。
「まあ、いいわ。ビーブラ教のことだけでいいから、説明してみなさい。」
さっさとしろ、そう目で促す。意図が伝わったのか、少女は一言一言、思い出しては確認をする様に言葉を紡ぎ出す。
「えっと、何もない、ただただ無の空間に、女神アプロディタが降臨し、天界を作った。創造神であるアプロディタは自らを豊穣の神として天界に降り立った…」
間違ってませんよね?という目でこちらを見てくるので、小さく頷き、続きを促す。
「そこでアプロディタは、己の力を分け与えた、自分と同じ言葉を使える、似た姿の生命を生み出した。それが十二神と呼ばれる神々で、それぞれの神に特性を持たせて、知恵を与えた。十二神は創造神であるアプロディタの下、天界で働いては、アプロディタへ話をする。それがアプロディタと神々の幸福な時であった。」
そう言うと、ふぅ、と一息を吐き、更に続ける。
「しかし、幸福な時間も、長くは続かなかった。十二の神々は、皆がアプロディタの愛を己だけに向けて欲しいと思い始め、次第に争う様になった。そうして、神々が争い、天界は荒廃を極めた。荒廃した天界と、自らの生み出し、力を分け与えた神々が争う姿を見て、アプロディタは酷く悲しみ、争いの仲裁と天界に再び豊穣をもたらそうと、奔走する。そうしてなんとか元の状態に戻した時、再び神々が争いを始める。そんなことが何回も続き、アプロディタは絶望した。
そして、新たに世界を作った。そこには海と大地を作り、植物や生命を創り出した。世界が豊かになった頃、アプロディタは、神よりも弱く、それに似た生命を創り出した。それが人間である。」
ここからが、分岐点。
「人間を創ったアプロディタは、天界のことなどを忘れ、彼らの繁栄の為に、祝福を送っていた。それを神々が知った時、嫉妬と憎しみの炎が燃え上がった。あれ程争い合っていた神々は、力を合わせ、アプロディタと同様に人間を創ろうとしたが、負の感情のみで創られたそれは、真っ黒で恐ろしく狡猾であった。そんな創造物を、アプロディタの創り出した人間の世界に、神々は放ってしまった。それは、悪意の塊で、次々と人間を、世界を悪意の炎で燃やしていく。
アプロディタは、人間が苦しむ姿に耐えられず、自ら世界に降り立ち、それと向き合った。そして、長い激闘の末に、アプロディタは勝ったが、殺しはせずに、それの負の感情を残された力を使い、封印した。しかし、激闘で力を使い果たしたアプロディタは、封印しきれなかったその感情によって、一撃を食らってしまう。
十二の神々は、自らの失態と、そのせいで永い眠りに着いたアプロディタを見て、後悔し、真っ黒なそれを自らの力と引き換えに、封印することにした。
こうして、世界からも、天界からも神がいなくなり、封印されたそれは、モバドと呼ばれ、あらゆる力を失い、人間として生きていくこととなった。…以上です。」
そう言い終わると、リリーは、ふー、と長く息を吐いた。
「お疲れ様。ビーブラ教についてはそんな感じで認識していれば、問題はないわね。その中で、神と人間で結ばれた誓約が、今ある法の基本となっているわ。」
「人を殺したらいけない、とか、盗んではいけない、とかですか?」
「ええ、そういう単純なものから、噓をつくな、や人を騙すな、とかの道徳的な教えも、本を正せば、全部ビーブラ教の経典からきているわ。」
宗教が生活と文化の根幹にあるということを理解すればいいのだが、それが当たり前と認識してしまっていると、思考が停止してしまう。だから、こういう根本的なところから意識を変える必要がある。
「それじゃあ本題に入るわ。ビーブラ教において、最大の悪として描かれているのが、真っ黒なモバド。彼を中心に描かれた神話を基に生み出されたのがモバド教で、それを信仰する人々のことを、モバド人と言うわ。ここが誤解されがちなんだけど、モバド人っていうのは、人種ではなく、信仰する宗教のことを指すのよ。」
「モバド人は知ってますけど、モバド教って聞いたことないですよ?」
疑わし気な目を向けてくる少女に、説明を続ける。
「モバド教は、ビーブラ教では異端宗教とされていて、教会では教わることさえないわ。教会が教えるのは、モバド人は憎悪の対象であるということだけよ。ただ、モバド教では、モバドだけがアプロディタに救われるという結末を迎えるの、そして、アプロディタの待つ天界へと行くことが許される。」
モバドだけが悪とされるビーブラ教に対し、モバドだけが救われるモバド教。排他的なビーブラ教教に対して、選民思想的なモバド教、異端と認定されずとも、対立は必至であったでしょうね。
「それって、どっちが本当の話なんですか?」
「どっちも本当で、どっちも噓、そうなるんじゃないかしら。信じる者にとっては、噓も本当だし、真実も噓となるわ。ただ、どの宗教は真偽を確かめることさえ異端とする考えだから、嘘でも、真実でもないというのが正解なんでしょうね。」
宗教に限らず、この世界には、白黒はっきりすることの方が少ない。いや、寧ろ、完全な白も、完全な黒も存在しないのかもしれない。
「それなのに、争ったり、嫌い合うって、おかしな話ですね。」
「敵がいることで、一つに纏まれるのよ。逆に、その敵がいなくなったら、内輪揉めを始めるわ。宗教に限らず、人間の歴史ってその繰り返しよ。」
賢者は歴史から学ぶ、そういう言葉があるけど、人類の歴史には、真の意味での賢者は存在しないのかもしれない。どんなに頭で理解できても、感情がある以上、過ちを侵す。
「だから、ある意味半永久的に対立出来る相手がいるってことは、大規模な争いの抑制にも繋がるんだけど、それも、慣れてしまうと、人や組織って簡単に腐敗するのよ。そうして、腐敗に耐えきれない者が現れては、権力と戦い、どちらが勝っても、結局同じことの繰り返し。これは、どの宗教とか関係なく、人間という生き物の性なんでしょうね。」
腐敗した権力を打倒した者が権力を持った途端に腐敗する。権力とは、ある意味最強の呪いの装備なのかもしれない。
「あの、それは分かったんですけど、これも必要な勉強なんですか?」
「勉強ではないわ。でも、学ぶ上で最も必要なことは、複数の視点から見ることよ。そういう意味では、ビーブラ教とモバド教を引き合いに出すのが一番手っ取り早かったのよ。正しいと思っていることも、視点を変えれば誤りにもなるし、視点に限らず、道徳的観点でも、今は正しくても、未来では分からないし、歴史を学び、悪行と思われることも、当時は当然の価値観であったこともあるの。何事も、偏った見方をしないこと、これが正しい学び方よ。」
自分でそういうが、これが難しいのだ。感情や固定観念がある以上、どうしても偏った見方をしてしまうことが多い。頭で理解し、意識をしているが、それでも偏る。それを最小限に抑える努力が必要であるということだ。
分かった様な、分かっていない様な、微妙な表情で首を傾げるリリー。
「まあ、暫く学んでいけば次第に分かってくるわ。…午前の授業は終わりよ。ローディが帰って来るのを待って、昼食にいきましょう。」
「はい!」
昼食、その言葉で、ぱぁっ、と明るい表情になる。食欲の化身ね…
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