第11話 嵐の予感
パチリと目が開く。まだ夜中なのか、真っ暗だ。
「ん…おしっこ…」
尿意を催し、眠い瞼をこすりながらベットを降りようとする。…あれ?こんなに大きかったっけ?
足を横に伸ばしても、ベットがまだある…それに凄くふかふかで心地良い…ああ、そうか、ここは馬車の中でも、我が家でもない、アプロディタ様のお屋敷なんだった。
ブルリと身体が震える。いけない、急がないと…
「トイレ何処…?」
広い部屋には、廊下へ出る扉以外の扉は無い。トイレ何処なの!マズいって!!
仕方ない、廊下に出て、誰かに聞くか、見つけるしかない。
なんで誰もいないの!
長く広い、薄暗い廊下を小走りで移動するしているが、人の気配は無く、不気味さだけがある。
「うわぁっ!…びっくりしたぁ…」
キョロキョロとしながら進んでいると、突如視界に入った廊下の隅に立つ甲冑に心臓が一瞬止まる。お化けかと思った…大丈夫、漏れてない…
「うぅぅっ、トイレどこー。」
あれ、ここって…お風呂場の近くだ。暫く彷徨っていると、そんな所にまで来ていた。どうしよう、このままお風呂場で…いや、駄目だ。それだけは駄目だ。また黒歴史に新たな一ページを刻んでしまうことになる。だけど、もう限界に近い。
頭の中で天使と悪魔が囁く。うぅぅっ、駄目だ。
絶望感が漂う中、お風呂場の入口の手前、小部屋の扉の下からぼんやりとした灯りが見え、ゴソゴソと音がする。こんな場所に身分が高い人はいないだろうし、きっと使用人の方だろう。
救いが見えた、トイレの場所を教えてもらおう。急ぎたいが、少しでも気を抜くとすぐにでも漏れてしまいそうなので、内股でゆっくりと進む。
ようやく辿り着いた。
「あのっ…」
無礼を承知で扉を開け、声を掛ける。
「えっ…?」
部屋の中でしゃがみ込んでいた女性が振り向く。
「変態だぁーーーっ!!」
「ちょっ、叫ばないで下さい!リリーさん!」
そこには、女性物の赤いショーツを覆面の様に被った
食事の時に大人しかったから油断していた。そうだ、この人はもう手遅れの変態だったんだ。
「うぁーっ!来るなっ!来るなぁーっ!!」
じりじりとにじり寄ってくる
「しーっ!しーっ!です、リリーさん。静かにしないと人が来てしまいますから。」
人が来なきゃ困るんですよ。目の前に変態がいるんだから。尚も後退を続けながら、腕を振る舞わす。ちくしょう、トイレに行きたかっただけなのに、なんでトイレは見つからずに、変態が見つかるんだよ…
「リリーさん、落ち着きましょう。」
「落ち着けるかぁーっ!だいたいなんで―」
後退りする足が一面に散らばった下着を踏んだ。
ツルン、と足が取られ、ふわりと身体が浮き…
「ぐぎゃぁっ!!」
後頭部を床に打ち付けてしまう。それと同時に、必死に塞ぎ止めていた堰が決壊し、じわりじわりと温かい液体が下着を、床を濡らしていくのが分かる。
その事実に、じわっと瞳が熱くなってくる。
「うわぁーーん。」
折角頑張ってここまで我慢したのに、変態のせいで全部台無しだ。もう十歳なのに、お漏らししちゃったなんて…悔しさと恥ずかしさで涙が止まらない。
「何事ですか!」
私の泣き声か、それとも後頭部を打ち付けた時の音なのか、なにが原因なのか分からないけど、侍女さんが一人、明かりを持って現れ、私と変態の姿を見る。
「きゃーーーーっ!!変態ーーー!!」
悲鳴を上げる。そりゃそうだろうね。その悲鳴で、ぞろぞろと侍女さんたちが集まってくる。やめて、私を見ないで…
「騒々しいわよ。全く、ようやく眠れそうだったのに…あら。」
最悪の人に見られた。不機嫌そうにやって来たヤニーナ様は、私の姿を見て、ニッコリと素敵な笑みを浮かべる。絶対からかうネタが出来たって喜んでる。
「はぁ、とりあえず、そっちのお漏らし娘は…誰かお風呂にでも入れてあげなさい。お湯は残っているでしょう?」
「は、はい。」
侍女さんに指示を飛ばすヤニーナ様。
「そこの変態は…どうしようかしら?まあ、とりあえず大人しくしなさい。」
ピッ、とヤニーナ様の袖が一瞬光り、気がつくと
今のって、魔武具なのかな?そんなことを考えている間に、侍女さんたちによって、ビショビショに濡れた服も、下着も脱がされ、風呂場に連行される。
羞恥のあまり、グスグスと泣きじゃくる私を問答無用で洗い、お湯に浸からせる侍女さんたち。その後も、テキパキと動き、私の粗相の後始末まで済ませる。
「ごめんなさい。」
夜中に掃除や後始末をさせてしまい、申し訳ない思い出でいっぱいになり、深く頭を下げる。
「ど、どうか頭をお上げ下さい。リリー様が謝られる様なことは何も御座いません。安全だと高を括り、巡回を怠った我々の落ち度です。」
何故か逆に謝られる。…ああ、そういうことか。私は、夜中に変態に襲われたことになってるのか。ある意味間違ってない。
これは、真実を話すべきなのだろうか?このまま隠し通せば、私の傷は浅くて済む。しかし、それだとあの
果たしてどうするべきなのか、己の名誉と誇りの為に、変態に全ての罪を擦り付けるのか、それとも、己の恥を晒すのか…いや、もう恥は晒したけどさ。
良心と保身の心が揺れ動く。ところで、このままだと、
それに、どうしようもない変態ではあるけど、本当は優しくて、善良な人だというのを私は知っている。もっとも、変態ではあるということで、全て台無しにはなるけど。
なんか上手い方法はないかな?
そんな風に考えていると、着替えが終わっている。その頃には、涙はもう引っ込んでいた。
「着替えは終わったようね。」
浴場の脱衣場に、ヤニーナ様が現れる。
「はい。…えっと…」
何か言うべきなのだろうか?
「いろいろと聞きたいことはあるけれど、今日はもう遅いわ。子供はさっさと寝なさい。明日、ゆっくりと聞かせて貰うわよ。貴女たちも、夜中にご苦労だったわね。アプロディタには私が報告しておくから、貴女たちも休んでいいわよ。」
私と、侍女さんたちに指示をするヤニーナ様。言い終わると、くるりと向きを変え、浴場の出口へと歩き出す。
「あ、そうそう。誰かその子を部屋に案内するついでに、トイレも連れて行きなさい。また漏らされたんじゃ、敵わないわ。」
首だけ振り向き、そう言うと、スタスタと去っていった。…ヤニーナ様にはバレてる…
その後、侍女さんに誘導され、トイレに行き用を足してから、部屋に戻る。部屋に着くと、侍女さんが隅の方から何かを持ってくる。
「リリー様、室内ではこちらをお使い下さい。毎朝、各部屋の掃除の際に、一緒に処理致しますので。」
そうやって見せられたのは、オマル。いや、なんかそれは…
「皆さんもそれで…」
「ええ、貴族のお屋敷では普通のことですよ。身分の高い方々だけでなく、使用人たちも皆そうしております。如何せん広いお屋敷ですしね。お嬢様方のお部屋のは個室で腰掛け式の高価なものがあるのですが、申し訳ございません。全ての部屋には無くって…」
いや、そういうことじゃない…なんでこんな変な文化があるの?ここだけ?それとも上級貴族様たちは皆そうなの?
「ヴィドノでも、コペイク島でも、こんな文化無かった…」
「そうですね。私も、エルドグリース家にお仕えするまで知りませんでした。何でも、ドドル王国の文化なんだとか。ドドル王国は文化の発信地ですからね。貴族様方はいち早くお取り入れになっているのでしょう。ドドル王国では、貴族だけでなく、一般家庭もこんな風にオマルを使って、窓から捨てているらしいですよ。」
「うわぁ…」
想像するだけで悍ましい。なんでそんな不衛生な文化を取り入れるんだろう…言っていた様に、ドドル王国が流行の最先端だからなの?こんな流行は願い下げだ。
「あ、ありがとうございます。その、善処します。」
「最初は抵抗があると思いますが、すぐに慣れますよ。」
侍女さんはそう言って、オマルを置く。あとどれくらい、ここにいるのか分からないけど、出来れば、使わずに終わりたいなぁ。
「さあ、もう随分と遅い時間です。お疲れ様でしょうし、ゆっくりとお休み下さい。」
ベットに腰掛けていた私を、優しいベットに寝かせ、温かい布団を掛けてくれる。
「ありがとうございます。お休みなさい。」
いろいろとあって、頭が目覚めてしまって、あんまり寝れる気がしないけど、侍女さんの言うように、普段なら夢の中にいる時間だ。
「はい、お休みなさいませ。」
侍女さんは、綺麗なお辞儀をし、灯りの魔導具を消す。
眠れそうにもないなぁ。もぞもぞと布団に潜り込んでみたり、ゴロゴロと転がってみる。
おお!やっぱり広いベットっていいなぁ。寝返りどころか、こんなに転がっても落ちない。
シャーッ、という音と同時に、瞼を閉じても分かる程の光が差し込む。
「ん…朝…?」
昨夜いろいろとあったせいで、普段よりも睡眠時間が足りないからだろう。瞼が重い。
「おはようございます、リリー様。まだ眠たいかと思いますが、朝食の時間が決まっておりますので、ご容赦ください。」
申し訳なさそうにそう言うのは、昨夜部屋まで連れて来てくれた侍女さん。彼女は何も悪くないし、私よりも睡眠時間が短いであろう彼女の方が心配になってしまう。
「おはようございます。大丈夫ですよ、ご飯楽しみです。」
ぐーっ、と伸びをしてそう答える。正直まだ眠いけど、朝日を見たら、不思議と目が覚めた。
「リリー様はお嬢様と違い、朝が強いみたいですね。侍女長は毎朝大変みたいですよ。」
ふふ、と上品に笑いながら、水の入った洗面器を載せたカートを、ベットの脇に押してくる。
「さあ、お顔を洗いましょう。その後はお着替えですよ。」
侍女さんは、仕草の一つ一つが上品で、私なんかよりも、よっぽど貴族っぽい。
「はい。」
洗面器に顔を寄せ、パシャパシャと顔を洗う。うん、目が覚めるなぁ。スッキリと爽快な気分になった絶妙なタイミングで、ふわふわのタオルが右手に載せられ、それで顔を拭く。柔らかくて気持ちがいい。持って帰りたいくらいだ。
「ありがとうございます。」
顔を拭き終わり、タオルを両手で返す。
「では、お着替えをしましょう。」
タオルをカートに載せると、足元にスリッパを置かれる。それに足を通し、姿見の前へ誘導される。
「どちらもお嬢様のお古で申し訳ないのですが、午前はどちらにされますか?」
真っ赤なドレスとエメラルドグリーンのドレス。どちらも見ただけで、高級なものだと分かる。昨日お借りしたドレスもそうだったけど、一着で一般家庭の年収以上はする様なドレスを、子供の頃から何着も持っているのは、社交界や式典、あらゆる場所で、常に誰かに見られている上級貴族たちにとっては、当然のことなのだろう。
そう考えると、本来必要ない世間体や見栄の為に、大きな出費を繰り返さなけれならないって、貴族も大変なんだなぁ。庶民としては、その分のお金を、少しでも分けて欲しいとしか思わないけど、
「うーん、悩むなぁ…じゃあ、こっちで。」
どっちも着てみたいし、どっちも恐れ多い感じがして選び辛かったけど、エメラルドグリーンの方を選ぶ。
「畏まりました。ついでに、アフタヌーンドレスと、イブニングドレスも決めておきましょう。」
そう言って、侍女さんが部屋に備え付けられた、クローゼットを開けると、大量のドレスが掛かっている。
その光景に、目が点になった私に、彼女が説明してくれた。上流階級のご婦人、ご息女の方々は、一日、最低でも三回は着替えるらしい。なので、朝用、昼用、夜用とドレスが決まっており、それを選んで着こなすのが、そういう高貴な方々の楽しみらしい。
「その割には、このドレス、全部綺麗ですね。一回着たらもう着ないんですか?」
「そんなことはないと思いますよ。ただ、お嬢様はあまりドレスやお着替えがお嫌いのようでして…」
成程、着なかったのか。じゃあ、お古というより、殆ど新品ということか。ますます袖を通すのが悪い気がする。
食事に関しては遠慮する気はないが、如何せん、こういう類の高級品や無駄遣いの様に思えることへの抵抗感がどうしても拭えない。生まれ育った環境が違うとはいえ、もう少しお金も物も、大切にして欲しいものだ。
「大変お似合いですよ。」
なんやかんやあったが、美しいドレスに着替えさせられ、朝食の席に向かう。正直言うと、着替えだ身支度だと、朝食を取るためだけに一時間以上の準備をさせられ、なんだかうんざりしてしまう。これがなければ、もっと長い時間眠れるし、無駄が多いとしか思えない。
そうは思うけど、私も一応女の子なので、こういう綺麗な衣装を着れること自体は嬉しいし、なんだか自分が特別な存在になった様な気分になるという、不思議な矛盾を抱えて廊下を歩く。
煌びやかな衣装は、上流階級の人々の正しく象徴、故に動きにくいし、一人では着ることも、脱ぐことも出来ない。基本的に自分からは動かない、身の回りの事は自分でしない。そういう上流階級の人々にとっては当たり前のことが、良く表れている衣装だと、歩いているだけで分かる。
私、貴族としてやっていけるのだろうか?貴族となって四年が過ぎた今、これまでの金銭的や、生活という、生きていく為の不安とは別の、文化や習慣といった、別の不安に搔き立てられた。
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「――様!――嬢様!―お嬢様!」
ぼんやりと聞こえる声。身体を揺さぶられ、何度も呼ばれたことで、薄っすらと瞼が開く。眩しい朝の光で開きそうだった瞼が再び閉じる。そもそも、まだ眠い。
「お嬢様!いい加減起きて下さい!」
クレメンチーナの良く通る声が、こういう時ばかりは憎たらしく感じる。
「うぅん…後四時間…」
我はまだ眠いし、心ゆくまで寝ていたい。本家を離れ、口うるさい兄上や継母たちもいないのだから、伸び伸びと、自堕落に生きれると思っていたのに、毎朝決まった時間に起こされるとは…
「ふざけてないで、早く起きて下さいませ。」
そんな我の願いも、冗談としか思わない、頭の固いクレメンチーナが、布団を引っ剝がす。
「ふざけてなどおらぬ。我は今日は一日中寝ていたいのだ。」
布団を剝がされようと、断固とした意思を示すかの如く、ベットに横たわり続ける。そもそも、魔力で温度を調整すれば、布団など要らぬからな。ただ、あの布団の心地良さは再現出来ないのが口惜しい。暇と機会があれば、布団を創造する魔法でも開発してみるとしよう。
「お嬢様、朝食まで時間がありません。いい加減にしていただかなければ、当分の間、お菓子、デザートは全て禁止にしますよ。」
「今起きた!」
なんと恐ろしいことを言うのだ。
「お嬢様、毎朝毎朝、何度同じことを繰り返せばよいのですか?私は疲れて参りましたよ。」
思わず跳ね起きた我に、呆れた様に溜息を吐き、クレメンチーナがそう言う。
「ならば、一日くらいゆっくり寝させてくれぬか。そうすれば、お前も休めるし、いっぱい寝れて、我も嬉しい。勿論、恐ろしい罰則は無しでな。」
「戯言は終わりましたか?さっさと顔を洗って下さい。」
丁寧に辛辣なのは、何年経とうと変わらないのだな。一日くらい、貴族や身分、周囲の目も気にせずに、思うがままに、自堕落な生活をしてみたいものだ。
「クレメンチーナよ、お前はもう少し我に優しくは出来ぬのか?」
「甘過ぎると言われる程度には十分優しくしております。これ以上優しくすれば、お嬢様は本当に駄目な人間になってしまいますよ。」
どうやら、彼女がいる限り、我に自堕落な日々は訪れないらしい。
欠伸を一つし、顔を洗うと、毎度の如く、絶妙なタイミングで差し出されるタオルで顔を拭く。
「お嬢様、今朝のお召し物ですが…」
そして毎度の如く見せられる衣装の数々、正直、服など着心地と実用性が高ければいいと思っている我にとって、この時間は悩みの種ではあるし、大っ嫌いなコルセットが待ち受けていると思うと、憂鬱でしかない。
「今日は一日、軍服で過ごす。故にそれらは不要だ。早く我の視界から退けよ。」
「またその様なことを。」
普段なら突っ撥ねられるのだが、今日は違う。ドレスを着なくてよい理由があるからだ。
「本日は、小娘と大事な話があるからな。一令嬢としてではなく、アプロディタ・モコシュ・エルドグリースとしてな。故に最も我が我らしく振る舞える姿をで話す。噓偽りない、ありのままの我でな。」
はぁ、という溜息が聞こえる。
「お嬢様は、たった一人の旦那様の娘であり、大陸一の名門であるエルドグリース家のご令嬢で御座います。エルドグリース家にお仕えする身としては、お嬢様には、令嬢としての振る舞いを常に心掛けて頂くように促すのが私の役目です。」
「駄目か?」
真剣な目で我を見るクレメンチーナ。
「エルドグリース家の使用人としては、断固認められません。…しかし、アプロディタ・モコシュ・エルドグリース様にお仕えする身と致しましては、貴方様をお支えするのが私の務めであると考えております。」
「では、すぐに支度をせよ。」
「畏まりました。」
我に仕える様になってから十二年。ある貴族の愛人の子として生まれ、父親の死去と同時に家を追い出された末に、エルドグリース家の門を叩いたのがクレメンチーナであった。
我が八歳の時に、見習い|(元が貴族ということもあり、上級使用人の見習いではあったが)としてエルドグリース家に仕える事となったクレメンチーナは、当時成人したばかりの十六歳であった。本人の要領の良さや、吸収の早さもあり、すぐに見習いを卒業し、私の担当侍女の一人となった。
それから一年、我の人生を変える様な事が起こった時に、最初から最後まで、離れろと命令しても最後まで付き従い、支えてくれたのが彼女だった。故に、エルドグリース家とは別に、我との一対一の契約を交わし、現在に至る。
我の最も信頼する者の一人であるのだが、頭が固過ぎて、融通が利かないのが欠点だ。
「さあ、出来ましたよ。朝食に向かいましょう。皆様をお待たせしてはいけません。」
「ああ、分かっておる。」
両手で差し出される軍刀を受け取り、左の腰に差す。全く、朝くらいはゆっくりしたいものだ。
寝室の扉をクレメンチーナが開け、執務室へと入る。控えていた侍女たちが揃った動作で一礼する。
「「「お嬢様、おはようございます。」」」
「ああ、朝からご苦労。朝食に向かう。食後、小娘をここへ呼ぶように、担当の者へ伝えておけ。」
「「「畏まりました。」」」
返事を聞き、自室を出る。クレメンチーナを先頭にして、ぞろぞろと侍女たちが付き従う。正直、こういうのも不要だと思うのだが、彼女たちの仕事を否定する気はない。こういう無駄の多い文化は、変わっていかねばならないのだが、まだその時ではないといことだ。
これは無駄、これは不要、と切り捨てることは容易だ。しかし、それでは職が減る。当然、その職にあった者たちは反発する。当たり前のことだ。なんせ、職を失う可能性があるからだ。
統治者が一番最初に考えねばならないのは、下にあるもの達への、職と食の安定だ。それさえあれば、一定の安寧を生める。そこから未来の為の改革が行える。逆を言えば、安定した基盤もなく、改革などは不可能だ。
歴史を見ても、大改革を行い、成功を収めた偉人たちも、先代たちの作り上げた基盤あってのものだというのはよく分かる。基本こそ最大の改革であり、真に評価されるべきは、如何なる状況でも対応出来る様に、下地を固めた者たちである。
では、この無駄の多い下地は何なのか?これはこれで、必要なことであった時代もある。しかし、既に時代から取り残され始めているというのに、変わろうとしないのは、堅固に踏み固められた地盤で、耕そうにも鍬も鶴嘴も通らないのだ。
雨、大量の雨が地盤を濡らし、洗い流してしまわなければ、この文化は終わらないだろう。それこそ、貴族制、いや、王政を根本から否定する様な、大嵐が来ない限り。
嵐が来れば、多くの血が流れるだろう。最悪、文化が衰退する可能性さえある。衰退も、血が流れるのも避けたい。出来れば、平和であることを望みながらも、刺激を求める。人の性だろうか。
「嵐を恐れながらも、嵐を待ち焦がれる、か。」
無意識にボソリと、小さく独り言が漏れる。
「如何なさいましたか?」
「いや、独り言だ。気にするな。」
なんと言ったのかは聞こえなかったのだろう。仮に聞こえていたとしても別に困らぬが、少し恥ずかしいだけだ。
「そうだ、昨晩の件も処理せねばならないな。小娘を呼ぶのは、食後すぐでは困るか…」
もう少しで寝れそう、というタイミングでヤーニャに報告を受けたのですっかり忘れていた。
「そうですね。時間はこちらで調整しておきましょうか?」
「ああ、頼む。別棟の連中は、我の名前を出して好きに使って構わん。適当に小娘と遊ばせておいてくれ。」
「畏まりました。」
歩きながら、侍女たちに指示をするクレメンチーナ。背後から、侍女たちの返事が返ってくる。
「しかし、なんだか急に騒々しくなったものだ。」
「ええ、本当に。嵐を呼ぶ者が来たのかもしれませんね。手を焼くのは、お嬢様だけで間に合っておりますのに。」
「全くだ。我も我儘を言い辛くなるではないか。」
そう返すと、
「それでしたら、嵐は大歓迎ですね。お嬢様以上の大嵐はありませんから。」
「我が大嵐か…」
何でもない、普段と変わらない憎まれ口だというのに、何故か妙にウックルの戦場が脳裏に浮ぶ。あの時、何かとんでもない者を見落としてしまったのではないかと、記憶のパズル、その欠片を必死に探していた。
「お嬢様、如何なさいましたか?」
突然黙り込んだ我に、クレメンチーナが声を掛けたことで、思考の渦から解放される。
「いや、何でもない。少し考え事をしていただけだ。」
妙な胸騒ぎがする。ミアを呼んでおいて正解だったな。
侍女が朝食場の扉を開ける。全員もう居るようだな。なんだか妙な空気だが、昨晩の一件のせいだろう。
軍服で現れた我に、騎士団たちは一瞬ギョッとするが、すぐ立ち上がり、一礼して来る。それを手で座るように合図し、自分の席に着く。
「さて、頂くとしよう。」
不安なのか、それとも楽しみなのか、己でさえ分からない妙な胸の高鳴りを抑え、何食わぬ顔で食事を始める。
苦手なニシンの油漬けを皿の端に追いやっていたら、クレメンチーナに睨まれる。何故毎食、必ず一品は、我の苦手な物が出るのだろう?一度厨房へ赴く必要があるかもしれないな。
ニシン独特の臭いに、嫌悪感を抱きながら何とか咀嚼し、飲み込んでいると、すっかりあの高鳴りは消え去っていた。
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ドドル王国、首都パンネル。その中心街の一角にあるカフェテリア。隅の席に一人で座り、新聞を読みながら、大声で議論をしている者たちの言葉を聞いていた。
「全く、騒々しいねぇ。」
ズズッ、とコーヒーを啜りながら、誰にも聞こえないボリュームで呟く。
『民衆は愚かで、目先のことしか見ず、あらゆる失態を、他人のせいにしたがる。故に流されやすく、間違った意見でも、容易に過半数を取れる。』
以前、自分の雇用主、その側近が教えてくれた言葉を思い出す。
「正しくそれだな。」
彼らの議論を、冷静な、第三者の立場から聞いていると、滑稽で、それでいて恐ろしい。
ドドル王国の財政は破綻寸前、その事実を知らない民衆はもういないだろう。更に敗戦処理もままならず、追い打ちの様に今年の農作物は不作であり、生活の糧であるパンさえ価格が高騰している有様だ。
確かに民衆の怒りは分かる。不満を伝えるのも分かる。
だが、なんでそこで王妃が悪くなるのかは分からない。財政破綻は先代からの負の遺産であり、現王ルイゾン16世と王妃が、かなりの節制をしているのは、少し調べれば分かることだ。そんなひっ迫した財政で、戦後処理が迅速に行える筈もない。それなのに、全て王妃が散財し、贅沢三昧の日々を送っているせいだと喚き立てている。
そして、食料の問題も、戦後すぐ、つまり現王が即位した際に、最初に行った政策である芋の栽培、奨励。瘦せた土地などでも育つ芋を、庭や空き地などで栽培する様な促したが、『悪魔の植物を食べさせようとする悪策』と民衆が反発しなければ、起こらなかったことだ。
彼らの不満の矛先は、王や王妃ではなく、愚かな彼らを誘導、扇動した者へと向けられるべきだというのに、己らの誤った決断を認めず、脳死状態で王政に責任を擦り付けることしか考えていない。
彼らの要求通り、立憲君主制へと移行し、議会政治となったとしたら…
「住みたくねぇな。そんな国。」
誰一人として現実を見ようとしない。いや、見れない状態で政治が行えるわけがない。数多くの政治家の中に、数人理想主義者が混じるのならいい。しかし、全員が理想主義で過激思想の政治家の議会など、先にあるのは滅びだけだ。
「この国も、もう長くねぇな。」
政治に関してはド素人な自分でも分かる。彼らが主導権を握ったならば未来は無い。しかし、彼らは己の間違いを認めずに、突き進む。それに、もう止まれないのだろう。ブレーキとなるものが無いのだから。
「姐御になんて報告すんだよ。」
正直、難しい話は苦手だ。そもそもなんであのおっかない雇用主は、自分にスパイなんかさせるのだろう。一番向いていないタイプだと自分でも思うのに。正直、こういう難しいことはもっと他に適任者がいるだろうし、自分だって彼らの様に不満がいっぱいだ。
「だからといって、姐御に逆うなんて自殺行為だしなぁ…」
コーヒーを飲み干し、代金を払って店を出る。
美しい建物が並ぶのに、美しくないという不思議な街並み。道には当然の様に汚物がまき散らされ、異臭を発している。花の都というのに、衛生面は最悪だ。当然の様に汚物を窓から捨てる市民たちのせいでもあるのだが、疫病が流行りやすいのも、そういうところが原因だというのに、改善する気配はない。
「こんなに汚ぇ街とはおさらばして、さっさと
そんなことを呟いていたら、貸与された魔信石(連絡用の魔導具、一言二言程度の文章を送れる。)が光る。
『送:アプロディタ 来い。』
たったの一言、しかし、従わざるを得ない。絶対的強者には、服従するしかない。それが生き残るための基本だ。
「来い。って、何日掛かると思ってんだよ…」
愚痴は本人に聞こえない所で思う存分吐いていこう。
悪口を、鼻歌の様に口ずさみながら、歩いていると、周囲からは奇特な者を見る目を向けられるが、気にしない。誰も知らないし、もう一度会う方が珍しい連中に、どう思われようが関係ない。だったら、己の好きなように出来る時は、それに徹するのが一番だ。
「しかし、姐御もなにか感じてるのかねぇ、どうもめんどくせぇ事が起きそうだぜ。」
汚物を躱しながら、道を歩いて行く。呼び出しも、丁度よかったかもしれないな。このままここで仕事してたら、なんやかんやと巻き込まれそうだ。そうなったら、大量の危険がこの身に降りかかっていただろう。
「この世で一番可愛いのは、誰だって我が身だ。」
姐御に対して忠誠心など微塵もないし、尊敬の念もない。しかし、彼女はこの世で最強の存在だ。その庇護の下にあれば、この身は安全だ。
何事も、死んでしまっては何も出来ない。生きること、それが自分にとって、一番大切なのだ。
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