第3話 自由都市連合の商人

 魔導学園の入学時期が過ぎ、ヴィドノの街に積もっていた雪も、少しずつ解け始め、春となった。北国のルユブル王国は冬以外の季節は短い。比較的領地の南にあるヴィドノでさえ、春と夏を合わせても3ヶ月程しかない。領地の北部となる鉱山地帯のシャンバル辺りとなれば、万年冬で常に吹雪が起こり、永久凍土に大地は閉ざされている。


 そんな短い雪の無い時期を謳歌しようと、人々が活発になる時期で、街には行商人たちの露天が並び、賑やかな声が街の何処に居ても聞こえてくる。そんな街の喧騒を遮り、静寂に包まれた教会に私はいた。


「修理終わりました。」


「ありがとうございます。リリーさんに頼んで正解でした。」


 教会の神父であるソンズさんから、魔力を測定する魔導具の修理の依頼を貰い、それが終わり、声を掛けた。参拝の時間も終わり、シスターたちは孤児院で子どもそ世話をしたり、街で活動をしている為、教会の中にはソンズさんと私しかおらず、声が響く。


「この魔力測定器、かなりガタがきてますよ。一回壊れたのを無理矢理使ってるみたいで、定期的に修理が必要みたいです。」


 生まれた子どもの魔力を測るための魔導具の修理をして素直な感想を伝える。間違いなく一回壊れてる。それをなんとか動かしているだけで、修理はしたがいつ壊れてもおかしくない。修理した直後に壊れたと言われても困るので、正直に現状を伝えた。


「私も買い換えたいとは思うんですがね…」


 ソンズさんが困った様に笑う。教会だから資金繰りが苦しいとかだろうか?孤児院の子どもが充実した生活を送っている辺り、そっちにお金を使っているみたいだし、魔導具を新たに購入する余裕は無いかもしれないけど。


「でも、これが正常に動かないと問題大有りじゃないですか。」


 魔力の有無を測り、その保有量を測る道具で、生まれた子どもの人生を左右する大切な物だ。故障してましたでは済まされない。


「それは分かっているんです。ただ、みんながそれで測って欲しいって聞かないんですよ。」


「え?なんでですか?新品の方が良さそうだと思うんですけど?」


 古く、長く使われている物の方が信頼出来るという人は確かにいるだろう、だけど、人生を左右する大切な時に使う道具だというのに、壊れかけの道具がいいというのは理解出来ない。


「これは、特別な物ですから。」


「普通の測定器ですよ。」


 修理をしてみて、そんな特別な物とは思えなかった。


「物自体は普通の物ですが、これを使った、いや、壊した人物によって付加価値が付いたんです。」


 いや、作った人ではなく、壊した人によって価値が付くって、おかしくないですか?分からない、という表情の私に、


「リリーさんがヴィドノに来たのは4年前だから知りませんか?これを壊したのはエルドグリース家のアプロディタ様です、みんな大英雄と同じ道具を使ってみたいんですよ。」


「アプロディタ様が壊した?」


 大英雄様が教会の備品を壊すって、どっちかというと汚点ぽく感じるんだけどなぁ。因みに神父であるソンズさんがアプロディタ様をエルドグリース家のという枕詞を付けるのは、美と愛を司る豊穣の女神の名がアプロディタであり、それと区別する為だ。


「壊したと言っても、本人は覚えていないと思いますけどね。生まれたばかりでしたから。」


「最初の測定ってことですか?なんで壊れるんですか…」


 基本的に測定器が測定時に流れた魔力によって壊れることがないように作られている。壊れる原因は外部からの衝撃や管理の悪さが主だ。そりゃそうだ、測定する為に作られているんだから、測定で壊れたら元も子もない。


「その時は誰も壊れるなんて、思っていなかったんですよ。まさかペンデュラムが吹き飛ぶなんて…」


 測定の魔導具にはペンデュラム、つまり振り子があり、それの揺れ幅で測定する訳だが、それが吹き飛ぶということは、ペンデュラムの魔力許容量を超えているということだ。魔法史でも伝説的な魔力を持ったと言われる歴史上の偉人の魔力の倍の数字を最大許容量で作られている。それを吹き飛ばすというのは、その許容量を遥かに上回っていなければ不可能だ。アプロディタ様は英雄になるべくしてなったということか。そりゃあ大英雄って呼ばれるよね。


「それを直して使っているんですか…どうりでこんなにボロボロになってるんですね。」


 確かアプロディタ様様は今20歳だから、20年前に壊れたということか。




「ところで私、エルドグリース家のアプロディタ様にお会いしたことないんですけど、どんな方なんですか?」


 ヴィドノに来て4年、エルドグリース家の当主やそのご子息の何人かにはお会いしたが、アプロディタ様は姿を拝見するどころか声さえ聞いたことがない。


「私もそんなに知っているわけではないのですが、そうですね…」


 そう言って、神々の描かれた鮮やかな壁絵に近づき、


「お姿は、正しく女神アプロディタ様と瓜二つでしたね。」


 中心に描かれた女神アプロディタの前に立ち止まりそう言う。美と慈愛、豊穣を司る女神と言うだけはあり、その姿は、信じられない程美しい。輝く様な透き通った波打つ黄金の髪に紅い瞳、母性と実りの象徴たる胸は、豊穣の女神の名の通り非常に大きい。長くしなやかなで、それでいて引き締まった脚。正しく美の女神という姿が描かれている。


 女神のくせに、情欲を駆り立てる見た目ってどうなんだろうという、ナンセンスな感想を抑え、


「大貴族でお金持ちで、反則レベルの魔力で特殊体質。おまけに女神様と瓜二つの美しさですか…ズルくないですか?」


 チンチクリンで貧乏で、魔力の乏しい私がそう言う。しかし、集まった情報を整理し、出来上がったその人物像は、最早嫉妬すら湧き上がらない程に全てを与えられた女性ひとで、それこそ神話の様にしか思えない。


「特殊体質はリリーさんもでしょう?」


 ソンズさんが苦笑いでそう言う。やめてくれ、惨めになるだけだ。


「比較対象がおかしいので、自身に与えられたその体質の凄さがさっぱり分かりません。」


 便利だとは思ってますよ。




 大英雄アプロディタ・モコシュ・エルドグリース、大陸中に響き渡ったその名は、最早知らない者はいないと言っても過言ではないが、じゃあ、アプロディタ様がどんな人かということを知る者はその知名度に対して余りにも少ない。


 私の様に姿を見たことも無い人々が大多数で、魔法史上最強という情報だけが飛び交っている状態だ。その為か、戦争が終結し、様々な彼女に関する書籍が発刊されたが、そのどれもで内容が異なり、一貫性が無い。恐らく、伝聞で得た情報を元に書いているからであろうが、そのせいでどれも信憑性が無い。


 ただ一つ分かっていることは、16歳で学園を卒業した直後にドドル王国との戦争、その最前線に突如現れ、圧倒的不利な戦況をたった一人でひっくり返し、その勢いのままに一人でドドル王国、その首都バーヌルの王城まで進攻し、一週間も経ずに王城の天辺にエルドグリース家の旗を高々と掲げ降伏せしめたということ。


 これだけは全ての書籍で一貫して描かれている描写だ。実際は誇張されているのだろうが、誇張されていたとしても、それが個人によるものか、個人が率いた部隊によるものかの違いであり、どちらにせよ、その戦功は計り知れない故の評価なのだろう。


 彼女の人気を高めているのは、そのような理由に加え、ルユブル王国を勝利へと導く為に現れ、霞の様に消えたことも一因だろう。戦後の凱旋式にも、祝勝会にも現れず、消息を絶ったことで、謎が謎を呼び、様々な憶測が飛ぶことで話題性が更に高まり、一部では熱狂的な信者が生まれた。


 彼女の活躍は、4年前という歴史的に見ればつい最近の出来事であるのに、多くの謎を残し、歴史家や軍人たちに大きな課題となってしまった。


 そんな大英雄様と同じ体質ということは、隠しておいた方が得策な気がするのだが、私自身が誰かに話したりしたことはないのに、何故かヴィドノに住む人々は知っている。何で皆が知っているかというと、私がこの街に来たばかりの頃、つまり私が自身の体質を知らなかった頃に親父が酒場で酔っ払って話したことで、広まったらしい。あの親父、ホント碌なことしないな。


 戦後すぐということもあり、今よりも話題性は高く、あっという間に広まったらしいが、本当にいい迷惑だ。お陰で自分よりも街の人間の方が私の体質に関しては詳しいのではないかと思ってしまうことが多々ある。




 教会を出て、街の中央に位置する広場へ足を運ぶ。普段と違い、今回稼いだお金は、生活費としてつかわない。この雪解けの時期だけは、広場には外国から来た行商人たちが露店を構え、この一角は、普段見慣れた街が異国の商品が並び、大陸中の国家がこの場所に凝縮された様な気分になる。様々な未知の食べ物や商品が並び、そのどれもが魅力的に映る。私の知らない場所に、私の知らないものが沢山あるのだと、普段は自制している子供心を刺激し、まるでマルネェ大陸を冒険している様な気分になる。


 そんな広場の中で、特に人が群がり、大混雑を起こす露店がある。


「なんだろう?」


 近づいてみるも、大人たちが群がっているので、私の身長では何が売られているのかが見えない。ぴょんぴょんと跳ねて見ても、大人たちの身長には遠く及ばない。


「何を売ってるんですか?」


 購入を諦めたらしきひとりの男の人に声を掛け、聞いてみた。


「ん、魔導具だよ。信じられない程安くてね。…って、リリーちゃん!?」


 何故驚くんですか?しかし、魔導具だと…しかも安い、それも信じられない程だと…見習いとはいえ職人の端くれ、俄然興味が湧いてくる。


「通して下さい…」


 大人たちの間に潜り込み、押し潰されそうになりながら前に進む。こういう時だけは身体が小さくて良かったと思える。いくら安かろうと、私の現在の所持金で買える様な物は無いと思うが少しでも見ておきたい。


「ぷはっ、死ぬかと思った…」


 最前列の大人たちの足の間から顔を出し、ようやく並べられた商品が目に入る。とはいっても、ほとんど売れてしまい、値段と商品名の書かれた札だけとなってしまっている。商品名からして台所用の魔導具がメインか…しかし、窯の魔導具が金貨2枚って相場の十分の一以下じゃないか!それ以外も安い、べらぼうに安い。


 さぁっ、と顔から血の気が引いていくのが分かる。マズい、ただせさえ借金で首が回っていないのに、こんなのが市場に出回り始めたら、間違いなく廃業に追い込まれてしまう。


 それと同時に疑問が浮かぶ、以前エゴールさんに教えてもらった魔石の金額が金貨2枚。勿論、それよりも質の低く、小さい魔石ならもう少し安くなるだろうが、それでも計算が合わない。魔石以外に材料費や加工を行う職人たちへの賃金、それに、ここに来るまでの移動費に関所で支払う税。それらを加味すればどうやったって赤字だ。でも商人が赤字になる商売、それも大量の商品が同様に赤字前提の価格でわざわざ長距離移動というリスクを負って売りに来るとは思えない。


 目的は何なのか?魔導具の市場を乗っ取る為か?この商人が何処から来たのか、知っておかなければならないと直感が警報を鳴らす。




「ごめんよ、もう売り切れだ。」


 商人の男が大声でそう言うと、


「畜生、もっと早く来ておけばよかった。」


 そんなことを言いながら、客が捌けていく。そんな中で、私はジッとその価格表と商品名も見つめていた。どう考えても、この値段はおかしい。絶対になにかある。そう確信が持てる。


「お嬢ちゃん、どうかしたのかい?悪いが、売り切れだよ。」


 商人の男が、片付けをしながら、一人店の前に残った私に声を掛ける。苦笑いを浮かべるその顔は、恐らく二十代前半辺り。初めて見た黒い髪のその青年の苦笑いは、恐らく私の風貌を見てのことだろう。貧相な身体つきにボロっちぃ服を身に纏う私に、いくら格安といえど、魔導具を買うお金を持っている様には見えない。まあ、実際持ってないんだけどね。


 でも、その目は違う。邪魔な子ども(私)を邪魔に思う目ではない。明らかな憐れみの目。いち早く露店を片付けたいという思いと、憐れな子どもを無下に出来ないという葛藤が、その苦笑いと目から滲み出ている。恐らく、正義感の強い人なのだろう。それはなんとなく分かる。私にとって幸運なのは、彼が全く私を警戒していなければ、商売敵であるとは微塵も思っていないことだろう。


 なら、私は、無垢な子どもを演じるだけだ。


「ねえ、何処から来たの?」


 ヴィドノ以外から来た人を珍しがる子どもを演じ、出来るだけ可愛らしくなるように声を出す。始めて自身の成長の遅い体に感謝した、恐らく、7、8歳くらいに見てもらえるだろう。


「俺かい?俺は自由都市連合のロンデルって街から来たんだ。って言っても分からないか。」


 自由都市連合の首都に当たる一番栄えた都市だっけ、名前は知ってるけど、それ以外は知らない。それに無知であると思ってもらう方がいいだろう。実際に知らないことの方が多いわけだし。


「うーん、分かんない。そこでは魔導具は全部安いの?」


 言って、後悔する。話題が唐突過ぎた。そういった交渉など始めてで要領など分からないのに、焦り過ぎた。


「お嬢ちゃん、魔導具の相場を知ってるのかい?」


 私を貧しい子どもと思っている彼からすれば、不自然だろう。普通の貧困層の子どもは魔導具の値段を知ることもなければ、価格表も読めないからだ。それに接することもなければ、店に入ることも許されない。だから、不自然に映るのは当然で、彼の態度が少し変わるのも仕方がない。


「ううん、知らない。皆が安いって言ってたから。一生懸命働いたからお金もあるよ。ねぇ、今度来た時は私でも買える?」


 そう言って、昼食代として入れておいた、汚い銅貨を数枚ポケットから出す。こうなったらとことん無知で貧しい子供を演じきってやる。


「それじゃあ足りないかな…」


 憐れみの混じった苦笑い。それは私を馬鹿にするものではなく、どこか悲しみの宿った目だった。


「でも、きっと、いつか報われる日が来るから、だから、それまで待っていてくれるかい?」


 そして紡がれた言葉に困惑する。意味が分からない、この人は商人であり、慈善活動を行う修道士ではない筈だ。演技ではなく、キョトンとしてしまった私の手に何かを握らせくる。


「コンフェートってお菓子だけど、知ってるかい?甘くて美味しいんだ。」


 紙に包まれた金色の塊。綺麗だが、触ると少しベタベタとした。恐る恐る指についたベタつきを舐める。


「甘い…!」


 脳に走るガツンとした刺激、疲れが緩和される様な甘さ。躊躇いもなくその黄金の塊を口に放り込む。甘くて美味しい。甘味なんて貴重な物だ。これは今までに感じたことがない程甘い。時折、お菓子を貰うが、ほんのりと甘い程度で、こんなに甘味が全面に押し出されることはない。


「それは砂糖を溶かして作ったお菓子で、果物の果汁を混ぜたりして、色んな味があるんだけど、それは味付けしてない安いのだけど、美味しいかい?」


 砂糖、とんでもない高級品だ。温暖な地域でしか育たない植物から精製する調味料で、この北国においては庶民の手に届く様なものではない。自由都市連合のロンデルという街が何処にあるのか知らないが、砂糖が安く手に入らなければこんな贅沢な使い方は出来ないだろう。こんな物を見ず知らずの子どもに与えられる程安価な物であるとするなら、赤字前提の魔導具よりも砂糖を売りに来る。その方が絶対に利益が出るし、手堅い商売になる筈だ。益々分からなくなってくる。


「美味しい!ねえ、これは売ってないの?」


「それは良かった。残念だけど、これは売れないんだ。砂糖の販売には許可がいるからね。」


 そういう事情があるのか。だからといって、赤字前提の魔導具を売る理由は分からないけど。


「それじゃあ、元気でね。」


「あっ―」


 もっと色々と聞きたかったが、彼が片付けを済ませた露店を畳み、帰ってしまう。口に残るコンフェートは徐々に溶け、小さくなっていた。その背中に声を掛ける。


「来年も来る?その時はもっと色々教えて。」


「うん、約束だ。」


 振り返って、笑顔で答える彼の目は今まで以上に優しいものだった。




 その約束どころか、ヴァルラムさんとの約束、来年にしていた約束はどれも守ることが出来ないなんて、この時には微塵も思っていなかった。




 翌日の早朝、朝食の具無しの水スープ(水)を食卓に並べながら、今日の予定を考える。今日は特に仕事を頼まれていないし、親父の手伝いしながら、魔導具作製の練習して、午後からはまた広場に行ってみようかな…


「あ、おはよう。親父…あれ?」


 起きてきた親父がだらしなく食卓の椅子に座る。ここまではいつも通りだけど、なんか今日はいつものだらしなくヨレヨレになったボロボロのシャツではなく、小奇麗なちゃんとした格好をしている。そんな服持ってたんだ…


「リリー、おめぇも着替えてこい。この間、ヴァルラムんとこから貰って来てただろ。」


 ヴァルラムさんの所を手伝いに行っていた頃、ジャンナさんに何着かお古を貰ったが、普段着にするとすぐボロになってしまうという貧乏習慣が身に染み付いてしまっていた為、いつ来るか分からない大切な用事様に大切にしまってある。


「どっか行くの?」


 親父が身なりを整えるなんて、よっぽどのことがない限り有り得ない。何か大事な用事なのだろうか?それに私までも着替える必要があるのはついていく必要があるということだろう。


「完成したからな。エルドグリースの屋敷に持って行く。」


 完成したというのは、あの恐ろしい装飾品の魔導具のことか。あんな恐ろしい物、悪用以外の用途が見当たらないなぁ。しかし、エルドグリース家の御屋敷かぁ。外からは塀しか見えないからなぁ、中はどんな豪奢な作りなのかは見てみたい。…いや、それ以上に、


「もっと早く言ってよぉ!あぁ、もう!どうしよう!」


 どれを着ていったらいいのか、服だけじゃない。髪型とか装飾品とか色々と考えることがあるのに、なんでこんなに突然言い出すんだろう。


 バタバタと自室に戻り、クローゼットを開け、あれじゃない、これじゃないと貰った服を漁る。髪を結ぶリボンも、新品に変えないと…


 ブツブツと独り言を呪文の様に呟きながら、何度も着替え、髪を梳かす。そして何度も姿鏡に己の姿を写し、何度も着替え、髪を梳かす。


「いつまでやってんだ!このマセガキ!おめぇがいくら取り繕っても変わんねぇし、誰も見てねぇよ!」


 親父の怒鳴り声と共に猫の様にぶらんと掴まれ、玄関まで運ばれる。なんてことを言いやがるこのバカ親父め。女はいつだって美しく見られたいんだこの野郎。


 靴と一緒にポイッと家の外に投げられる。


「待って、この靴じゃなくて…」


「うるせぇ!ったく、めんどくせぇ。どんだけ取り繕っても、おめぇは貧乏な小汚いクソガキだ。分かったらさっさと行くぞ。」


「なん…だと…この糞親父!貧乏なのはお前のせいだろ!」


 ぎゃーぎゃーと言い争いながら、大切にしまっておいた靴を取り出し、履き替える。全く、この糞親父は乙女心というものを全く理解していない。来年には60歳というのに結婚出来ないのは、こういうところも間違いなくその一因だと思う。




「ねえ、このリボン、おかしくないよね?」


 隣を歩く親父に、二つ結びにした髪を束ねる赤いリボンについてそう聞く。


「何回同じこと聞いてんだ…誰もおめぇの事なんか見てねぇし、気にもしてねぇって言ってんだろ。」


「違う!その前は髪型だし、そのもういっこ前は靴!それにそれのもういっこ前は服だから!リボンについて聞いたのは初めてだもん!あと、なにその言い方!養子とはいえ、娘に言うことか!少しは可愛いくらい言えよ!」


「え、お前、自分を可愛いと思ってんのか…あんだけ鏡見てただろ…」


 今まで、何度かこの糞親父に殺意が湧くことはあったが、そんなものを凌駕する殺意が湧く。そこまで自惚れてはないけど、中の上くらいあるだろ!成長が遅いのはお前のせいだ!


「この糞親父!最低っ!」


 もういい、こいつとは暫く口を聞かない。怒りしか生まないし。




 エルドグリース家の御屋敷、その前まで来る。高く築かれた石壁、その成型された石の一つ一つから魔力を感じる。そんな魔力により強化された強固な石壁を囲うように掘られた幅4m程の水堀。その水堀の渡しとなるべき橋は、石壁側に上げられている。御屋敷というよりも、お城と言う方が適切かもしれない。不動の姿勢で立つ若草色の軍服を身に纏う衛兵もそう思わせる一因だろう。


「バンク・ペチェノだ。納品に来た。」


 親父が微動だにせず立つ衛兵にそう言って、ペチェノ家の百合の花の華印(家紋の入った印鑑)を見せる。


「失礼します。確認致しました。暫しお待ち下さい。」


 そう言って、石壁の方へ振り向き、


「橋下ろせ!」


 と大声で言う。その声が響くと、数秒後、ゆっくり橋が下りてくる。その橋を渡り、金色の正肩章、に同色の飾緒、門前の衛兵よりも豪華な軍服を纏った兵がこちらにやって来る。


「ペチェノ様、ご案内致します。」


 恭しく一礼し、兵が私たちを誘導する。そういえば貴族だったな、私たち…兵の態度で今更ながらそんな事実を思い出す。貧乏生活と敬語を使われる機会なんてなかったから忘れていたよ。


 誘導する兵の後ろを歩き、橋を渡ると、噴水に色とりどりの花々、綺麗に成型された木々、隅々まで手入れの行き届いた優美な庭園が広がる。この庭を維持するだけでもとんでもないお金が掛かるだろう。


 庭園だけでも、エルドグリース家の財力というものをありありと見せつけているが、そんな庭園の先にそびえ立つ真っ白な建物、所々に金や緑の装飾があしらわれ、見るものを魅了する美しさだ。そんな豪華絢爛を体現した様な美しい建物は、やはりお城という表現が正しく思える程、頑強で堅牢な作りをしており、内側から見る石壁も、外側からは分からない仕掛けが見て取れる。


「凄っ…」


 正直それ以外の感想が出ない。このエルドグリース家の御屋敷は、庭園を合わせれば、ヴィドノの街の五分の一を占める程広大だ。左右を庭園に挟まれた道を歩いて行くと、途中途中で、仕事中の庭師や使用人たちが私たちに一礼する。その所作一つ一つからも優雅さが滲み出ており、この御屋敷に勤める人々の隅々まで教育が行き届いているのだろう。使用人たちの身に纏う衣服も一流とまでは言えないが、少なくとも、街で過ごす一般市民の数ランク上の服を纏っている。私たち貧乏親子と比較するなら月とスッポン、比較するのも烏滸がましい。今回ばかりはジャンナさんに貰った服だからそこまで見劣りしないけど、普段着ならそうなる。


「少々お待ち下さい。」


 重厚な木製の玄関の扉の前でそう告げられ、親父とふたり、その場で待つことになるが、ボケッと突っ立っている親父とは違い、私は周りの庭園や装飾に目が移り、キョロキョロとせわしなく周囲を見回していた。


「ペチェノ様、お待たせ致しました。私わたくし家令のドミトリーがご案内致します。」


 ビシッとした燕尾服を着こなす、若干白髪の混じったナイスミドルが一礼し、現れる。カッコイイなぁ。ドミトリーさんのによって重厚な扉が開かれる。白い大理石に敷かれた赤い絨毯は金糸で縁取られており、壁は白の大理石と金と緑色で施された幾何学模様で装飾されている。双方から伸びる階段に何個も並ぶ扉。内部はお城というより宮殿だ。


「ペチェノ様、こちらへ。」


 導かれるままに、右方向へと伸びる廊下を歩く。壁に掛かる絵画や工芸品に剝製。そのどれもがとても価値ある品々に見える。その一つだけで、我が家の借金が返済出来るのではないだろうか…


「こちらでお待ち下さい。」


 廊下に並ぶ扉の三つ目、女神アプロディタ様の描かれた白い扉が開く。導かれるままに室内へと入る。これまた豪華絢爛、我が家が二軒ほどすっぽり入るのではないかという広々とした空間であるのに、これまで歩いてきた廊下や装飾など、取るに足らぬと言わんばかりに、見るものを圧倒する美術品が飾られており、中央に置かれた机やソファーも大変優美な物だ。


 余りにも場違いな空間に臆する私とは対照的に、親父はスタスタと部屋の中を歩き、どっしりとソファーに腰を下ろす。無礼ここに極まれりと言わんばかりのその態度に、普段なら頭が痛くなるが、今だけは少し頼もしく、又、ありがたく思う。比較して少しはマシと思ってもらえるからね。


「し、失礼します。」


 そんな親父の後をついていく様にソファーの前まで行き、一礼して腰を下ろす。


「しばらくお待ちください。御用が御座いましたら、こちらのアリサへとお伝え下さい。」


 ドミトリーさんがそう言って丁寧に一礼する。その左に立つメイド服の女性も同じく一礼している。いつの間に…


「アリサ、失礼のないように。」


「畏まりました。」


 ドミトリーさんがアリサさんにそう言って、一礼して、静かに部屋を出ていく。アリサさんはドミトリーさんに一礼した後、すぐさま私たちの方に向き直り、


「何なりとお申し付けください。」


 と再び一礼すると、テキパキと横に置かれたワゴンにティーセットを並べる。


「失礼致します。」


 静かに、且つ素早く、ワゴンを机の横に着け、紅茶とお茶請けのお菓子を並べる。


「お砂糖とミルクは如何致しますか?」


 砂糖とミルクだと…どっちも高級品じゃないか!そんなもの恐れ多くて頂けない!


「俺はどっちもいらねぇ。」


 つくづくマナーという概念の無いアホ親父がそうぶっきらぼうに言う。我がペチェノ家はエルドグリース家に借金している身、そんな贅沢は出来ない、だけど、砂糖とミルクという甘味の誘惑が私を葛藤させる。


「お嬢様は如何致しますか?」


 なかなか返事をしない私に、アリサさんが柔らかい笑顔で質問する。これ以上待たせるのは失礼だ。


「えっと…砂糖とミルクちょっとずつで…」


 欲望と理性の妥協点、子どもなのでこの程度は許されるだろうという希望的観測が導き出した結論だ。


「畏まりました。」


 そう言って、芸術的な美しさで紅茶を入れるアリサさん。親父の前置かれたソーサーにカップを置き、次いで私の前にも置かれる。本来ならば透き通る様な紅のお茶は、ミルクによって、美しいベージュになっている。


「どうぞ。」


 そう言って、ワゴンの横で両手をおへその位置で合わせてピシッとした姿で立つアンナさん。


「頂きます。」


 そう言って、左手でソーサーを持ち上げ、カップの取っ手を右手でつまみ、口元へと運ぶ。


「美味しい…」


 砂糖の甘味、それをまろやかに包むミルクの優しさ。それでいて紅茶の香りや風味を消さない絶妙な匙加減。紅茶とはこうやって飲むものだと言わんばかりの衝撃と感動を与えてくれる。


 お茶請けのクッキーに無意識に手が伸びる。綺麗な円形のクッキー、その中心に窪みが作られ、そこに乗る色とりどりジャムはまるで宝石の様だ。赤いのは木苺だろうか?じゃあ、この赤黒いのはブドウかな?黄緑色のも気になる…どれも魅力的でどれもが芸術品のようだ。


 部屋の片隅に飾られた女神アプロディタ様様の絵画、その赤い瞳がちらりと目に写る。それに導かれる様に、赤いジャムの乗ったクッキーを手に取り、口へ運ぶ。下の前歯に掛かるサクッとした感触と、上の前歯が掛かるねっとりとしたジャムの食感を越え、クッキーにぶつかる。


 口の中に広がる木苺のジャムの甘酸っぱさ、その少し後に広がるクッキーの塩味とバターの風味。その二つが口内で得も言えぬハーモニーを醸し出す。美味しい、美味し過ぎる!昨日自由都市連合の商人に貰った砂糖菓子も美味しかったけど、あれとは違い、甘さだけではなく、甘さと酸味、塩味があり、おまけにバターの芳醇な香り、それでいて後味が残らずにサッパリとしている。あの砂糖菓子とは違う、上品な刺激が味覚を支配する。クッキーによって吸い取られた口内の水分も、その後に続く紅茶を一層引き立てる。


 エルドグリース家の方々は、こんな美味しいものを毎日食べれるのか…これ、持って帰れないかな、とか考えている私の気持ちなんて、彼らに分かるだろうか、いや、分かる筈がない。




 隙を見て、ハンカチに包めないだろうかと、考えていると、コンコンコン、と扉をノックする音が部屋に響き、暫くして扉が開く。


「お待たせしてすまない。」


 そう言って、部屋に現れたのはベールナルド・モコシュ・エルドグリース様。現エルドグリース家当主サムイル様の長男であり、後継者だ。現在82歳というご高齢のサムイル様に代わり、政務の大半を取り仕切っている。


 そのベールナルド様の後ろについて入室したのは、そのご長男のフェリクス様だ。


 サムイル様から見て、息子となるべールナルド様が御年58歳、孫となるベフェリクス様は37歳で、子どもも既に4人もいる。因みにサムイル様の末の子どもたるアプロディタ様は20歳で、孫より年下の娘となる。…なんか、いろいろ凄いわ。


「ほれ、頼まれてたもんだ。」


 べールナルド様がソファーに腰を下ろすと同時に、親父があの魔導具が入った小箱を机に置くと、べールナルド様が、その小箱の蓋を開け、暫く眺めて蓋を閉じる。


「確かに、依頼通りだ。とはいえ、アレ・・は今ここにいなくてな…」


「調整はどうすんだよ?」


 完璧主義者の親父だ。依頼通りの寸法で寸分違わず仕上げているが、実際に身に着けた際の若干の誤差さえ許せないということだろう。でも冷静に考えるんだ、あんな魔導具身に着けた時点で調整どころではなくなるだろう。魔力欠乏症で死ぬっていうのに調整も何もあるものか。


「現地に行ってくれるか?道中に掛かる費用は出す。」


「現地って、あいつ今何処にいるんだ?」


 そもそも、その装飾品を贈られる不幸な人は何者なのか…こんな金掛けた暗殺なんて…


「シャンバルだ。」


「んじゃ、おめぇが行け。」


 ポン、と私の肩に置かれる親父の手。…は?


「待って、意味が分からないんだけど!シャンバルって魔法生物がうじゃうじゃいて、常時極寒の地獄みたいな場所でしょ!死んじゃうから!」


 あんな場所、私が足を踏み入れたなら、即死待ったなしだ。


「シャンバルは魔石の最大埋積地だ。魔石本来の姿を知ることで、加工のやり方が本当の意味で分かってくる。」


 噓だ、絶対自分が行きたくないから押し付けてる。だってそんな修行、聞いたことないもん。


「道中、護衛はつける。シャンバルに入れば間違いなく安全だ。私としてはどっちが行こうと構わないが、危険は殆ど無いと保証する。」


 いや、べールナルド様、シャンバルが一番危険なんですけど… 


「移動には馬車を用意する。三日後でよいか?アレ・・にも連絡しておかなければならぬしな。」


「ああ、問題ねぇ。」


「問題大有りだよ!この馬鹿親父!待って下さい。私行くって言ってないですから!」


 べールナルド様も話進めようとしないで下さい。


「それは君たちの問題だな。まあ、第三者として言わせてもらうとすれば、リリーヤ嬢、君が行く方がいいとは思う。君の為にもなるだろうし、バンクが言った場合、我がエルドグリース家だけでなく、君たちペチェノ家のいろいろと面倒なことになるだろうからな。では、失礼する。」


 待って下さい。訳が分からないですよ、その説明。


 そんな私の思いは届かず、バタンと閉まる扉。マジであの説明で終わりですか…


 部屋に残された私たちとフェリクス様。数秒の沈黙の後、


「三日後の早朝、家の前に馬車を手配しておくので、準備を頼む。それと…」


 フェリクス様が親父から、私へと視線を移し、


「リリーヤ嬢は今10歳だったな。」


「は、はいっ!そうです。」


 何故突然年齢を聞くのだろう?


「イーガリと同い年だな。魔導学園では仲良くしてくれると嬉しい。」


 イーガリ様はフェリクス様の二番目のご子息だ。私と同い年だったんだね。知らなかったよ。因みに、仲良くしてくれとは、要するに取り巻きとして働けという命令である。まあ、有力者に歯向かう気などさらさら無いし、むしろ有力者とのコネクションは喉から手が出る程欲しいわけで。


「こちらこそ、どうかよろしくお願い致します。」


 深々と頭を下げながら思う。ごめんなさい、今それどころじゃないです。これ完全に私がシャンバル送りにされる流れだよね。








―――――――――――――――――――――――――――――――




 ここがヴィドノか…


 故郷の自由都市連合、その中央のやや南寄りに位置する最大都市であるロンデルを旅立ち約一か月、街を取り囲む様に築かれた白く塗られた石壁、その門を潜り、ようやく辿り着いたその街は、大陸で最も美しい街と称されるだけあり、圧倒される。


 敷き詰められた石畳は、街の隅々まで舗装されており、荷馬車もスムーズに進むことが出来る。その舗装費用だけでも、ドドル王国とルリラ皇国の間にある小国家なら、数年分の予算が必要となるだろう。それ以外にも、大聖堂や市民たちの憩いの場となる中央に位置する広場、そこに設置された石像や噴水、街の至る所に見える芸術性の高い建造物たち。恐ろしく金の掛かった都市造りがなされている。


 恐らく、長い年月を掛け、築き上げられたのだろう。大陸で最も長い歴史を持つと言われるエルドグリース家のお膝元となる街故の美しさなのだ。


 それと同時に思う、これだけの街を築く為に、いったいどれだけの民の税が搾り取られて来たのか…道行く人々は、この街に着くまでに通ってきたどの町や村の人々よりも生活水準が高く見える。それこそ、ルユブル王国の王都、モスカフの市民以上だろう。まあ、あそこは貴族が多く、そっちの居住区の方は煌びやかではあったが。




 まあ、そんなことはどうでもいい、俺は与えられた任務を全うするだけだ。


 行商人が集まっている広場で俺も荷物を開き、台に魔導具を並べていく。与えられた任務は二つ。大赤字でこの魔導具たちを売り捌くことと、戦後、四年経ったルユブル王国と消えた英雄の調査だ。


 一つ目の任務は全くもって容易な任務だ。こんな価格であれば、何もせずともあっという間に売り切れるのは必至だ。だからこそ、二つ目の任務こそが真に成果を求められている任務なのだろう。


 大陸中央に位置するルリラ皇国、そこが俺の本当の出身地だった。十年以上を過ごしたその地での記憶は、憎しみしかない。モバド人というだけで、その民族に生まれたというだけで、迫害を受け続けた。奴隷様に扱われる日々、劣悪な生活環境と過酷な労働で、父親は身体を壊し、程なくして死んだ。それによって、ただでさえ厳しい状況は更に悪化した。


 このままではそう長く生きることはない。そう悟った俺たち一家は国境を越える決意をした。どうせこのままここに居ても、辛い生活の中で死ぬだけなら、いっそ、希望に縋って死ぬ方がいい。金も力も、魔力もない俺たち家族は、人目を避けながら必死に歩き続けた。無許可の国境越えは重罪、それが俺たちモバド人となれば死罪は確定、散々痛めつけられてからの死刑だろう。見つかるわけにはいかない。


 必死歩き続け、国境の街ベルンに辿り着いた時には、体力も金も、何もかもが尽き始めていた。厳重な国境警備、一日中、警備が手薄になる瞬間を待ち続けていたが、そう都合よくいかない。体力の限界が近づいた幼い妹は、ぐったりとしている。やはり無謀な試みだったのか…希望に縋り付いての野垂れ死に。そんな未来が見えてきた時だった。


「君たち、大丈夫かい。」


 身なりのいい、四十代前半くらいに見える男。帽子の隙間から見える黒い髪。俺たちと同じモバド人…


「逃げたいのかい?ならついておいで。」


 俺たちの様子を見て、何も聞かずにそう言うが、余りにも都合が良すぎる。見ず知らずの俺たちを同じモバド人だからといって、手助けするなんて有り得ない。そう頭では理解しているが、それ以外に生き残る望みは無かった。


「ここに乗って。」


 荷馬車に俺と妹、母親の三人が乗せられる。


「無理だ!国境で荷物の検査がある。」


 こんな単純な方法では結果が見えている。


「大丈夫。安心してくれ。絶対に君たちを逃がしてみせる。」


 俺の目をジッと見つめるその黒い瞳に、吸い込まれそうになる。なんという目だ。なんと表現すればいいのか分からないが、何故か信頼できる気がした。




 ガタガタと揺れる荷馬車の中で、俺たち三人は身を寄せ合って、息を潜めるていた。揺れが止まる。国境の関所へと着いたのだ。これから検査の為に、兵士がやって来るだろう。無駄だと分かっているが、更に息を潜める。自分の心臓の鼓動が五月蝿いくらい耳に響く。


「それでは。」


 男の声の後、またガタガタと荷馬車が揺れ始める。進んでいる!?なんで!?検査は!?何事もなく国境を越えていく荷馬車。国境を越えられた喜びよりも、その驚きが先に来た。


「もう大丈夫だ。出てきていいよ。」


 こちらへ振り向き、そう言った男の声で、母は歓喜の涙を流し、弱った妹を抱きしめていた。俺は、幌の外、男の座る馭者席に近づく。


「なんで…なんで…」


 なんであっさりと関を越えられたのか、そう聞きたかった。しかし、幌の外に広がる世界が、まるで長い闇の中で見つけた唯一の光の様に、眩しくて、明るくて、言葉が出なくなった。


 逃げれたんだ。そう実感が湧き上がり、涙がボロボロと零れてくる。


「ここで降りるかい?それとも、このまま一緒に来るかい?」


 そんな俺の姿を見て、男が笑顔で質問してくる。その笑顔を見ると、言葉が出ない。だけど必死に首を縦に振り続ける。この人について行きたい。そう思わせる不思議な笑顔だった。




「お嬢ちゃん、どうかしたのかい?悪いが、売り切れだよ。」


 魔導具を売り切り、客が捌けていった後、こちらをジッと見つめる少女がいた。8歳くらいだろうか…思わず声を掛けてしまった。これから調査任務に移行する予定だったので、無視しようかと思ったが、その痩せ細った体と継ぎ接ぎだらけの服を見て、そう出来なかった。まるであの時の俺だ。あの時、俺もあんな目であの人を見ていたのだろうか。そう思うと無意識に苦い笑みが零れる。


「ねえ、何処から来たの?」


 少女が俺にそう質問してきた。そして一歩、俺の方へ近づいて、ブロンドのツインテールが小さく揺れる。瘦せているが、その顔は愛くるしい無邪気なものだ。皇国で忌み嫌われたこの黒い髪を見て、嫌悪ではなく、好奇心を持ったのだろうか?




 少女と話をしていると、彼女は本当に可愛らしい、純粋な子だと感じた。まともな食事にありつき、人並みの生活が送れたなら、きっと、素敵な大人になるだろう。それと同時に、不憫に感じる。生活水準の高いこのヴィドノという街で、豊かな生活を送っている様に見える市民と違い、この子はボロボロの服を纏、瘦せ細っているし、無知だ。どう考えてもまともな生活を送れていないのだろう。


 美味しそうに砂糖菓子を口に含む少女を見て、あの時救われた自身を思い出す。この子を俺は救えるのだろうか…


 まだ俺にその力は無い。何よりも、もっと大きな目標の為に、今はやらねばならない任務がある。


「それじゃあ、元気でね。」


 悔しいが、俺はまだ無力だ。でも、いつか必ず、あの人が言う、かつての俺の様な人間が幸せになれる世界を作るんだ。歩き始めた俺の背中に少女の声が掛けられる。


「来年も来る?その時はもっと色々教えて。」


 強い子だな。こんな境遇であっても、未来を見ている。


「うん、約束だ。」


 振り返って、笑顔で答える。絶対に俺が救ってみせる。そう誓った。




 そして、翌年、一日中彼女をあの広場で待ち続けていたが、姿を見せることはなかった。


 なにかあったのか?何処にいるのか聞き出そうと、街の人々に彼女の特徴を伝え、尋ねる。名前を聞いておけばよかったと後悔する。


「ん?ああ、それならリリーちゃんですね。頑張り屋さんのいい子ですよ。」


 教会の神父が、伝えた特徴からそう答える。リリーというのか、あの子は。


「それで、彼女は何処へ?去年、彼女と約束していたんです。」


「そうか、それは困りましたね。私も詳しくは知らないんですが、彼女、今は北のシャンバルにいるそうですから。」


 シャンバル…永久凍土に閉ざされた極寒の地、魔石の一大産地ではあるが、強力な魔法生物が闊歩し、あの子の様な子どもが生きていける場所ではない。


「なんでそんな所に…」


 いや、分かる。分かっている。魔石の採掘は過酷で、人手はいくらあっても足りない仕事だ。だからといって、そんなのは余りにも残酷だ。


「ヴィドノを発つ前日に、私の所へ仕事で行くと言っていましたが、浮かない顔でした。あれから一年経つんですね。元気だといいのですが…」


 心配そうにそう言う神父。


 元気なわけがない。彼女はきっと…


 去年のあの時に俺が連れ出していたら、彼女の人生は変わっていた筈だ。己の無力さと、失ったものの重みがのしかかってくる。


 俺は、何も救えないのか…


「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ。」


 心配そうに俺を見る神父に片手を上げて問題ないと伝え、礼を言って、教会を後にした。






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