第15話 カレーの味


「桜!」


 俺は思わず桜の名前を呼んでしまった。

 あんなに毎日俺につっかかってきていた桜と、半日会わなかっただけでなぜか相当な間会ってなかったような錯覚に襲われていた。


「……何?」

「い、いや元気かなって」

「なんなの気持ち悪いお兄ちゃんね。また藤堂先輩になにかされたりでもした?」

「い、いや……」


 あれ、思ったより普通だ。

 こいつ、俺に告白したんだよな……


 俺は勇気を振り絞って声をかけたというのに、桜のあっさりした反応は一体なんなんだ。


 少し拍子抜けしていると、桜が俺に近づいてきた。


「返事、絶対聞かせてよ」

「へ、返事?」

「わかるでしょ?その、こ、告白のよ……」

「あ、まぁ……」


 耳まで赤く染める桜の顔を見て、俺は少しホッとした反面また頭を悩ませた。

 あれが気まぐれでも嘘でもなく本当だったのだと改めてわかったことで、逆に自分がどうしたいかがわからなくなっていた。


「なによその顔、嫌なの?」

「そ、そういうわけじゃ……」

「お兄ちゃんのこと好きになるやつなんて、頭おかしいやつ以外なら私しかいないから。光栄に思いなさいよ」


 言って桜はベーッと舌を出してから走っていった。

 

 そんな彼女の後ろ姿を見ながらも、俺はまだ気持ちの整理がつかない。


 桜のことは多分好きだ。

 しかしそれが異性としてのものかどうか、ということで俺にブレーキをかける。


 そしてもう一つは忍だ。

 たしかにあの人は頭がおかしいのかもしれない。

 でも、健気な一面や俺に一途なところを知ってしまった今、彼女に対しても少し特別な感情を持っている自分を自覚している。


 それが恋なのかただの同情心なのか、それもわからない。


 結局今日も優柔不断の虫が俺を惑わせただけだ。

 午後からは授業の内容もしのからのメールも頭に入ってこない。


 ただぼんやりとしたまま放課後になり、もちろん約束を忘れない忍に連れられて彼女の家へ向かうこととなった。


「忍の家って近いの?」

「私の家は駅の裏の方にある。喜べ、一人暮らしだぞ」

「いやそれは別に」

「なぜだ、誰にも邪魔されずに済むではないか」


 忍はご機嫌だ。

 一人暮らしというその家に俺を連れ込んで押し倒すつもりでいるのだろうか。

 もちろん屈するつもりはないが、また雰囲気に流されたらどうなるかわからない。


 そう思うと彼女と二人きりになるのはとても不安だった。


「着いたぞ、ここだ」

「はぇー、綺麗なマンションですね」


 駅の裏にある新しいマンションの一室が忍の部屋だという。

 聞けばこのマンション、藤堂先輩の家の所有物らしくかなり格安で借りているそうだ。


 早速オートロックを解除し、エレベーターで五階まであがり忍の部屋に真っすぐ向かった。


「しかし綺麗なところですね。セキュリティもすごい」

「あかねが私の為に特別に一室開けてくれたのだ。やはり女子の一人暮らしは危険がつきものだからな」


 話をしていてわかることは、忍と藤堂先輩は相当仲良し、ということだ。

 幼なじみとは聞いていたが、正直そういう親友がいる忍が羨ましいなんて思ったりした。


「さ、ここが私の部屋だ。遠慮せずに入れ」

「お、お邪魔します……」


 入ると手前にバスルーム、そしてキッチンがついた広い廊下があり奥にロフト付きの十畳ほどの広さの部屋がある、大きなワンルームだった。


「へぇー、広いなぁ。それに片付いてる」

「ああ、私は綺麗好きだからな。そこに座りたまえ」


 なぜか二つ並んだ座椅子……これは友人が来た時用なのか。

 まぁ考えても仕方ないのでそれの一つに腰かけると、忍がすぐにお茶とお菓子を持ってきてから、また何かをゴゾゴゾと探している。


「少し待っていろ、確かこの辺に……あった」


 忍がロフトの上から出してきたのは、アルバムだ。

 随分立派なもののようだが。


「それは?」

「アルバムだ、ここに思い出の写真を入れておこうと思ってな」


 そう言って俺の隣に座る忍は、妄想を爆発させていく。


「見ろ、この最初のページには私と航の付き合った記念の写真をずらりと並べるのだ。そして捲ったところに二人の初めてのお出かけ、さらには二人でのお泊りデートなんかの写真をこの五ページで仕上げるのだ。さらに……」


 空のアルバムをぺらぺらと捲りながら忍は俺との未来予想図を赤裸々に語る。

 正直言うと重い、そしてちょっと怖い。


 でも、忍があまりにも嬉しそうに語るもんだから俺もつい聞き入ってしまう。

 時々「航が浮気をして入院した時のお見舞い写真なんかも入れたらいいな」なんて不穏なことを言って笑えない場面もあったが。


 だいたいどうやったら浮気と入院が結びつくんだよ……絶対誰かの仕業だろそれ。


「どうだ、いいだろう?早くこのアルバムをいっぱいにしたいな」

「そ、そう、だな」

「ではまず、記念すべき一枚をここでどうだ?」


 忍は自分の携帯で自撮りする格好をとって、俺の肩をグッと引き寄せた。

 そしてパシャッと一枚写真を撮り、再び画面を見て幸せそうな笑みを浮かべていた。


「航……いい写真だ」


 俺と写った写真によくそこまでうっとりできるなと呆れながらも、あまり悪い気はしない。

 そして写真に味をしめたのか、忍はその後も勉強している俺を不意打ちで撮影したりしていた。


 何かとても楽しい時間だった。

 てっきり入室早々に押し倒そうとしたり、ヒステリックが爆発したりするのではと考えていたが、忍はいつもより少し無邪気でお茶目なだけで、何もしてはこなかった。


 勉強の途中で忍が夕食の準備を始めていた。

 そして俺が一息ついているところで、カレーを持ってきてくれた。


「夕食にしよう、腹が減っては戦もできん」

「あ、いい匂いだなぁ。いただきます」


 忍のカレーを一口。その瞬間反射的に「うっま!」と言ってしまう。

 カレーって誰が作ってもそこそこにはなるけど、ここまでうまいものは珍しい。


 一体この短期間で何を入れたらこんなコクのあるカレーができるのか。

 あまりのおいしさに俺は無言のままあっさりと完食してしまった。


「どうだ、口に合うか?」

「うん、忍の料理ってめちゃくちゃうまい。どうやったらこんな味になるんだ?」

「ふふっ、愛だと言っておるだろう」

「愛、かぁ」


 相変わらず重い言葉だ。

 しかし前ほどズシンとのしかかるものはない。

 彼女の重みに耐えられる耐性がついてきた証拠だろうか。


 食べ終えてからまた少し勉強を教えてもらい、本当にただ勉強会にお邪魔しただけでお開きとなった。


「カレーご馳走様、本当に美味しかったよ」

「毎日作ってやるぞ。それに……」


 何かを言おうとして忍はもじもじと手をこねた後、玄関を出ようとする俺にグッと近づく。


「私は絶対に桜には負けない。覚悟しておけよ」

「あっ」


 不意打ちでキスをされた。

 そしてすぐに離れた彼女は膝を震わせながら「ま、またな」と声を振り絞って玄関を閉めた。


 その部屋の前で少しだけ余韻に浸った後、俺は忍のマンションを後にする。

 キスのことを思い出してドキドキしている自分のこの胸の高鳴りの正体は何か。

 誰かに恋心なんて持ったことのない俺には果たしてこれが「好き」というものなのかどうか確かめようがなく、ぼんやりと一人で暗い夜道を歩いて家に帰った。


 家に着くと、桜が玄関先に立っていた。


「お兄ちゃん、忍さんとの勉強会は終わったの?」

「ま、まぁ」

「何もしてないでしょうね?」

「そ、そりゃあ」

「なんか怪しい……まぁいいわ、カレー作ったから食べてよ。お腹空いたでしょ?」

「え?」


 まるで自分の家のように俺の家の玄関を開けて中に入る桜は、キッチンに向かいすぐにカレーをよそってくれた。


「はい、お兄ちゃんカレー好きだったでしょ?いっぱいあるから」

「あ、ああ」

「で、でもこれはたまたまおばさんが明日はいないって聞いて作り置きできるからってことでカレーにしただけだけどね」


 少しあたふたする桜を見ていると、忍のところでカレーをご馳走になってきたとは言えず、黙ってそれを口にした。


 正直お腹がいっぱいなので食べられるか不安だったが、一口それを口に運んでからはどんどん箸が進む。


 懐かしい、なんて言い方をすれば桜に怒られるかもしれない。

 しかしお互いの親がいない時に、桜がよくカレーを作って俺にふるまってくれたのを思い出す。


 食べ慣れた味、食べ慣れた辛さのカレーは、どことなく俺を安心させる。

 結局あっという間に食べてしまい、もう何も入らないくらいお腹はいっぱいだった。


「ご馳走様、もうお腹いっぱいだよ」

「そう、ならよかった。明日もカレーだけど我慢してよ」

「ああ、カレーなら毎日でもいけるよ」

「それは……私のだから?」

「え?」

「な、なんでもない!さっ、洗い物したら帰るから。」


 桜はさっさと食器を片付けてから帰ろうとする。

 見送りに行くと、桜がじーっと俺の顔を見てくる。


「な、なんだ?カレーでもついてるのか」

「お兄ちゃん……忍さんの髪の毛ついてるよ」

「え、どこ?」

「……嘘」

「へ?」


 慌てる俺に桜がキスをしてきた。

 それは忍のキスより少し長く、桜の唇の感触がはっきりと俺に伝わってきた。


「ん……これで忍さんとお相子だね。隠れてキスしてなかったら、だけど」

「え、桜お前……」

「なによ、もっかいしてほしかったらあんな女と別れることね!じゃあねお兄ちゃん」


 桜はまた舌をベーっと出してから出ていった。

 

 しばし立ち尽くした俺はやがて部屋に戻る。

 その日俺は忍のメール云々関係なしに寝ることができなかった。


 ◆


「お兄ちゃん……忍さんのところでご飯食べてたんだよね。やっぱり優しい。好き、大好きお兄ちゃん……」


 桜は一人部屋に戻り、唇を触りながらさっきの感触を確かめるようにして眠りにつく。



「あー、航の匂いが残ってる!航、航、コウ……大好きだ、大好きだ―!」


 忍は、早瀬の座っていた座椅子に残るぬくもりを確かめるように頬ずりしながら部屋で一人悶えていた。


 そしてすぐにあかねにもメールで報告をする。

 するとあかねから次の作戦が送られてきた。

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