第2話

 鵜飼ゆり子は美術部である。熱心な部員かどうかはさておき、絵を描けるのなら風景画だろうが、人物画だろうが、水彩画だろうが、油絵だろうが、水墨画だろうが、デザインだろうが、そして漫画だろうがなんでもよかった。彼女が部長になったのは、他の部員が美術自体に関心がなかったからである。彼女たちは漫画研究部がなかったから入部しただけだった。それが如実だったのが文化祭である。例年より小規模の展示が事後問題になった。予算と整合性がないと指摘されたのである。学校側から美術部らしい活動をしろと催促されても、部構成最低ラインの人数の部員たちは、同人作業や漫画を読んでが邪魔されるくらいにしか思ってなかった。名ばかりの部長とはいえ、部を消滅させたなんていう汚名を背負い込むのは気分がよくない鵜飼が見つけたのは、廊下の掲示板に張ってあったはんが甲子園のポスターだった。あるならば提案くらいしてほしいと顧問に恨み言を思ったのだが、それよりも、まずは部員たちを勧誘しなければならない。だが、予想はしていたが、他の部員は「版画なんて興味がない」と一蹴した。鵜飼が「版画に同人描いたら?」と言っても、「彫るのが面倒」で片付いてしまった。やはり廃部か、それとも人材集めかと悩んでいた矢先に後者に流れた。あれよあれよという間に二人を加入させたのだ。とはいえ、内海の絵のセンスは秀でているがあくまで我流。梅川などはずぶの素人だった。助言をしながら試行錯誤を繰り返した。あきらめていた方が肩こりや首こりはなかったろうと何度か後悔するくらいには、手こずった。それでも、なんとか予選通過の作品にこぎつくことはできた。しかし、本選は個々人の作品を提出した予選と違って団体戦。協力して一つの作品を完成させなければならない。さて、どうしたものかとの思案の結果は、分業だった。鵜飼が彫りをするしかなかった。

 はんが甲子園の開幕を緊張の色で迎えたのはやはり鵜飼以外にはいなかった。引率した顧問は緊張という以前に単に落ち着きがなかった。下絵を内海が担当し、それを完成させるまで実質鵜飼の出番はなかった。とはいえ、その間まったくノータッチだったわけではない。道具を借りに行ったり、作業が滞って焦る顧問をなだめたり。それはそれで肩が重くなる気分だった。

 鵜飼とて版画をこなしてきたわけではない。小中学校の授業中で何度かあるくらいで、美術部に入ってからは気まぐれに木版画を一作品仕上げただけだ。それでも素人二人の前で勝ち負けに拘るというより毅然として構えていたのは、自分だけが美術に傾倒してきたプライドというよりも、どちらかと言えば自己顕示欲に近かった。 

鵜飼は彫り始めた。平面からこまごまと噴き溢れる木の屑が、氷の彫刻を現出させる粒子のようにふんわりとしていた。それは作業現場の、同年代の参加者たちの熱気に当てられたのか、あるいは単なる下描きなのにそれ以上の圧倒感を催させた内海の絵の勢いの波に上手に乗れた成果なのか、鵜飼の握る彫刻刀が熟練のダンサーのような動きのためだった。

 彫りを終え、ステージ上のタイマーを見た。マラソンのゴールに置かれているのと同じだったそれを初め見た時は仰々しさにひいていたが、今は完走者の気持ちがなんとなく分かる気がした。それが示す数字から、経過した時間をさかのぼって、自分の作業と手順の思考、体感を思いだそうとした。しかし、うるぼんやりして明瞭さからは程遠かった。再び作業時間を口にした後、すぐに飲み込まれたのは疲労感だった。酩酊とは言えないものの、めまいというか、身体が揺さぶられていた感触があった。倦怠感と肩を組んだような疲労感が重かった。船酔いとどっちがまともかなんて比較できるものではなかった。文字通り部の活動らしい結果報告が出来そうだとは、思った。

 それが収まったのは、顧問が差し入れてくれたポカリスウェットとサイダーを飲み終えて数十分してからだった。


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