暗黒の樹海
T.KANEKO
暗黒の樹海
江川健は深夜の樹海を走っている。
彼は山岳レース(トレイルランニング)の選手だ。
国内に関わらず、海外のレースにも出場するトップランナーで、100kmを越えるような過酷なレースを主戦場にしている。
彼は来月開催される国内最高峰の大会へ向けてトレーニングを積んでいた。
このレースの距離は100mile、累積標高差7500m、簡単に言えば、160kmの距離を走る間に富士山を2往復するくらいのタフさが求められるということだ。
当然、競技時間は長くトップ選手でも20時間以上を要する。
そのため、全ての選手が最低でも一度は夜を越えなければならない。夜の山中は暗い。都会で言う闇とは、比較にならない暗さだ。
月明かりが届かない深い森の中に入れば、目の前に翳した手の平が見えない程の闇が広がっている。
文明が発達した現代において真の闇を体験した事がある者は殆ど居ない。
江川健はヘッドライトを装着して樹海の中を走り抜けていた。
4月という事もあり山中の気温は低く、吐く息は白い。
深夜にこのようなところを走るなんて常人には考えられない事だろう。
しかし彼にとっては、特別な事では無かった。
サラリーマンとして仕事をしながら競技に取り組んでいる江川健、練習時間の殆どは夜間であり、暗闇の森を駆けるなんて事は当たり前の事だ。それにこれまで出場してきた殆どのレースは夜を越えるレースであったし、途轍もなく距離の長いレースになれば数日間、不眠不休で走り続ける事もあった。
江川はよく幻覚を見る。
ヘッドライトに映し出された切り株が背中を丸めて座っている老人に見えたり、木の枝が手招きする人の腕に見えたり。酷い時は路面の落ち葉一枚一枚が人の顔に見えたりする事もあった。木の葉の模様や傷が、リアルな表情に見え、時に笑い、時に泣き、時に怒りだすのだ。
幻聴を耳にする事もあった。
聞える筈の無い会話や、泣き声、呻き声、時には笑い声を聞く事もあった。最初の頃は、不気味に感じて体中に鳥肌が立ったものだが、近頃は何も感じなくなった。
全身が疲労し、睡魔と闘っている為、夢と現実が混濁しているだけなのだ、と割り切る事にしている。
怖いものなど何も無い、今はただヘッドライトが照らし出す輪の中を一心不乱に駆け抜けるだけだ。過去も未来も関係ない、この瞬間視界に飛び込んでくるごく僅かな情報を頼りに的確な判断を下し、前へ前へと突き進む。冷たい空気を切り裂いて、闇の中へ突進していく感覚に陶酔していくのだ。
腕時計のライトを点灯させると深夜の2時を越えていた。走り始めたのは23時頃だったので既に3時間が経過している。左脚のふくらはぎに軽い張りが現れていたが、それ以外にこれと言った不調はない。頭に刻み込まれている登山マップの通りに進んでいれば、あと1時間も走れば尾根筋に出る。そこまで行けば月明かりに照らされる筈だ、いくら闇の森に慣れているとは言え、それは走り続けているから耐えられる訳であって、立ち止まるのはやはり気味が悪い。もうひとふん張りして尾根に出るまで頑張ろう、とギアを一段上げた。
緩やかな下り傾斜、左右にうねった登山道を疾走していると、倒木がコースを塞ぐように横たわっていた。これならば立ち止まらずに越えられる、江川は歩幅を合わせて力強く踏み切った。
そのとき、小枝が頭を掠めた。
痛みはなかった。
痛みは無かったが、ヘッドライトの向きが右にややずれた。その為にヘッドライトが作り出す光の輪も進行方向より右へ反れ、進むべき方向が闇に閉ざされてしまう。
江川は咄嗟に直そうとした。
「ドーン!」
その瞬間、全身に強い衝撃が走る。
抗いようのない途轍もなく大きな物体に激突し、全身が弾き返された。
意識を失いそうになるほどの強い衝撃に襲われ、思わず目を閉じる。
身体が宙を舞い、背中が地面に打ちつけられ、仰向けに倒れた。
状況を整理するまでに要したのは数秒間、江川は閉じていた目を開いた。
しかし、開いた目に飛び込んでくる筈の景色が何も無い。
ぶつかった衝撃でヘッドライトの灯りが消え、暗黒の闇に包まれたのだ。
目の前に差し出した自分の手の平すら見えない。それは想像を絶するほどの暗さだった。視力を失って何も見えないのか、暗さゆえに何も見えないのか、その判断すらも出来ない。
額と右脚に鈍い痛みがあった。
しかし怪我をしているのかどうか確かめる術は無い。
頭に手を当ててみた。
そこにある筈のヘッドライトが無い事に気付く。
衝突した弾みでどこかへ飛んでしまったに違いない。
江川は、何も見えない地面を手探りで探した。
足元から探し始め、少しづつ範囲を広げていく。
指先から伝わる湿った感触、これは落ち葉だろうか?
細長い物質は小枝か?
小さく硬い塊、これは小石のようだ。
視界を奪われた者の触覚は、徐々に研ぎ澄まされていく。
しかし、いくら探しても目当ての物に触れる事が出来ない。
こういうトラブルを想定して、レースでは予備のライトを用意しておくものなのだが、生憎この日は持ち合わせていなかった。
「まいったなぁ……」
江川は声に出して呟いた。
辺りを見回し、灯りがないものかと目を凝らしてみたが、どの方角へ頭を振っても何も見えない。真の闇だ、目を瞑っているのと何も変わらない程の暗闇……
山岳を熟知している江川は、この状況で動き回るのは危険だという事を承知している。ここは樹海だ、整備されている登山道を外れてしまえば、日中であろうと遭難の危険が伴う。
江川は覚悟を決めた。
夜が明けるまで、この場に留まろうと……
手探りで近くにあった大木を探しあて、そこへ背を当てて寄りかかった。
ざらざらとした大木の表皮に手を当てると、どことなく温かさを感じる。
この深い森の中でこの大木はどれほど永い月日を生きてきたのだろう?
そんな思いが頭を過ぎった。
今夜はこの木と共にひと晩を過ごす、それも悪くは無い。
あとで友人に話せば、武勇伝のひとつにでもなるだろう、そんな事を思いながら目を閉じた。その途端、睡魔に襲われスーッと意識が遠のく。それは森の中に吸い込まれていくような不思議な感覚だった。
暗黒の闇の中には、沈黙と言う音だけが漂い、ゆっくりと静かに時が流れていく。
「ガサッ!」
どこか遠くで音がした。
ハッとして目を醒ます。
「パキッ!」
枯れ枝が折れるような些細な音が、森の中に響きわたった。
何かがいる……
かっと、目を見開いた。
しかし何も見えない。
「きっと鹿だ、鹿に違いない」
何かの足音が、周りを巡るように移動し、やがて少しづつ離れて行く。
江川は、ほっと胸を撫で下ろした。
そして、もう一度目を瞑る。
「ワサワサ、ザワザワ……」
頭上から葉を揺らすような音が聞えた。
見上げてみたものの、当然の様に何も見えない。
「ムササビだろうか……」
樹上の住人は、ひとしきり音を立てたあと、微かな風切り音を残して消えていった。そしてまた沈黙が漂う。
走っている時には気づかなかったが、森の中には様々な音が木霊している。
自分の息遣いと足音が、それらを打ち消して走っていた事に気付いた。
さらに森の声は続く。
「ジワジワ、ヌメヌメ……」
何かが地面を這っているような音だった。
両腕に鳥肌が立った、明らかに恐怖を感じている。
視界を閉ざされているせいで、きっと聴覚が研ぎ澄まされているのだ。
「ジリジリ、ネチャネチャ……」
辺り一帯から気味の悪い音が聞えてきた。
足元から、お尻の下から、そして地面についていた手の隙間から音が聞える。
「ウッ!」
何かが指に触れた気がして思わず両腕を抱え込んだ。
さっきまで心地良かった筈の、湿り気を含んだ落ち葉の絨毯が、不気味な生物に覆い尽くされているように感じられる。
不安は人を恐怖に陥れる。
江川は、その恐怖に耐えられず、思わず立ち上がった。
立ち上がって四方へ首を振る、何か見えるものがないかと必死に目を凝らしてみたが、やはり何も見えない。
ドク、ドク、という鼓動、こめかみの血管が激しく脈を打ち、息遣いがやけに大きく耳に響く。
動揺している、落ち着かなくては……
江川は自分に言い聞かせた。
そうだ、これは幻想だ。自らが創りだした幻想に過ぎない。
一度、大きく深呼吸をした。
鼻から大きく息を吸い込み、口からゆっくりと長く息を吐く。
ようやく落ち着きを取り戻した江川は、再び腰を下ろした。
今度は大木に寄り掛かるのではなく、腕を回して抱くように木の表面に頬を寄せた。
大木の中を流れる水の音が聞えた。その水の流れが心にゆとりをもたらせる。
とても良い気分だ、このまま朝を迎えられたら……
江川は目を瞑り、身体と心を大木に委ねた。そしてまた森の中に溶け込んでいった。
「スゥーーーーーッ」
ひんやりとした何かが頬に触れ、ハッと目が覚めた。
それは森の中を拭きぬける風のようでもあった。
湿り気を帯びた冷たい空気が緩やかに森の中を移動していく。
あとどれくらいすれば、夜は明けるのだろうか?
江川はいつもの習慣で腕時計に目をやった。
その時に気付いた。
腕時計にライト機能がある事を……
これで全てが解決される、腕時計の僅かな明かりを頼りにヘッドライトを見つける事が出来れば、朝を待たずとも走り出す事が出来る。
これで闇から解放される、その結論に達するまでの時間はほんの一瞬だった。
しかしその希望は脆くも崩れ去る、それも一瞬の事だった。
腕時計のライトボタンを押したが、明かりは灯らなかった。
激突した時の衝撃で壊れてしまったのだろうか、それともこの期に及んで電池が切れたのか……
江川は何度も何度もライトボタンを押したが、反応は何も無い。
江川はふーっと溜息をつき、元の姿勢に戻って大木に身を寄せた。
時が流れている事を疑いたくなる程の暗闇、その中で確かなものと言えば、身を寄せている大木だけだった。江川は大木にしがみついた、強く抱きつくことで恐怖から逃れようとしたのだ。
しかし、もう逃れる事は出来ない……
遥か彼方から、すすり泣く様な悲しげな音が聞えてきた。
そしてもう少し近くからは、呻き声のような音が聞える。
聞える筈のない音、これは幻聴だ、江川はそう思った。
しかし、そう思えば思うほど、音は大きく、そして幾重にも重なっていく。
悲しげに洟を啜り、むせび泣く女の声、
苦しみに耐え切れなくなった男の呻き声、
正気を失った老人の奇妙な笑い声、
そんな気味の悪い声が森全体に木魂した。
江川は耐え切れなくなり、思わず耳を塞いだ。
そして森は静寂に包まれた……
「ガタガタ、ブルブル」
江川の身体は震えていた。
気温が下がってきたうえに、走るのをやめてしまったせいで体温が維持できなくなっているのだろう。でもそれだけではない気がした。
何かがむき出しになっている太ももに触れた。
ビクっと反応し、ひざを抱える。
今度は、腕に何かが触れた。
触れた、というよりも、冷たく柔らかい何かに、ゆっくりと撫でられているような感触だった。
両腕を組んで体を丸める。
江川は小さく縮こまって、光が差し込んでくるのをひたすら待った。
世の中に怖いものなどない、そう思っていた自分の存在が、酷く弱々しく感じられた。
森の中の空気が音を立てて流れ始めた。
流れてきた空気が、耐え難い臭気を運んでくる。
かび臭いような、饐えたような…… 今までに嗅いだ事のない異様な臭い。
これが獣臭というものか、それとも何かの死体が近くに横たわっているのだろうか。
周りにある全ての物が、弱った者に襲い掛かってきている、もう逃れられない。
江川は思った、これまでに見てきた老人に見えた切り株や、手招きする腕に見えた枝、人の顔のような落ち葉…… それらは全て幻覚ではなく、現実だったのではないかと。
江川は頭を抱えて丸まった。
目を閉じているので何も見えない筈なのに、恐怖が目前に迫ってくる。
白装束を着て森を彷徨う髪の長い女、
銃を杖代わりにして歩く全身血みどろの兵隊、
浴衣を肌蹴させて裸足で徘徊する老人、
人の死体を喰らう野生動物、
大木から伸びた枝が青白い人の腕に化けて、全身に纏わりつけば、透き通った怨霊が目の前を横切っていく。
江川は耐え切れなくなって発狂した。
その声は森に響きわたり、更なる恐怖を伴って江川の元へ戻ってくる。
江川は叫んだ、声が枯れるまで叫び続けた。
そして突然、意識を失う。
数時間後……
江川は目を覚ました。
森の中には薄っすらと光が差し込んでいた。
緑の森に漂う朝霧、そして光の線を浮かび上がらせる木漏れ日、それは美しい朝の光景だった。
視界が戻ってきた事にほっとした江川は、大きな溜息を一度ついた。
周りに目をやると、ヘッドライトが1メートルほど離れたところに落ちていた。
腰掛けていた所から、わずか1メートルだった。
暗闇は、わずかな距離を何十倍、何百倍もの距離に変えてしまうのだろうか。
江川の周りに恐怖を感じるような物は何ひとつ無く、ただ豊な自然が広がっている。
江川はずしりと重い身体を起こし、来た道を引き返した。
一刻も早く森から向け出したくて、走ろうとしたのだが、激突した時に痛めた右脚が思うように動かず、とぼとぼと歩くのが精一杯だった。
昨晩の恐怖を振り払うように右脚を引き摺りながら必死に歩き、ようやく公道に出る事が出来た。
公道を暫く歩いていると、道端に一台の車が停められていた。
その車の脇を通り過ぎようとすると、運転席の窓に人の顔が映った。
足を止めて、車の窓を覗き込む。
すると、そこには白髪頭に、げっそりとこけた頬、目が大きく窪んだ老人の姿が映っていた。
生気を失った老人の顔にゾッとした江川は、咄嗟に振り返った。
しかし……
そこには誰もいない。
江川はもう一度、車の窓を覗き込み、次の瞬間、ギョッとして尻餅をついた。
そこに映っていたのは、紛れもなく年老いた自分の姿だったのだ。
樹海は、いつもと変わらない朝を迎えている。
果たして、この森には得体の知れない魔物が棲んでいるのだろうか……
それとも、江川をこのような姿に変えたのは暗黒の仕業だったのか……
もしかしたら、江川の心の奥に潜んでいた闇が恐怖を産み出しただけなのか……
暗黒の樹海は今宵もやって来る。
(了)
暗黒の樹海 T.KANEKO @t-kaneko
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