第17話 リオ・グランデ川を降れ!
浩子とバーハム神父の車はひたすら国道84号線を南下していた。
その行程は、シアトルからモニュメント・バレー、ナボハ族居留地まで2000km、所要時間は20時間以上掛かる道のりであった。
既にシアトルを出発して、12時間が経過していた。
その間、パーキングエリアで束の間の休憩を取りながらではあったが、80歳を越えた老神父には、最早、体力的に限界を超えていた。
バーハム神父は、ソルトレイクシティーでハイウェイを降りて、モーテルで一泊することとした。
ハイウェイの直ぐ側のモーテルを予約した2人は、近くのスーパーに食材を買い出しに行った。
浩子はバーハム神父への感謝の証として、神父が久住に居た頃、気に入って食べていた手巻き寿司を作ってあげようと思っていた。
日本とは違い、新鮮な魚介類の具材はなかなか見当たらなかったが、インスタントの米と海苔を買い、ネタとしてサーモンを仕入れた。
モーテルに着くと、浩子はキッチンでサーモンとレタスを巻いた手巻き寿司を4本作り、インスタントの味噌汁でバーハム神父の疲れを労ってあげた。
バーハム神父は、懐かしそうに浩子の手巻き寿司を喜んで食した。
2人は手巻き寿司を食べながら今後の計画について話し始めた。
バーハム神父が浩子に説明した。
「明日朝、ここを出発すれば、昼前にはモニュメント・バレーに着くであろう。そこから、車で1時間程でナボハ族居留地に行ける。」と
浩子がバーハム神父に問うた。
「ナボハ族居留地の何処に行けばジョンの消息が分かるのですか?」と
バーハム神父は即答した。
「酋長に会うよ。あのリンチ事件の事を一番良く知っているのは酋長だからね。ワシも一回会ったことがあるから、話は付けやすい。ただ…」とバーハム神父は話を切って浩子を見遣った。
浩子は心配そうな顔でバーハム神父の皺だらけで窪んだ眼高を見つめた。
バーハム神父は、濁した言葉を続けた。
「ただ、その酋長が生きておれば良いのじゃが…、年はワシと一緒ぐらいと思う。」と
浩子はバーハム神父を励ますように言った。
「神父様、たとえその酋長が生きていなくても、その居留地に行けば、何となく分かると思います。私には何となくジョンの行先を感じることができるのです。」と
バーハム神父は、風と話していた浩子を思い浮かべ、にっこり笑い、何度も頷きながら、手巻き寿司を頬張った。
その頃、ジョンは再び愛馬と共にカーソン国有林の森林道を進んでいた。
ジョンの目指す目印は、前方に聳え立つホイーラー山のみであった。
ジョンはニューメキシコ州最高峰のホイーラー山を越えれば、その先にオクラホマに通ずるルートが有ると考えていた。
しかし、ホイーラー山は4000mを越す高山であり、近づけば近づく程、その壮大さが露わになり、ジョンは到底、この装備ではホイーラー山を越えることはできないことを自覚し始めた。
ジョンはホイーラー山を越える計画から、カーソン国有林の南東方向に位置するサンタフェの町を目指すことに行程を変更した。
しかし、カーソン国有林の広大で原自然の真只中に迷い込んでしまったジョンは少々焦りを感じていた。
マツとムツの原生林からこもれる陽射しを当てに、右方向に進路を変え、ジョンと馬は深い森の中に入り込んで行った。
そこは標高800mの地点であり、森の中の雰囲気が木の種類は違えど何となく久住の森の中に似て感じ取れた。
その時、ジョンは忘れかけていた浩子の面影を感じた。
「この森の中、ここなら、浩子も必ず気にいるよ。自然そのものが残っているからね」と
すると先程までの不安は消え失せ、久住の森の中で浩子を抱き寄せていた甘い感覚が蘇り、ジョンの表情は見る見るうちに明るくなっていった。
馬も主人の心持ちが変化したのを感じ取るかのように、獣道に蹄を着々と打ち込みながら力強く活歩し始めた。
ジョンと馬は2時間程、森林の獣道を突き進むと、急に森の中の光の色が黄色から青色に変わり始めた。
ジョンは太陽がホイーラー山に隠れ込んだことを知り、早めに今日の野宿する場所を探そうと思った。
しかし、その時、昨夜の森林保安官の言葉を思い出した。
「この辺りは、熊が本来生息する場所かもしれないな。ここでの野宿は危険だ」と思い、兎に角、森林地帯を抜けるまで進むことにした。
やがて、森の中は宵闇に包まれ、静寂さと閑寂さの空気が辺りを支配し、気温も昼とは違い、かなり低くなり、馬の息も白くなってきた。
ジョンは完全に森の中に迷い込んでしまった。
しかし、ジョンはここで、いつものように風達を呼ぶことにした。
「おい!、聞こえるかい?、この先、どっちに向かえば良いのか教えてくれよ!」とジョンは独り言を呟いた。
すると森の木々が揺れ始め、ジョンの後ろから追風が吹いて来た。
「ジョン、川を降れ!リオ・グランデ川を降るんだよ!」と風が囁いた。
ジョンはにっこり笑い、風に応えた。
「そっか!川を降るのか!分かったよ。ありがとう!」と呟き、馬にこう言った。
「お前も聞こえたかい?川を降るんだよ。そこから、下道を進むんだ。」と
ジョンは手綱を引っ張り、馬の進路を獣道から右手の下り坂に変え、道無き道へと馬を進めた。
1時間程進むと、木々の林は開け、宵闇の中に岩肌が見え始めた。
その岩肌は渓谷の向こう岸の岩壁であった。
ジョンは馬から降りて、リュックからランタンを持ち出し、そっと、前方の脚元を照らしながらゆっくりと歩いた。
馬から10m程で行き止まり、下を照らすと渓谷の谷底を流れる川が見えた。
リオ・グランデ川であった。
ジョンは辺りをランタンで照らしながら、谷底に通ずる道を探した。
ジョンは下道が必ず有ると確信していた。
何故ならば、風が教えてくれた事に間違いはないからである。
やはり、左手の岩向こうに葛折りの下道をジョンは見つけ出した。
ジョンは改めて風に「サンキュー」と礼を言い、馬に跨り、慎重に葛折りの下道を降りていった。
やがて、川のせせらぎの音が聞こえ出した。
ジョンが前方にランタンの光を向けると、砂利の岸辺が見えて来た。
馬は下道を降り終え、川辺で水を飲み始めた。
ジョンも水筒に水を汲み、一飲みし、馬に言った。
「お前も疲れただろう。今日はこの辺りで野宿しよう!明日からは、この川を降るんだよ!」と
そして優しく馬を撫でると、手綱を引き、岩壁の窪みに馬を誘導し、大岩に手綱を括り付けた。
ジョンは馬から鞍を下ろし、リュックから野宿用の荷物を取り出し、流木らを拾い集め、焚き火を熾した。
夕食は昨夜と同じ豆とコーンビーフの缶詰であった。
「ここなら、森林保安官も来れないよな」と独り言を言いながら夕餉を摂った。
ジョンは食べ終わると、飯盒を洗いに川に入り、そのついでに顔を洗った。
川の水は、肌に突き刺さるように冷たかったが、疲労困憊なジョンにはそれがとても心地良かった。
ジョンは立ち上がり、暗闇の中、焚き火の炎で幻想的に浮かび上がる川上を眺め、そして、険しく際立っている渓谷の両岩壁を見遣った。
ジョンはその岩肌に故郷を感じた。
そう、産み落とされた谷底、母胎、マトリックスを感じたのだ。
ジョンは再度、川を見て呟いた。
「これがリオ・グランデ川か!ロッキー山脈から流れ出てる川か!僕の先祖もこの川を降ったに違いない。」と
そして、ジョンは天空を見上げた。
天空には夥しい星達が燦然と輝いていた。
ジョンはその星達を見て思った。
「浩子も今、僕と同じ星を見てるかもしれないな。浩子、僕はここに居るよ!浩子と同じ星を見てるよ!」と心の中で叫んだ。
今のジョンには、この先の険しき旅の事は脳裏から消え去り、このリオ・グランデ川に辿り着いたことによる一つの達成感、自己の探求、アイデンティティの現出に対し、心躍る喜びを感じていたのだ。
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