第6部 その4「私、どうしたんだろ」

 美月は少しの肌寒さを感じて目を覚ました。エアコンを強くしすぎてしまったようだ。

 夜ふかしが原因だろう、日はもう随分高くなっていた。

 美月は昨日の出来事を思い返す。たぶん人生で最良の日だった。


 あの陽壱が、自分のことを好きだと言ってくれた。淡い気持ちだった頃から通算すれば、十年に届くであろう片思いに終止符が打たれたのだ。

 母に無理を言って浴衣を着てみてよかった。告白には期待していたけれど、まさかフライングで言ってもらえるとは思っていなかった。

 しかも、帰り際には凄いことがあった。恋人になった陽壱は大胆すぎた。思わず頬が熱くなってしまう。


「あ、よういち起こさなきゃ」


 呟いた自分の声がかさついているような気がした。やっぱりエアコンをかけて寝るのは喉によくない。

 今日は二人でどこかに出かけようと約束している。行き先は決めていないが、陽壱と恋人としてならば、どんな場所でもパラダイスに見えてしまうだろう。


 美月は枕元に置いてある思い出のマジックハンドに手を伸ばした。これを使わないと二人の朝は始まらない。


「あれ?」


 いつもの場所にマジックハンドがない。枕をひっくり返してみるが、やっぱり見当たらない。


「え?」


 それどころか、ここは美月の部屋ではなかった。

 部屋の作りは同じだ。しかし、置いてあるものには見覚えがない。

 流行りの男性アイドルのポスターも、壁にかかったブラウスとチェック柄スカートの制服らしきものも、美月の知らないものだ。

 混乱した美月は、長い髪をすくって耳にかけようとする。ずっと伸ばしているので、癖みたいなものだ。


「あれ?」


 あるはずの場所に、あるはずの髪がない。混乱しつつ頭を触る。


「え? え?」


 背中に届くくらいに伸ばした髪が、頭の部分にしかない。手触りも普段と違い、少しバサバサしている。

 わけがわからない。美月はすがるような気持ちで、愛しい人の顔を思い浮かべた。


「よういち」


 昨日とは違う柄のカーテンを開ける。向かいの窓にはカーテンがかかっていて、中を伺うことはできない。

 マジックハンドがないので、この際大声で呼びかけよう。多少近所迷惑でも構わない。今すぐにでも、この不安感から開放されたかった。


「え?」


 開けようとした窓ガラスに自分の姿が薄く反射する。それを見た美月は激しい違和感を覚えた。

 慌ててベッドから下りて、机の上にある鏡を覗き込んだ。必要以上に飾りのついた鏡も、その横にある化粧品も買った覚えがない。


「なに、これ?」


 鏡に映った姿に、美月は驚愕した。

 顔は確かに見慣れた少し童顔の自分だ。しかし、全体的な印象は、美月の知る美月とは大きく違っていた。

 肩の少し上で切り揃えられた髪が、濃いめの茶色に染まっている。

 陽壱の好みだからと伸ばした髪は、陽壱が好きだと言ってくれた黒髪は、ばっさりとなくなっていた。


「よういち……」


 放心状態の美月は、これまでのことを思い出していた。

 浅香 陽壱とは幼馴染みと呼ばれるような関係だ。ただし、今ではまったく交流がない。幼馴染みといつまでも仲がいいなんて、ドラマや小説の中だけの話だ。

 小学生までは家が隣という理由で、よく遊んでいたのは覚えている。別に陽壱だからというわけではなかったと思う。

 彼と話をしなくなったのはいつ頃からだろうか。そんなことも考え付かない程度に、今では興味を抱かない相手ということだ。


 しかし、ついさっきまでの自分は、陽壱のことを恋人だと思っていた。長年片思いしていた恋が実ったと、浮かれに浮かれていた。

 彼を想えば鼓動が早くなるし、唇の感触まで思い出せる。


「私、どうしたんだろ」


 改めて、鏡の中にいる自分自身を見つめた。

 今年の春頃、友人の勧めで何となく伸ばしていた髪を切った。それに合わせて色も変えてみたし、初めて化粧にも手を出した。小さめの耳たぶには、ピアスの穴も開いている。

 別にこれといった主張はなく、皆がやっているから自分もというくらいの考えだった。

 頭が軽くなったし、シャンプーや手入れ全般が楽になったのは利点だと思う。


 髪型を変えた直後くらいに、玄関先で久しぶりに陽壱と顔を合わせることがあった。本当に久しぶりだった。

 たまには挨拶くらいしてやろうと思ったところ、幼馴染みはそそくさと逃げるように家に入っていた。

 楽しく話が弾むなんて思っていなかったが「こんなもんか」という、どこか寂しい気持ちになった出来事だった。


 しかし、もうひとつの記憶にある陽壱は、美月の知る彼とは真逆のような存在だった。

 誰にでも優しく、どんなことにも真剣で、何より美月を見てくれていた。あれは好きになっても仕方ない。

 見た目はまったく変わらないのに、存在感は別人だった。


 二人は、お互いを目当てに同じ高校に入学した。そして、お互いのために生徒会長と副会長まで務めることになっていた。

 あれはもう、ドラマや小説の主人公とヒロインだ。正直、憧れてしまう。


「あーもう」


 妙にリアリティのある記憶が、頭に焼き付いて離れない。冴えない本来の記憶との格差が、それはもう酷いことになっている。

 美月は手足をばたつかせ、ため息をつくことしかできずにいた。

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