第6部 その2「約束、してくれるの?」

 夏祭り当日の朝。

 緊張と興奮でほとんど寝られなかった陽壱は、朝日と共にベッドから体を起こした。

 カーテンを開け、窓ガラスの向こうを見る。当然ではあるのだが、室内のカーテンに遮られて中の様子は伺えなかった。

 お互いに待ち合わせを楽しむため、今日は朝の窓叩きはなしにする約束だ。寂しくはあるものの、楽しみな気分が勝っている。


 目が冴えてしまって仕方ない。寝るのを諦めて、着替えることにした。

 朝方は昼間に比べればまだ涼しい。散歩でもして気を静めようと、一階に降りて水をコップ一杯飲んだ。

 ドアを開けると、熱気と湿気が室内に入り込んでくる。耐えられない程ではないが、気分のいいものでもない。

 そのまま家に戻る気にもなれず、とりあえず初志貫徹することにした。汗をかいて朝からシャワーというのも悪くない。


「あ」

「あ」


 玄関から出たら、美月がいた。ゆるいTシャツにハーフパンツ姿だった。油断した格好まで可愛いからどうしようもない。


「お、おはよういち」

「うん、おはよう」


 お互い寝られなかったようだ。

 結局、朝の散歩は二人の時間になった。当初の約束は無意味になってしまった。しかし、早起きは良いものだと実感した。


「じゃあ、また後でね。よういち」

「うん、また後で」


 美月に手を振り、家に帰りシャワーを浴びた。自室に戻ると急に眠気に襲われ、ベッドに倒れ込んだ。


「にいちゃーん、ごはんだよー」


 妹の大声に目を覚ます。時計を見ると、既に正午を過ぎていた。

 母親の用意した昼食を食べ、机に向かい宿題に取り掛かる。去年まではギリギリまで手を付けなかったのだが、今は変にやる気が出ていた。生徒会長の責任感だろうか、美月に格好を付けたいからだろうか。


 日が落ちかけ、美月と約束した時間が迫る。待ち合わせは午後六時半、玄関の前だ。

 浴衣を着ると言っていた美月に合わせるつもりで、陽壱は藍色の甚平に着替える。

 あと十分が待ちきれず、家を出た


「あ」

「あ」


 朝と同じく、美月がいた。ただし、朝よりも遥かに可愛かった。

 薄い水色に朝顔の柄が映える。優しくはにかむ美月によく似合っていた。髪はかんざしでひとまとめにしてある。近頃はこの髪型をしていることが多かった気がする。


「ど、どうかな? お母さんのお古なんだけどね」

「うん、いい」

「あのね、これ練習してたんだよ。誘ってもらえるかなって期待しててね」


 早口と共に、美月は頭を指差す。鈍い金色のかんざしが、傾きかけた陽の光を受けてうっすら輝いていた。


「好きだ」

「え?」


 思わず口に出してしまっていた。あまりの可愛さに我慢ができなかったのかもしれない。

 自分でも酷いタイミングだと思う。

 花火をバックにロマンチックになんて考えていたのが馬鹿みたいだ。


「あ、あのね、私も……好き……です」


 その言葉を聞いてしまっては、タイミングだとかロマンチックにだとか、そんな些細なことはどうでもよくなる。

 あまりにもわけがわからなくて、陽壱は声を上げて笑った。たった一言でよかったのだ。でも、何年も言えなかった一言だ。

 それが今あっさりと言えてしまった。笑わずにはいられない。


「え? え? 私変なこと言った?」


 陽壱は、慌てる美月の左手を握った。もう許される行為のはずだ。


「あっ……」


 その左手を握るのは初めてではない。小さい頃は毎日握っていた左手だ。いつからか握れなくなってしまった左手だ。

 でも、今はその時とは違う関係で握ることができた。陽壱にとってそれは幸福に他ならない。


「行こう」

「うん」


 二人は歩き出した。浴衣の歩幅に合わせて、ゆっくりと進む。歩き慣れた近所の道路は、まるで自分たちだけの道に思えた。


「笑うなんてひどいよー」

「ごめんごめん、今言うつもりじゃなかったからさ」


 高校生になった美月の手を握っていても、いつかの映画館で感じたような緊張感はない。それよりも、安心感と満足感が陽壱を包んでいるようだった。


「でも、今言ってくれてよかった」

「そうなの? もっといいタイミングでって考えてたんだけど」

「だってね、ほら、こうやって、お祭り行けるから……恋人で」

「……なるほど」


 恋人という名目があるだけで、世界の印象は大きく変わるものだと陽壱は知った。同じ相手と同じようなやりとりをしていても、見える景色は大きく違う。

 それと同時に、変わらないものもあるのだと理解できた。左隣に美月がいることへの落ち着いた感覚は、これまでと同じだった。

 お目当てのたませんを食べる美月は、とても幸せそうだ。両手を使って食べているので、左手が少し寂しい。


「よういちも食べる?」

「うん」

「はいどうぞ」


 美月はさっき口を付けた部分を差し出す。陽壱は一瞬戸惑ったが、思い切ってその部分をかじった。


「うん、美味くないのに美味しい」

「でしょー、雰囲気だよね」


 たまたま来ていた高校のクラスメイトたちに会っても、手は繋いだままでいた。ほぼ全員から「ようやくかよ」とか「今更感が凄い」などと、反応に困るコメントが相次ぐ。

 恥ずかしそうに俯く美月は、嫌がってはいない様子だった。


 屋台を一通り回った頃、夜空には花火が打ち上がり始めた。そこまで大規模ではなくても、なぜか気分が盛り上がってしまうのが打ち上げ花火の魅力だ。


「綺麗だねー」

「うん」

「来年も誘ってね」

「ずっと誘うよ。お祭り以外でも、なんでも誘う」

「約束、してくれるの?」

「うん」

「そっかぁ」


 何年見続けても、美月の笑顔は魅力的だった。


「よういち、好きだよ」

「俺も好きだよ」


 そして、美月の唇は柔らかかった。


 家に帰ると、母と妹からひとしきり問い詰められた。妹いわく「美月ちゃんがお姉ちゃんになるなら許す」だそうだ。

 なんとか二人をかいくぐり、シャワーを浴びて自室に逃げ込む。

 それを見計らったように、窓ガラスを叩く音が聞こえた。

 マジックハンドを持った美月としばらく言葉を交わし、明日も会う約束をしてお互いに眠りについた。

 陽壱は、今までの人生で一番の幸せを感じていた。

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