第5部 その7「一緒に考えよ」
昼休みの後、午後の時間は淡々と過ぎていった。
陽壱はなんとなく気まずくて、ヒロとなった千尋に話しかける気持ちを持てないでいた。しかし、ヒロは違うようだった。
「陽壱」
「おぉ」
「そんなに構えないでよ。ボクまで緊張しちゃうよ」
「あ、うん」
セーラー服姿の小柄なヒロは、後ろで手を組んで軽く笑みを見せている。男扱いしてもいいのか、女子としての対応が必要なのか判断が追いつかない。
「ボクはボクだよ。千尋でも千晶でもない状態。だからわざわざ名付けてくれたんでしょ?」
名前はそれそのものを表す。
これまでは、入れ替わった状態は他者から認識されることがなかった。だから呼び分けは不要だったのだろう。
今は陽壱たちがその状態を認識するため、便宜上ではあるが個別に名前を付けた。それはヒロの言うとおり、千尋でも千晶でもない『ヒロ』という存在が定義されたのと同様の意味を持っていた。
陽壱は、ヒロに対し千尋なのか千晶なのかと困っていたこと自体が無意味だったと気付いた。
「そっか、そうだな」
「うん、そうだよ!」
ヒロの言葉は陽壱をすっきりと納得させた。そのおかげなのだろう、徐々にとりとめのない会話ができるようになった。
ただ、ヒロとの会話の中では、生徒会長への理由をはっきりさせることはできなかった。
そして放課後。
生徒会室には二十人ほどの男女が集まっている。立候補者と実行委員、そして現職の生徒会だ。
陽壱たち立候補者の向かいには、実行委員と現職が並んでいる。
慣例として各クラス一人ずつ実行委員を出すのだが、今年からは人数が減っている。昨年に陽壱が関係した効率化により、三年生の参加が免除されるようになったからだ。
その実績を大きく出せば、選挙にはかなり有利になるだろう。しかし、陽壱はどうしても卑怯な気がしてしまい、アピールするつもりはなかった。
以後、一年二年は現職生徒会の指示のもと、選挙への準備や候補者のサポートを行うことになる。
副会長の松井 恭子が陽壱と美月に向けて微笑む。実行委員の中では、東 恵理花が小さく手を振っていた。
その中にはヒロとアキもいる。よく見ると、スパッツとTシャツの色が変わっていた。いつの間にか、千尋と千晶に戻っていたようだ。わざわざ着替えたのだろうか、四人で決めたルールを律儀に守ってくれたのが嬉しかった。
立候補者が順に挨拶をする。挨拶といってもクラスと名前程度だ。
今年の立候補者は、会長、副会長、書紀、会計それぞれ定員一名に対して二名ずつだ。つまり、陽壱も美月も競争相手は一人ということになる。
対立候補の彼らが何を考え立候補したのかはわからないが、自分よりは明確な理由なのだろうと思ってしまう。
選挙活動はこれから一週間だ。
来週には演説会があり、その後に投票と集計が行われる。以前は事前広報も含めて一ヶ月ほどの期間を使っていたのだが、これも昨年の改革により大幅に短くなっていた。
生徒たちが候補者の話を聞くのは、公式には演説会のみだ。それに向けての原稿を用意するのが、候補者にとって最も重要な要素となる。
「はい、じゃあ一旦解散してください」
現会長の声で、皆がバラバラに動き出した。実行委員は作業の説明を聞き、候補者は自由行動となる。
期間中は生徒会室が開放され、原稿作成などに使用してもよいと説明があった。
「美月、やっていこうか」
「うん」
ライバルとなる生徒は陽壱たちを一瞥すると、それぞれ生徒会室から出て行った。それ以外の候補者たちも、軽く頭を下げてその場を後にした。
実行委員でざわついている場所よりも、個人で静かに考える方が効率が良いのも理解できる。
ここに残った本音は、陽壱は美月と話をしたかっただけだ。選挙の件を話題にするのは、これまで意図的に避けていたような気がする。
「美月、付き合わせちゃったよな」
「ううん、大丈夫だよ」
美月の『大丈夫』は大丈夫ではないときが多々ある。目を伏せた顔を見る限り、今回は大丈夫じゃない方のパターンだろう。
「陽壱は、なんで立候補したの? 悩んでるみたいだっから話を聞きたかったんだけど、こんな直前でごめんね」
「謝るのは俺の方だよ。相談できないくらいに情けない悩みでさ」
恭子に罰と言われたのと、美月と一緒にいる口実という以外の理由が浮かばないなんて、情けなくて言えなかった。
「教えて」
美月にそう言われては、情けなさもちっぽけなプライドも消え去ってしまう。
陽壱は、自分が美月に対して隠し事ができないのを再認識した。数えた事はないが、再認識の回数は三桁ではおさまらないだろう。
「実は、何も浮かばないんだ。松井先輩に言われたこと以外は全然」
「そっかぁ」
あいづちを打つ美月の声は、意外と明るかった。陽壱はてっきり、美月も困っているものだと思っていた。
美月は、相談ができないということ自体に悩んでいたみたいだ。
「あのね、私もなんだ。なんにも浮かばない」
「それにしては、嬉しそうだね」
「あーうん、私だけじゃなかったから。一緒に考えよ」
美月の提案はありがたい反面、何も考えていない同士が話しても答えは出ないのではないか、という不安もある。
「後付で理由とかやりたいことを考えるのも失礼だよな」
「うん、でも今のままでも失礼だよね」
「いっそのこと、辞退するとか」
「それもありかも」
「まぁ、今更だと最高に失礼だから避けたい」
早速行き詰まり、二人して頭を抱える。
「陽壱」
「美月ちゃん」
不意に後ろから声をかけられる。振り返ると千尋は美月、千晶は陽壱の斜め後ろに立っていた。
「あ、ごめん、さっきの感覚のままだった」
「いいよ、そのままで」
千晶が額を押えて謝る。千尋の体だった感覚はすぐには抜けないようだ。
「悩んでるみたいだからさ、ボクたちにも手伝わさせてよ」
「ああ、それは助かる」
陽壱の優先順位はいつだって美月が最優先だ。選挙の件も、美月が関係していなければ丁重に断っていた。
今だって、お互いに上手くこの場を切り抜けられる方法を模索している。千尋と千晶の力を借りるのも、そのためだ。
ただし、細かな意図は言わなければ伝わらない。陽壱が美月の異変に気付いたのは、少し後のことだった。
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