第4部 その9【完】「現地妻ってやつです」
恵理花は、自分がなぜ泣いているのか充分に理解できていた。
陽壱は自分を気遣ってくれた。嬉しいはずが、変に気持ちが昂って仕方がない。
長の孫としてではなく、エリカ・アーズマとしてでもなく、東 恵理花として、陽壱の嫁になりたかった。そんな風に思ってしまっていた。
その想いは虚しくも拒絶された。彼は元の世界に帰るらしい。
本心を伝えていないのだから仕方がないのかもしれない。しかし、ショックを受けてしまった心には理屈など通用しなかった。
「どうした?」
「あ、いや、何でもないですよ。あははは」
誤魔化す言葉すら、しどろもどろになってしまっている。何でもないわけがないからだ。
本当の事を言ってしまえばいい。そうすれば楽になる。わかっているのに、素直な気持ちは言葉にならなかった。
『大きな意志に従え』
『弱さを見せるな』
『非を認めるな』
これまで生きていた価値観が、本音を吐き出す邪魔をする。
「浅香先輩の案、いいと思いますよ」
「あ、ああ」
もう陽壱の名は呼べなかった。
陽壱の案は嘘をつくことが前提になっている。
その内容は、種族間の問題を解決させることを狙ったものだ。
魔獣は討伐したものの、一時的なもので復活の危険性があるということにする。それが嘘。
そして、魔獣の出現条件を種族間の敵対や権力争いということにする。それも嘘。
つまり、魔獣の存在を抑止力に使うというわけだ。
そうすれば不本意な結婚をする必要はなくなり、もっとゆっくり結婚相手を選べるだろう。穏やかな口調で陽壱は言った。
しかし、恵理花にとってはそれこそが不本意なのだ。
優しく他人を尊重する彼は、複雑な乙女心に気付くことはないだろう。本人ですら、ついさっき気付いたのだから。
その時、恵理花は生れて初めて『そういうもんなんです』ではない、自分の意志と向き合っていた。
帰りの馬車の中、恵理花はずっと考えていた。
状況を受け入れても流されず、他者を責めず、自分が良いと思う行動をする。陽壱が持っているのは、恵理花にとって未知の価値観だった。
隣り合う世界の常識というわけではない。通っていた学校でも、大きな決まりに従えと教えていた。
それは、浅香 陽壱という少年特有の考え方なのだろう。
自分にないものを持っている彼は眩しかった。だから惹かれた。だから言えなかった。
日が落ちる頃、馬車は街に到着した。
急ぎ魔獣討伐の完了を報告する。長たちに詳細な話を聞くのは翌日と言われた。
他人に任せた重要な案件であっても、その日の晩酌を優先する。長とは自分勝手なものだ。
今まではそれが普通だと思っていたが、酷く違和感を覚えるようになってしまった。それが人を統べる者のやることだろうか。
恵理花は自分が変わったことを確信した。
そして、翌日。
長とその側近たちに陽壱が報告をする。嘘をつくのは、このタイミングだ。
「魔獣はとりあえず倒しました。ただし、また現れる可能性があります。あれは、敵意や悪意に反応します」
馬車の中で聞いた通りの説明が進む。
このままでいいのだろうか。
いや、いいはずがない。人を騙すことを好まない人だ。きっと今、彼は苦しんでいる。
恵理花は、生まれたての、自分だけの価値観に従うことにした。
「待ってください!」
陽壱の説明を遮って、恵理花は声を上げた。
「勇者は嘘をついています。魔獣は消えました。もういません。そして、嘘をつかせた原因は私たちです」
当然、その場は荒れに荒れた。
最終的には、恵理花の「勇者を連れてきた私が長になる」宣言が全てを黙らせた。
過剰なまでの権威主義を逆手に取り、これまでは非常識とされたことを覆してみせたのだ。
「よかったのか?」
事が終わった後、陽壱が不安げに声をかけてきた。それもそうだろう、計画を全て恵理花がぶち壊してしまったのだ。
「いいんですよ。勇者に嘘なんて似合いません」
「そうか、凄いな」
「あなたのせいですよ」
その夜、金髪の少女から連絡があった。計算が終わり、帰る準備が整ったとのことだ。
恵理花の使った魔術を解析し、発動直後の時間に戻ることができるらしい。しかも、境界線の特定ができたとかで、自由に行き来できるようになったそうだ。
六兆といい、意味不明すぎる技術だ。
「じゃあ、俺たちは帰るよ。夏休みにでも、様子見に来るな」
「恵理花ちゃんはどうするの?」
恵理花はふたつ決めたことがあった。既に手回しも済んでいる。
ひとつは、あちらの世界で高校を卒業すること。将来の長として見聞を広げるためという理由で周りを納得させた。
もうひとつは、今なら素直に口に出せる。
「私、陽壱さんに恋愛感情を持っています」
「え?」
「そっかぁ……」
その名をはっきりと呼べたことが誇らしかった。
陽壱は驚愕し、美月はどこか納得した様子だ。
「だから、そちらに着いていきたいです。レイラさん、頼んでもいいですか?」
『いいヨ』
「ありがとうございます」
空中に映るレイラに頭を下げる。この人が居てくれたことに心から感謝する。
無理矢理連れてきて、無理矢理ここで生活させるなんて、今思えば酷すぎる話しだ。
「あ、あのな恵理花」
「はい」
「俺は好きな子がいるんだ。だからその気持ちには応えられない」
言いづらそうに、しかしはっきりと陽壱が拒絶を口にする。
そんなことは既にお見通しだ。
恵理花はちらりと美月を見た。陽壱の想い人は、照れたようにはにかんでいる。
「それは陽壱さんの価値観です。私には通用しません」
「えぇ」
全力でいたずらっぽく笑った。困らせているのはわかっている。
まずは存分に困らせてやろう。もちろん、逃げ道は用意した上で。
「でも、陽壱さんの価値観にも配慮します」
「おぉ」
「こっちに来た時だけでいいから、私を嫁にしてください。現地妻ってやつです」
それなら陽壱の価値観と自分の価値観。それらのちょうど中間だと思う。
我ながら良案だ。
「現地妻って……」
「え、え、え、恵理花ちゃん?」
「あ、だめですか?」
目の前のふたりは「だめ」と声を揃えた。
どうやら、価値観のすり合わせは簡単ではないらしい。
その後、恵理花は人の上に立つ者として積極的に学び始めた。様々な統治の歴史は大変に参考になった。
これまで忌避してきた異性とも違和感なく関わるよう努力した。
二年生になり、生徒会にも入った。その経験は、後に大きく生きることとなった。
残念なことと言えば、陽壱を口説き落とせなかったことだ。深川先輩は強すぎた。
高校を卒業した恵理花はエリカに戻った。
それからは、ゴランド大陸初の女が務める長として、人族や他種族を平和的にまとめ上げることになる。
それとは直接関係ないが、エリカの幼馴染みは恋愛的な意味での好意を持っていたらしい。
陽壱たちとの交流は、子供を授かった後も続いた。
「お久しぶりです、勇者様」
時々遊びに来る初恋の人夫婦と会うことは、彼女にとっての大きな楽しみであった。
第4部『下級生:東 恵理花』 完
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