第3部『先輩:松井 恭子』

第3部 その1「やだ」

「私ね、浅香くんのことが好き」


 それは、決して大きな声ではなかったが、傘に当たる雨音を物ともしない程によく通る声だった。

 季節は梅雨の真っ只中。しとしとと、毎日のように雨が降り続けている。


 時間は放課後、陽壱は手紙によって体育館の裏に呼び出されていた。

 登校時に靴箱に入っていたその手紙には、こう記されていた。



『浅香 陽壱様

 突然の便り、失礼いたします。

 この度は貴方様にどうしても伝えたい事があり、筆を取りました。

 大変お手数ですが本日の放課後、体育館裏までご足労頂けないでしょうか。

 余りにも手前勝手とは重々承知しておりますが、何卒よろしくお願い申し上げます。』



 手紙の文面からも、彼女の性格が見て取れる。

 そんな古式ゆかしき手順に沿って告白をしたのは、三年生で生徒会副会長の松井まつい 恭子きょうこだった。要するに先輩だ。


「浅香くんと知り合って、ちょうど一年くらいだね」


 ここ城際山西しろぎわやまにし高校の生徒会役員選挙は、七月の前半に行われる。

 立候補するのは基本的に二年生で、夏休みまでに先代から引き継ぎを受けるという流れが通例となっていた。

 選挙が近づくと一二三年の各クラスから一人ずつ、実行委員と言う名の雑用係が駆り出される。一部の物好き以外は、誰もがやりたがらない役目だ。

 去年の陽壱は、クラスの雰囲気からなし崩し的に抜擢されてしまう。そして、その年の立候補者にいたのが、当時二年生の恭子だった。


「実はね、その頃から浅香くんのこと気になっていたんだ」


 意思の強さを感じる吊り気味の目からは、彼女の真剣さが伺えた。普段の言動から真面目で、冗談を言うような人物ではない。

 雨粒に遮られてはっきりしないが、その頬は紅潮しているように見える。

 右肩から前に垂らした、緩めの三編みが揺れた。


「本気ですね?」

「うん、お付き合いしてほしい」


 女子から告白を受けるのは初めてでない。自惚れるわけではないが、自分がモテる方だとは薄々感じている。ただし、その理由までは理解できていない。

 例え本当にモテていたとしても、答えは毎回同じだ。


「すみません。松井先輩とは付き合えないです。俺には好きな子がいるんです」


 陽壱の恋愛感情は一人の女の子に埋め尽くされている。それはどんな相手に告白されても揺らいだことはなかった。

 高校生離れした美女にも、留学生の美少女でも覆すことはできなかった。


「そっか……」


 呟いて目を伏せる。痩せ型で陽壱とほぼ変わらない背丈をした恭子が、少し小さくなった気がした。

 いつもこの時は心苦しい。

 想い人に拒絶されることを想像すると、陽壱も胸が痛くなる。それを自分は目の前の相手に行っているのだ。

 しかし、申し訳ないと思いつつも他の対応は浮かばない。本心を伝え、諦めてもらうことが精一杯の誠実さだと信じるしかなかった。


「やだ」

「え?」

「いやだ」


 恭子が首を振る。

 ここまで感情を表に出す姿は見たことがなかった。

 真面目で冷静で公平。それが陽壱から見た恭子だった。こんな少女らしい仕草はイメージになかった。


「ええと、どうすれば」

「ごめんね。困らせていることはわかっているんだけど、どうしても納得できなくて」


 選挙の後も度々呼ばれては、生徒会の仕事を手伝っていた。単に声をかけやすい後輩だからだと思っていたが、そういう意図があったということか。

 恭子と二人で作業している時は、生徒会の中では言えないような愚痴やちょっとしたプライベートの話もしていた。

 その中でわかったのは、恭子は納得しないと動かない人ということだ。


「好きな子って、私の知ってる子?」

「ああ……いや……」


 陽壱の煮え切らない返事に、恭子は何かを感じ取ったようだった。


「その様子じゃ、私にもまだチャンスはありそうだね」

「いやいや」


 強気に微笑む。

 それは陽壱に対するいつもの表情だ。


「言いたくないことは聞かないから、恋の相談に乗らせて。その間に、私に乗り換えてもいいからね」

「えーと」


 ただし、恋愛に対しては何かが吹っ切れたように積極的に変わっていた。

 雨は相変わらず、しとしとと降り続けていた。

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