忠犬過失事件

千羽稲穂

過失か故意か、誰が犯人か

 ごみだめの中に、犬がぐったりと横たわっていた。口は開き、舌は宙ぶらりん状態で口から垂れ下がっている。柔らかなピンクが零れ落ちた場所に、透明な唾溜めがカーペットを汚していた。そこから一歩たりとも動かず、体は呼吸をせず、剥製のように固まっている。瞼は開きっぱなしで、まだ腐っていないつぶらな瞳が空間を見つめていた。もう既に息絶えている。


「私が殺した」


 はず、だった。


「喋った」


 私はきちんと手袋とマスクをして、犬に近づいた。あたりはごみ袋だらけで足の踏み場もないのに、犬が通る道だけは鮮明で、間をぬってそろそろと慎重に歩き出す。匂いがきつい。犬の腐臭も気にならないほどに、屋敷全体にごみが散らされている。


「私が、家主を殺した」

「これはこれは奇妙なことが起こった。私は気でも滅入ったのか。死んだ犬が喋っている」

「まあ、聞いてくれ。ここにはいないんだが、九日ほど前、家主が死んだんだ」

「ああ、聞こうじゃないか」


 私は犬を持ち上げて、腕の中にくるめる。瞳も体も動いていない。人形のようにぐったりとしている。毛並みも生き生きとした煌めきも艶めきもない。犬は確実に死んでいる。持ち上げにくいサイズの犬でもなく、腕の中にすっぽりと収まる茶色い巻き毛の犬だった。


 死体を大事に抱えて、私は犬が言った方向に歩き出す。


「二階の寝室で寝ている」


 犬が言った通り、寝室には毛布にくるまっている女性が見受けられた。まだ死亡して日が浅いのか、蝿は集らず膿んでもいない。固く閉ざした瞼に触れると、飛び上がるほど冷たい皮膚が感じられた。弾力もない。肌が白んでいる。


「ほんとだ。死んでいる」


 私は、その瞬間、すぐに手に目をやった。良かった、きちんと手袋はしている。指紋の恐れなどないだろうが、ややこしいことになるのはごめんだ。


「偏屈家の家主だった。屋敷にただ一人、寂しくごみを集めて、屋敷を埋めていった」


 犬は喋り出す。死人に口はないが、犬にはあるらしい。


「私もそのひとつなのか、と日々絶望していた。家主は私を大切に扱っていたが、それでも私の絶望は拭いきれなかった」


 そうだろうな。こんなごみ屋敷にいる者など、限られている。なぜ犬はここにいたのだろうか。見たところ首輪もしていない。犬種も雑種のような気がする。


 女性の傍らに転がっている写真が視界の端にちらつく。女性とその子どもの姿が屋敷を背景にし写っている。まだ屋敷は清潔感が漂っていた。ごみ袋ひとつない。ただ女性に肩を掴まれている、子どもの表情は曇っていた。子どもが抱いている犬は私が見つけた犬であろう。


 そうか、女性にとっては、この一匹と子ども一人は、ごみと取って代わるものだったのかもしれない。


「ある日、女性は私に手をかざした。私は殴られると思った。殴られ蹴られ、死に、このごみだめと一緒になるならば……私はそう思い、ひと噛み抵抗した。ただひと噛みしただけだ。それなのに、その日から女性は伏せった」


「病状は?」

「頭が痛いと言っていた。だるい、そして熱があり、たびたびごみだめに嘔吐していた」

 私はその症状をよく見知っていた。犬に噛まれたことが原因となると──


「狂犬病だ」


 この犬も、その病気で死んだとしたら……手袋をしていて良かった。


「私が噛まなければ、この女性は死ぬことはなかった。私が殺したんだ」

「いや、もう少し考えて見てほしい。それは少しおかしい。日本では、狂犬病のワクチンは、年に一回は受けなければならない。ワクチンを受けて狂犬病にかからないとも言えないが、それでも狂犬病になるのは限りなくゼロに近い。君はワクチンを受けたことは?」

「人間の言っていることは、難しい」

「どこかに連れられて、針刺されなかった?」

「それなら、生まれて間もない時に行ったような気もする。だが、それきりだ」


 本当に、犬が噛んだのは女性が手を翳したからというだけなのだ。


「聞いた限り、君の殺しは人間で言うところの『過失』だ。思わずやってしまった、自己防衛に含まれる。ワクチンを摂取していなかったうえ病院にも行かなかった家主も悪い。だから気に病む必要はないよ」


 いや『本当に』それだけか。

 私は、ふと、ある『もしも』を思い浮かばずにはいられなかった。


 女性の死体を後にして、屋敷の外へと歩き出す。犬が通る道だけは、ごみ袋がよけていってるようだ。犬の道は明らかに存在している。それだけでも女性は犬のことを大事にしていたのは充分見て取れる。そんな女性がワクチンを受けさせないことなんて本当にあるのだろうか。犬が死ぬかもしれない、および噛まれれば自身すら死に至る。狂犬病は、死亡率100パーセントの病気だ。実際に、現在彼女は死んでいる。犬に言わせれば、殺されているのだ。


 これが、もし『故意』ならば。

 犬の、ではなく、人間の。


「昔は、こうではなかった」犬の言葉が沈んでいく。眠るようにふやけていた。「昔は、この屋敷に女性の子どもがいて、私と遊んでくれた。手をかざす合図をすれば、その子どもに飛び込むようにと、毎度言ってくるんだ」

「躾の一種だね」


 今回も手を翳した時に飛び込んだ。犬は、気づいているのだろうか。もしかしたら、気づいていて庇っているのか。私に、自分が悪いのだと言うことにより、子どもの存在を避けているのだろうか。さすがに露骨過ぎやしないか。


 所詮は犬畜生なのか。はたまた、最期まで忠犬を突き通したいだけなのか。


 庭にでて、ごみ袋を掘って地面に犬を置いた。これぐらいなら埋めることは可能だ。犬をよけて、手で掘り始める。最後の供養を、私がしよう。あまりに憐れだ。生類憐みの令なんて現代にはないが、少なくとも私は猫より犬派だから。


「もし、もしも、君が庇っているのなら申し訳ないが、私の推理を聞いてくれないか。後生だ」


 犬は何も言わなかった。


「君のワクチンは、きれるのが分かっていて放置された。君が庇っている子どもが、わざと女性にワクチンはきれることがないから大丈夫だと告げたんだ。子どもの言葉を信じた女性は、ワクチンを年に一回受けさせず、それきりやめた。そして、子どもを物としか見ていない女性に復讐するために君を熱心に躾けた。手をかざせば、噛むように。女性の癖を見て、そう躾けたのかもしれない。そして時が経ち、女性と君しか屋敷にいなくなった。君のワクチンはきれて、女性に噛みついた」


 犬共々、狂犬病に陥った。

 子どもの思惑通り、女性は亡くなった。


「だとしたら、あの家主は、君ではなく子どもに殺されたことになる」


 だが、これにはある意味、悲しい事実がつきまとう。


「君は、子どもにも物としか見られていなかったことになる。そして、子どもはこの女性同様、君のような生き物を物として接していたことになる」


 因果なものだな。女性が子どもを取り替えたのと同じことを子どももしている。女性を殺す凶器としてしか犬は見られておらず、ごみ屋敷に置いていかれた。犬が家主に飛び込むまで、女性が犬に手を翳すまで、ワクチンがきれるまで、子どもの頃から仕組まれた年季の入った殺人計画だ。


 それなのに、律儀に「私が殺した」と犬は告げた。死体と成り果てようと、私に。犬はあまりにも、忠実に飼い主に従った。死に絶えようと、この計画を崩すわけにはいかなかったのだろう。


「大丈夫。私はしがない清掃員だ。君の飼い主に頼まれたんだ。この屋敷を掃除してくれと。君のことは一緒に来ている同僚にも見られていない。このもしもの推理は誰にも言わない」


 犬の反応はなかった。


「君の『過失』事件だ。もしもの可能性はこれでついえる」


 庭に、墓穴が出来上がった。手袋は土まみれだが、ごみ袋を清掃していたら消えるだろう。犬の心配も、これでなくなる。


「安心して、眠っていいよ」

 私は犬を墓穴に横たえた。


「ああ、ようやく」


 土をほんのりかけて、目が閉じられていないことに気づき、慌てて私は犬の瞳を閉じてあげた。とぼけたように開いた口を骨を折らずにゆっくりとふさぐ。隣に先ほど見つけた写真を共に添える。そうして、再び土をかけてあげた。犬の体が見えなくなるまで、私は犬を見送る。安寧に沈む犬に「大丈夫」と撫でるように土をかける。埋めた場所を触れた。手袋を介してだと、実感がもてなかった。まるで、先ほどまでの声は夢のようだ。記憶も薄れている。薄闇に殺しの可能性を捨てて、私は立ち上がった。


 もう二度と、犬は喋らなかった。

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