夜の橋で待つ

兵藤晴佳

第1話

 真夜中にふと目が覚めました。

 耳を澄ましてみます。

「近いな」

 思わずつぶやいて慌てたのは、ベッドの中で僕を抱きしめる、女の人のしなやかな腕に気が付いたからです。

 そばにいるだけで辺りがふうわりと明るくなる、プシケノースでした。

「パルチヴァール……いけない子」 

 ぎくっとして顔を近づけてみると、柔らかな唇から漏れる吐息が頬に触れたので、まだ寝ているのが分かりました。

 それを確かめてベッドからするりと抜け出すと、僕は床に脱ぎ散らかした子ども服を、音を立てないように身に付けます。

 いつも僕にくっついて離れない、この美しい女の人に気付かれないように。

 プシケノースは暖かくて優しい人です。そばにいるだけで、気持ちがほっとしてくるのです。

 ところで、きれいな人はもうひとりいます。

 青い髪のリュカリエールです。

 起こるとちょっと怖いけど、一緒にいるだけで、いつのまにか朝が昼に、昼が夕方になっています。

 そして頼みもしないのに、夜はプシケノースが、朝早くにはリュカリエールが、必ずベッドの中で添い寝してきます。

 その間、もう一方は何をしているのかというと、この広い街のどこかにある原子炉が暴走しないように制御装置の中で眠っているのです。

 たいてい、夜中はリュカリエールがそこにいます。朝早くに帰ってきてプシケノースと代わると、僕と一緒にまたベッドで眠るのです。

 プシケノースの歌声が聞こえてくるのは、ちょうどその頃です。


 ……おうち時間を過ごしましょう。


 夜中には聞こえません。街のひとたちが眠っているときには歌わなくてもいいのです。だから、プシケノースほど歌がうまくないリュカリエールは、原子炉制御には夜中を選んだのでした。


 いつもは夜が明けると、僕はその声を聞きながらすぐに家を抜け出します。それなのに今日、こんなに遅くなったのにはちょっとわけがありました。

 月も星もない真っ暗な夜空の下を、耳を澄ましながら歩いていくのは、探しているものがあるからです。たぶん、それは僕にしか見つけられません。

 他の人には聞こえないからです。リュカリエールにも、プシケノースにも。 

 僕が追っているのは、誰かの足音でした。この街のどこからか聞こえているのは間違いないのですが、今までどうしても、走っているのを見つけることができなかったのです。

 でも、その足音を立てて走る人は、ものすごく親しくて大切な誰かだという気がしてなりませんでした。

「あれは……」

 今まで見たこともない橋の上に、誰かが立っていました。気にはなりましたが、足音を追うことのほうが先です。暗闇の中で微かに聞こえる、ということは、それだけ遠くにいるということです。少しでも近づかなければ、また逃してしまいます。


 誰だ?


 胸の奥にむくむく沸き起こる問いをねじ伏せて、僕は橋を駆け抜けようとしました。ところが、橋の上で佇む人影は僕を呼び止めようとするのです。

「もし……?」

 誰なんでしょうか、この人は。よく知っている気がします。でも分かってはいけないような気もするのです。


 関わるな、そいつは危険だ。


 誰かがそう言ったような気がしました。その通りです。遠ざかっていく足音を逃がさないようにすることのほうが大切でした。

 呼び止めてきた誰かを後ろへ置き去りにして、僕は足音を追い続けます。

 しかし、どうやら、それがまずかったようなのです。

「しまったな」

 どんなときでも、話しかけられたら返事をするものなのでしょう。たとえ、それが危険な相手だと叫ぶ声がどこからか聞こえてきたとしても。

 広い街の中は静まりかえっています。原子炉が暴走するのを最初に止めたのは僕ですが、その場所が思い出せないほど、この街は広いのでした。

 誰かひとりくらい起きていれば、その声が聞こえてもおかしくはありません。

 でも、街が広いだけに、その中で起きている人が僕と、あの遠い足音の主のほかにいるとはとても思えないのでした。

「つまり、これは人じゃない……」

 それは静かに、しかし間違いなく、僕の後を追ってきます。知らん顔をしても、向こうが放っておいてはくれないようです。

「むやみにものを尋ねちゃいけないって、リュカリエールは言うけど……」

 ダメだと言われても、やらなくちゃいけないことはあるのでしょう。

 いや、元はといえば、僕がいけないのかもしれません。勝手に外へ出たのですから、そのお仕置きはちゃんと受けるのが当たり前なのです。

 足音を追うのは諦めて、僕は立ち止まりました。

 振り向いて、後ろから音もなく追ってくる相手に尋ねます。

「……誰?」

 光の幕が弾けて、夜の冷たい風が僕の身体を吹き抜けていくのが分かります。


 子どもの小さな身体に封じられていた力が、記憶と共に果てしなくあふれ返ってくる。原子炉が最初に暴走したとき、それを止めた力だった。

 そのとき大量の放射線に冒された僕の身体は、今でも蝕まれつづけている。無限の生命力を秘めた子どもの身体でなければ、食い止めることはできない。

 逆に言えば、元の力を解放することは僕の命を縮めることだった。


「何で……よりによって」

 目の前にあったのは、闇の中にぼんやりと浮かぶ、巨大な女の裸身だった。

 見覚えがある。僕はついさっきまで、ベッドの中でそれに抱きしめられていたのだから。

「プシケノース……どうして」

 ふうわりと光る美しい身体を呆然と見つめる僕に、優しい顔が困ったように微笑みかける。

「パルチヴァール……いけない子」 

 そう言いながら伸ばしてくる手は、凄まじい力で僕を掴んで持ち上げる。

「さあ、帰りましょう」

 素裸の身体を包み込む大きな手は、温かく、心をどこまでも解きほぐしてくれる。

 自分が、自分じゃなくてもいいと思えるくらいに。

 自分の身体を失っても、プシケノースと溶け合うことができればそれでいいとさえ思った。

 誰かが、こう言うまでは。


 お前いい加減にしろ、お姉さまに甘えるのも。


 それが誰なのか何となく分かったとき、あの足音がさらに遠ざかっていくのが分かった。

 目が覚めた気がして、僕はきっぱりと言い切った。

「いやだね」

 本当に消えてなくなりそうだった心と身体が、巨大なプシケノースに握りしめられた拳の外で、本来の僕という形を結ぶ。

 地面に軽々と飛び降りるのだって、もう何でもない。

「僕をどこへ連れて行く気だったのか知らないけど」

 プシケノースは笑みを浮かべたままだったが、その唇は、それ自体がひとつの生き物であるかのようにうごめいた。

「もちろん……私たちの家よ」  

「ひとりで帰れるよ」

 そうは言ったが、帰り道を塞いでいるのはプシケノースだ。

「じゃあ、こっちへいらっしゃい」

 豊かな胸を揺らしながら、巨大な身体が膝をついて、僕を迎え入れようとする。

 どう答えたものか、僕は迷った。

 このまま逃げれば、巨大なプシケノースは追ってくるだろう。たぶん、逃げきれない。

 じゃあ、来た道を求められるままに戻ればいいのかというと、そうでもない気がする。

 だから、僕は答えた。

「朝まで、ここでこうしていよう」

 優しかったプシケノースの顔が、急に歪んだ。

 真夜中の暗闇そのもののように冷たい、恐ろしい声で僕を罵る。

「いい気にならないで、自分ひとりじゃ何にもできないくせに」


 そのときだった。

 僕の背後から一陣の風が吹き抜けると共に、巨大なプシケノースの姿が真っ二つになって消し飛んだ。

 あの足音が近づいてくるのが、背中で分かる。 

 僕を叱りつけた声が、今度は穏やかに語りかけてきた。

「もう、大丈夫だよ」

 僕は振り向かずに答えた。 

「探したんだよ」

 僕がその顔を見ようとすれば、足音はまた遠ざかっていくだろう。

 だが、その返事は意外なものだった。

「ずっと君の近くにいたんだよ」

 そんなはずはなかった。

 どれだけ街の中を歩き回っても、見つかりはしなかったのに。

 僕は少し、拗ねたように文句を言った。

「だって、足音が聞こえても、いなかったじゃないか」

 目が覚めた時の足音は、家のすぐ近くで、かなりはっきり聞こえた。

 だから、すぐに出れば追いつけると思って、急いで後を追ったのだった。

 それでも足音はどんどん遠ざかっていった。それでいて、消えることはなかったのだ。

 だが、種明かしは単純なものだった。 

「近くにいるときは足音を殺して、遠くにいるときは大きく響かせたのさ」

 器用なものだった。

「できるの? そんなことが」

 こいつなら難しくはないだろうと思いながら聞いてみる。

 答えは、さらりと帰ってきた。

「できないと思う?」

 質問を質問で返されたら、答えは自分で出すしかない。

「できるよね、君なら」

 ようやく巡り合えた相手への想いを込めた、ひと言だった。

 でも、それはあっさりとかわされた。 

「そろそろ、行かなくちゃ」

 仕方がないという気もした。

 夜の闇が、夜明け前の薄い青に変わり始めている。 

 無理だと分かってはいたけど、聞かないではいられなかった。

「ここにいてくれないの?」

 もちろん、何言ってるんだという口調で切り返される。

「いなくても、いつでも一緒だよ」

 

 そこで聞こえたお姉サマの声で、本当に目が覚めた。

「どこに行ってたの?」

 朝霧の中で眠たげに僕を見つめているのは、寝起きのプシケノースだった。

 怒ってはいないのをいいことに、僕は思わせぶりに答える。

「秘密」

 プシケノールはあの優しい顔で、くすりと笑った。

「そう……男の子だもんね」

 子供服を目の前に放り出す。

 それは、原子炉の暴走を意味していた。

 記憶が消し飛ぶ瞬間、僕は思った。 

 何か制御をしくじったらしいリュカリエールには、プシケノールがあんなふうに見えたのだろう。

 巨大で凶悪で美しく、僕をとろかして手の届かないどこかに連れ去っていきかねない、危険な何物か……。

 

 僕が子ども服に着替えたとき、朝日を背にしたリュカリエールが、きまり悪そうに戻ってきた。

「ごめん」

 何のことだか分からなかったけど、僕は気にしてなかった。

 遠くから、また走る足音が聞こえてきたからだ。

 懐かしくて、何だか頼りになる、あの足音が。

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夜の橋で待つ 兵藤晴佳 @hyoudo

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