転生・失敗

狂気

 鞄から鍵を取り出し、鍵穴に刺して捻る。取っ手を引っ張り玄関のドアを開けて中に入ってすぐ、兵藤さんの言葉がブラッシュバックする。

 僕が自分自身のことをなよなよしていると言った時の「それは違う」と言う確信したような彼の言葉が、情景が、僕の頭の中で鮮明に蘇りふっと消える。


「僕はなよなよなんてしていない……か……」


 僕が弱い人間じゃないなんて到底信じられる話ではない。でも、ここまであいつ等の数々の鬼畜の所業に耐え、生き延びてきたのは事実だ。強がっていたとはいえ学校には毎日行っていたし、驚くような怪我をさせられても何食わぬ顔で家に帰って、「階段で躓いて落ちた」とか「体育でこけた」と親には笑顔で説明していた。

 ただただ強がって、辛いことに耐えて、耐えて、必死に耐え凌いできた。


 ここまでやってきたのに、折れてしまうなんて漢の名が廃ると言うもの。


 どうして僕がこんな目に合わないといけないのか、僕が学校に行くのは教育を受ける者としての『権利』だ。両親に馬鹿にならない金を払ってもらって教育を受ける『権利』を享受している。あいつらにその権利を侵害されるなんて屈辱でしかない。


――不意に、そう思った。


「明日は、絶対に行ってやる」


 そう心に誓って一歩一歩を踏みしめるように階段を上る。飛び込むように自室に入るとそのままベッドにカバンを投げて、部屋の中心に仁王立ち押した僕は髪をぐしゃぐしゃとかき上げ乱し、気が狂ったように高笑いを上げた。あはは、あははと、まるで薬物中毒者がクスリを摂取してハイになっているかのように。

 すごく気分が良い。なぜだかは解らないが、ただただ面白かった。訳も分からずのたうち回って、立ち上がっては床に転んで、タンスの戸に額を打ち付けて、笑った。頭に響く嫌な痛みもなぜか心地よく感じてしまう。

「あはははははっ! 死ね! 死ね! 海斗なんて死んじまえ! 僕はこんなことには屈しない! こんな屑みたいな行為に屈してたまるか!」

 目の焦点が左右で一致していないのが自身でもわかってしまう。口の中には鉄の味が広がり、頭はぐわんぐわんと嫌な振動が延々と襲い続ける。何を思ったのかガチャリと自室を飛び出してカクンカクンとした動きで二階の廊下を歩き、階段に差し掛かる。階段を下りてどこかへ行こうと足を踏み出した途端、視界がぐらっと揺れ、直後頭に大きな衝撃が走る。

「ふぁえ?」

 そんな情けない声をあげて頭から階段を滑り落ちる。がくんがくんと体に連続して衝撃が伝わり、吐き気が襲う。最終段に行き着き止まった時、何とも言えない面白さを感じ、笑う。

「あはは! 痛い! 痛い!……うっ……」

 痛みに妙な面白さを感じ、頭を下にしたまま、体勢を立て直さずに笑う。そして逆さになった体の中では頭に血が上り意識が朦朧とし、加え先ほど感じた吐き気で込み上げてきた『それ』がどんどん重力に従って喉元まで遡ってくる。そして、喉の栓が外れて腹部にきゅっと力が入り、眼前が暗転した。




 気が付くと、窓の外からは淡い夕日が差し込んでいた。

「あれ……何してたんだ……?って、ええ?」

 横を見ると、ものすごい異臭を放ち少し水分の抜けた僕がこぼしたものと思しき吐瀉物が服につくかつかないかのぎりぎりのところで水溜りのようになってた。

「え!? やばいやばい、僕何してたんだよ! 早く片付けないと……」

 吐瀉物に触れないように台所にある台所消毒剤と肌の弱い母が使っているゴム手袋、輪ゴム、ビニール袋、ペーパータオルをダイニングテーブルの上に放り投げ、一度口をゆすいだ。


「なんでこんなことになってるんだよ……」

 口の中を軽く濯いでゴム手袋をはめ、自由になっているところを輪ゴムで絞める。そして完全とまではいかないが防御態勢を整えた僕は机の上に残ったものを手に取り、現場へと向かう。

 何とも言えない異臭が立ち込め、僕を少し嘔吐えずかせる。必死に吐き気を堪えて、嗅覚を遮断し、消毒剤をペーパータオルに染み込ませて、吐瀉物に浸すように拭き取る。出張が多い両親なため、このような有事の時には冷静に対応できるように幼いころからしつけられていたのが功を奏した。

 数分で完全に拭き取ることはできたが、もしかすると変な菌がいるかもしれないと念入りに消毒をし、最後に拭き取ったペーパータオルと身に着けていた手袋や輪ゴムをゴミ袋に入れ、すぐ傍の洗面所で石鹼を使って念入りに手を洗った。


「すごい頭痛い……菌にやられたかな? まだ早いけどもう布団に入って大人しく寝ておこう……明日学校にいけないのも癪だからねぇ」


 そう呟いて来ていたものをすべて脱ぎ洗濯機を回してパンツ一つで自室に戻った。


「……泥棒でも入った?」


 部屋のドアを開けて最初に発した言葉はそれだった。机の上に置いておいたノートや筆記具は床に散らばり、シーツは台風でも来たかのように乱れ、小さな棚の中からはいろいろなものが床に放り出されていた。


 とりあえずとクローゼットから適当に寝間着を取りだして、それを着た。

 

「いったい僕はこの部屋でどんな凶行に及んでいたのか」ただそれだけが疑問だった。でも僕には何をしていたのかわからなくて、それがずっと喉元で引っかかって、その引っ掛かりを解決せぬまま床に散らばった有象無象を片付けた。


「駄目だ、ひどく疲れてる……」


 軽く台風通過後のようになったシーツを整え、鞄にしまっていたスマホを取り出して宮付に付けられた充電器にスマホを刺して、母親に一言

「体調悪くて吐き戻した」

 そう送信して、布団を深くかぶって眠りに落ちた。



 夢の中では、僕が気が狂ったように笑いこけながら自室を荒らしていた。

 ケタケタ……ケタケタとまるで悪霊にでも憑りつかれたかのように、夢の中の僕は笑っていた。




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