駅の外は

「あの……もうそろそろいいですか?」

 ずっと頭を撫で続ける彼女に向かって僕はそう言う。

「あ、すまないね。こういうのが久しぶりだから嬉しくてつい……」

そう彼女。

「かれこれもう三十分ほど経ってますけど……」

 僕はそう言って部屋の隅に置かれた時計を指差す。僕が彼女に撫でられている間もずっと時計は動いていた。実に三十分以上も。

「あ、本当だ。すまないね。じゃあ、私はそろそろ仕事に入るかな……」

 彼女は体を大きく伸ばしながらそう呟いた。

「じゃあ、頑張ってください。僕は駅長室の中でゆっくりさせて頂きますので」

「ああ、わかった」

 彼女と僕は立ち上がり、給湯室のドアを開けて彼女は駅員室に、僕は駅長室へと向かった。




 駅長室のドアの取っ手を握り、手前に引く。ぎいぃ、という金属のこすれる音とともにそのドアは開かれる。中を覗くと案の定、部屋の中には誰もいなかった。

「特にすることもないし、持ってきた本でも読んで待ってようかな」

 僕はそう呟いて、鞄から一冊の本を取り出した。ナチスドイツの、あの本を。

「高い城の男……『高い城』がドイツとどう関係するんだろう……」

 どんな物語なのだろうという期待感と、妙に引っ掛かるタイトルに悩まされる言葉には表しにくいような微妙な感情が混ざった混沌を心に抱えながら、僕は小説の一ページ目をめくった。



『この一週間、ロバート・チルダンは気をもみながら、毎日の郵便を待っていた。しかし、ロッキー山脈連邦から来るはずの貴重な小包は、なかなか届かない。金曜の朝、店を開けて、郵便受けのそばの床の上に散らばっているのが手紙ばかりなのを見てとると、チルダンは思った。あの客もこんどはきっと怒りだすぞ。』


 この一段落から始まる物語、ナチス・ドイツ関連の話だというのは表紙から見てとれたが、物語の始まりに何か、ドイツの風味を感じなかった。どちらかと言うと、アメリカのあたりの日常のように感じられた。しかし、ある一文でその物語の雰囲気は変わる


『一九四七年、終戦の日に彼のとった行動は、多少なりとも狂戦士じみていた。心からジャップ日本人を憎んでいた彼は復讐を誓い、自分の軍用銃に油をさし、密封包装して、戦友たちといっしょに蜂起する日のくるまで、地下三メートルの穴蔵に隠したのだ。』


―― 一九四七年、本来であればすでに第二次世界大戦は終わっていて日本とドイツが焦土と化していた時。そこで僕はこの本が歴史改変の類なのだと気が付いた。

 想像以上に面白く、僕は物語に引き込まれていった。脳内ではすでに語られたキャラクターの特徴をもとに映像が構築され、彼らが実体のない妄想の世界でこの物語と同じ動きを見せる。近代的な文明のほとんどを奪われた大西洋側のナチス管理下のあるアメリカと、日本とアメリカの文化が融合した太平洋岸のアメリカ、その二つの"元同じ国"の間にある摩擦が、人間の会話を通してひしひしと感じられた。



「待たせてすまなかったね。って、なんだその本は!?」

 どこかへの"おでかけ"から帰ってきた兵藤さんは驚きと嫌悪の表情が二対一で混ざったような微妙な表情を浮かべながら僕のほうを見て尋ねてくる。

「……あ、この本ですか?」

 僕はナチス・ドイツの紋章が表紙にあしらわれたその本を見せる。

「そうだよ、なんだその本は?」

「歴史改変物です。日本とドイツが太平……大東亜戦争で勝利した世界戦の話だそうです」

「ほお、面白そうじゃないか」

 さっきの険しい表情から一変、彼は興味深そうに本の表紙をまじまじと見つめ、そう言った。


「……ところで、どこへ行っていたんです?」

「ああ、買い出しにね」

「買い出し……ですか……」

 一瞬理解しようとしていた事柄が僕の喉元でくっと引っかかる。

「そういえば、この駅の外ってどうなっているんですか?」

 ふいに気になって、思わず彼に聞いていた。僕がそのことを聞いた途端、兵藤さんは一瞬ぴくりと顔を引きつらせてから、こう言った


「――気になるなら行っても良いんだぞ?ただし、条件があるが」


 条件、それは異様に重い雰囲気を持った言葉で、なぜか聞いてはいけないような気がしてしまった。だが、条件と言われれば気になってしまうのが人間と言うもの。僕は息を一度大きく吸ってから、聞いた。


「その条件はなんですか?」


と。

 彼は少し息を吸ってから、

「その条件は――体質的な問題でもあるが、三時間以上外にいてはいけない。と言うことだ」

「三時間……」

 僕が理解し切っていないのを知ってか知らずか彼は少し悩んだような顔をしてから

「この駅は生死の境目にある駅だっていうことは前に言ったよね?」

 そう、僕に聞いてきた。

「はい」

「もう一度言うけれど、この駅は生と死の世界の境目の駅なんだよ。つまり、この駅の駅舎から出たらそこからは霊界なんだ。生きた生身の人間が霊界に長い時間いると魂が死の世界に取り込まれてしまって、帰ってこれなくなっちゃうんだ。要するに、『死ぬ』ってことだ」

 『死』という単語に少し血の気が引く。死にたい死にたいと思っていた僕としてはそれが不思議でしかなかった。

「もちろん、外へ行くなら私もついていくさ」

 一瞬の表情の変化を悟ったのか彼はにこやかな表情でそう言ってきた。

「いや、今日のところは遠慮させていただきます」

「ふうん、そうなのか」

 兵藤さんは少し寂しそうな顔をしていた。

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