眠くなるのは揺れのせい

 とぼとぼと住宅街を歩く。昨日と蒼空と通った同じ道を歩いているが、心持ちが以前とは全く違う。あの時は楽しさや希望に満ち溢れていたが、今はとても陰鬱な気分だ。なぜだろう。思い当たる節は多々あるし、昨日と状況が違うというのもある。でもその節々が多すぎて直接的な原因ははっきりとしない。

 道では小さな子供たちが走り回って遊んでいる。感傷的になっているのか、いつもは何とも思わないのに、今日だけはなぜか懐かしさを感じてしまう。

 できるなら戻りたかった。

 無邪気だったあの頃に。

 できるなら戻りたかった。

 何事にも苛まれなかったあの頃に。

 できるなら戻りたかった。

 『本当の』苦しみを理解してなかった頃に。

「やっぱり、人生ってクソだな……」

大きく溜息を吐いて、そのまま歩き続ける。駅に入るときには兵藤さんに伝えられた通り、きさらぎ駅へ行くことだけをひたすらに考えて駅舎内へと入る。適当に120円区間の切符を購入し、自動改札に投入した。そして切符を手に取った瞬間、目の前の世界が変わる。

 改札を抜けた途端空は一瞬で夕暮れの茜色から夜の藍色へと変わり、頭上ではいくつもの星が瞬きだした。

 瞬間的に変化した景色を不思議に思いながら眺めていると、奥から一本の列車がプラットホームに入線し停車する。それは僕が以前きさらぎへ行ったときに乗った列車とよく似たもの。今日も車内には人は一人もいなかった。中に入った僕は適当な場所に座り、家から持ってきた菓子パンを取り出し封を切り、口へと運ぶ。一口、また一口と口に含む度に、早朝以降一切何も口にしていなかった僕の身体に栄養分が流れ込んでいくのが感じられる。

「美味しかった」

 ふうと一息ついてから、中身のなくなった菓子パンの袋をきゅっと小さくまとめ、鞄の中に放り込む。鞄のチャックを閉めて、ふと窓の外を眺めてみる。

窓の外は初めてこの列車に乗った時と同じように、完全な闇に包まれていた。

 不思議と、だんだん眠気が増幅していく。家であれだけ眠ったはずなのに、抗いようのない眠気が僕を飲み込もうとしている。

 ついには眠気に僕の身体は支配され、ころりと転げるように眠りに落ちた。




 意識が戻った時、僕の周りには以前の時のようにたくさんの人がいて、窓の外では大粒の雨が降っていた。天候以外前とほとんど変わらぬ光景は何か少しの安心感を僕に与えてくれた。


「きさらぎ~きさらぎ。終点です。今までお疲れさまでした。足元とお忘れ物にお気をつけてお降りください」


 前と変わらぬノイズの乗った声がスピーカーから発される。それとほぼ同時に列車は減速を始めて、停車した。ガシャリと音を立てて古びた列車のドアが開かれ、続々と車内から人が出ていく。その人ごみに紛れる形で降車し、そのまま改札を待つ列に並ぶ。改札に立つ駅員は前に来た時と同じ二人組だった。僕が彼らの一人に切符を渡すと、その切符を普通の切符の束とは別の場所に分けて置き、今度は何も言わず僕を通した。そしてそのまま駅舎内に溜まる人込みをかき分けて脇にある細い通路へと入り、兵藤さんがいるであろう駅長室の前に立つ。「ふう…」と一息ついてから、こんこんとドアを軽くノックした。

 がたっと椅子から立ち上がる音が聞こえ、まもなくしてガチャリとドアが開かれる。

「ようこそ、朔弥くん。って、なんだその傷は!? とりあえず中に入って!」

 彼は僕の手をつかんで駅長室の中へと引き込み、前に座った椅子に座らされた。 

「この前君が言っていた連中にやられたのかい?」

前の時と同じように僕と対面になる形で椅子に座った彼は僕に質問を投げてくる。それに僕は俯きながら

「……はい。あいつら……いや、複数ではなく、グループの中のリーダーにやられました」

 さっき車内で食べた菓子パンが胃から戻ってきそうだ。必死に吐き戻しそうになる体を抑えながら、事の顛末を彼に教える。本当ならこんなこと言いたくもなかったのだが、彼といるという妙な安心感から、僕の口と心の鍵は開けられた。

「昨日、幼馴染と一緒に買い物に行ったんです。と言っても、荷物持ちとして付き合せれたようなものなのでしょうけど。それで、彼女と別れた後にその『リーダー』に見つかって……それで……っ……」

 思い出したくなかったその時の情景が脳裏に鮮明に蘇り、その場で僕は嘔吐えずいてしまい、気を抜けばその場に胃の中のすべてを出してしまいそうになる。

 僕が苦悶の表情を浮かべる中、兵藤さんは穏やかな表情を浮かべながらうんうんと頷いている。そして彼は椅子から立ち上がると、仕事で使っているのであろう机の中から何かを取り出し机の上に置いた。土を固めて作ったような小さな瓶だった。そしてそれを手に持ったまま彼は僕の前に立ち

「よく効く軟膏薬を塗ってあげよう。ほら、傷を見せなさい」

「あ、わかりました」

 僕は言われたとおりに前髪で隠された傷を彼に見せる。

「本当にひどい傷だな……」

 兵藤さんは表情を曇らせながら土でできた瓶の蓋を取って中から少量の軟膏をかき出しながら小さく呟いた。

「じゃあ、塗るよ。ちょっと、いやすごく染みるだろうけど我慢してね」

 そう言って彼は軟膏のついた指を僕の額にある傷に触れさせる。途端雷に打たれたかのような痛みが全身を貫き、痛みを必死にこらえるがあまりに声にならない声を漏らしてしまう。

「我慢してって言ったのにね……ほら、服を脱いで、奴に貰った別の傷を見せなさい。全部塗るから」

「えっ!? ちょ、ちょっと待ってくださいよ! めちゃくちゃ痛いじゃないですかコレ!」

 兵藤さんの唐突な要求に思わず素っ頓狂な声を上げ、軟膏を指に付けて僕にその激痛のする軟膏を塗ろうとする彼の手首をつかむ。

「ほら、そんなに抵抗されちゃ、傷の治りが遅くなるよ。だから、全部塗っとこうよ」

「いや、言ってることが無茶苦茶なんですけど……」

「今の話に無茶も何も関係ない。服を脱いで傷を見せなさい」

 少し圧のこもった声で言われたので、押されて思わずうなずいてしまう。

「よし、なら服を脱いで。薬を塗ってあげるから」

 そう言われたので、僕は服を脱いだ。


「じゃあ、我慢してね」

 そして彼は軟膏のついた指を僕の右腕にある少し深い傷に触れさせる。

「痛っ……痛い……」

 右腕、左腕、脇腹、足とありとあらゆる深い傷に軟膏を擦りこまれた。塗られている間僕は声にならない悲鳴をずっと上げ続けていた。

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