第53話 年下の彼氏だぞ、イードレ君
ねずみは、固まっていた。
「ちゅうう、ちゅうぅう」
あ、あの光景は――
大切な手紙を届ける途中であった。
手紙はく丸めて、背負っている。ねずみにとっては、両手を掲げて持つ、古代の巻物サイズである。
一通は、仲間へむけたお手紙だ。
書かれているのは、一言だけ。
ねずみ生活、始めました――
友よ、
レーゲルお姉さんが、公園のベンチでくつろいでいた。
いつもはしっかり者である、仲間たちのリーダーのお姉さんだ。そんな銀色のツンツンヘアーのお姉さんが、驚きだ。
年下の恋人君に
「イードレ君っ、お姉さんは、寂しかったんだぞっ」
ベンチの下に隠れたねずみは、ぞぞぞぞ――っと、全身の気が、逆立った。
貴様は、誰だ――
もう、普段のツンツンとしたお姉さんとの落差が、えぐいのだ。本当に、普段のレーゲルお姉さんの、クールなお姿を知る人物が見れば、のた打ち回るにちがいない。
繰り広げられる青春を見せ付けられて、その青さに、人生の春を
やめてくれ――
それはもう、ハラをかかえて笑い転げる、のた打ち回る光景が、目の前で広がっていた。
「ボクも、その………寂しかったです。レーゲルさん」
「うん、素直でよろしいっ」
声変わりを終えたばかりに見える少年は、イードレ君と言う。
少女のようにあどけない顔立ちは、将来は、さぞ美青年に成長すると感じさせ、腹立たしいことだ。
そして、気の毒なことだ。あの、レーゲルというお姉さんの恋人なのだから。
どこからどこを見ても、あのレーゲルと同一人物だとは思えない。一刻も早く、このカップルの会話が届かない場所へ、甘えている光景を目にしなくてもいい場所へと、走り去りたい。
ねずみさんは、腹を抱えて、のた打ち回る。
「ちゅ、ちゅう………ちゅうぅ~ぅ!」
た、頼む………よそでやってくれ~っ!――
背中のお手紙がつぶれてしまうことなど、気にする余裕もない。ぞぞぞ――と、背筋がおびえ、腹筋が引きつる。レーゲルお姉さんは、年下の彼氏君の前では、お姉さんなんだぞ――と言う、お姉さんなのだ。
甘えても、い・い・ん・だ・ぞ――――と、年下の彼氏君に甘えて………
「でも、レーゲルさん、ここは公共の場所ですからね。そのぉ~………」
唯一、お姉さんに口答えが許されるのは、イードレ少年だ。
公園のベンチで、ここだけ別空間を作り上げたお姉さんに、遠慮がちに、ご忠告申し上げた。
周りの目線が、かなり気になっている十五歳の、温かな昼下がりの出来事だ。お姉さんの恋人様に、お願いしたのだ。
ちょっとは、気にしてくださいと。
逆らえるのは、彼氏とだけという、特権だ。
言うことを聞いてくれる保障が、ないだけだ。
「やぁ~だっ、恋人の時間をジャマするのは、ドラゴンの尻尾で吹っ飛ばされちゃうんだぞっ」
そんなことわざがあったのか、誰も知らない。
そして、知られてはならない。この光景を見て、笑い転げているねずみがいると。
知られれば、終わる。真っ赤なお顔で、お姉さんのツンツンヘアーが、銀色から、金色へとバージョンアップするのだ。
身体強化魔法の作用による、毛髪や瞳の色の、変化だ。究極の形態が、獣の耳や尻尾を生じさせた、獣人の姿だというが、今はいい。
今は、調子に乗って、笑い転げていたねずみの身が危ない。 すっと、レーゲルお姉さんが座りなおして、周囲を警戒されたのだ。
とっさに、緊張するねずみ。腹を抱えたまま、時間が凍った。
「レーゲルさん?」
心配そうな、イードレ君。
だれが、年上の恋人さんに逆らえようか。口答えの権利は有しても、従う以外の選択肢は、持ち合わせていないのだ。
あと数年もすれば、口答えすら、許されなくなるに違いない。
「いや、なんか、バカにされてるような気配が………」
するどい。
ねずみは息を殺して、様子をうかがう。
「そこっ」
ねずみは、終わったか――と、死を覚悟する。人間であった当時は、吹っ飛ばされてもまだ、魔法のローブが守ってくれていた。
ねずみの身の上では、ミンチだ。
だが、そうではなかった。腹を見せて、死を迎えた『G』のように、ひっくり返って動かないまま、数秒が過ぎた。
ベンチの陰であるため、この光景を見守るのは、常にネズリーに付き従う、宝石だけだ。
外を歩く今は、色彩を押さえて、目立たなくしている。
とても便利だ、ねずみもまた、体毛を変化させる力があればと、思う。
いや、危険には、違いない。
「きゃいんっ………きゃいん………だ、ワン」
妙に間の抜けた、というか、最後の『だ、ワン』は、冗談なのか。駄犬が、必死に逃げ去る様子を、ねずみは目にした。
お姉さんも、恋人さんも、その他大勢も、おかしな鳴き声と言う後姿を見守った。
どこにでもいる、くすんだ灰色と、汚れた白色の中間の、
お姉さんは、顔を真っ赤にして、つぶやいた。
「ホーネック………あの
聞こえないふりをして、にこやかに前を向いている恋人君は、よく分かっていらっしゃる。お付き合いを初めて、すでに半年を経過したという。すでに、忠実なる奴隷ライフは、始まっていた。
「ちゅぅ~………」
がんばれ――
ねずみは、精一杯の気持ちを込めて鳴くと、その場を立ち去った。
ドドド――と、大汗をかいた宝石君も、ご一緒だ。
ねずみは、見つからないうちにと、下水道へともぐった。公園の排水溝は小さく、人の指より大きなものは、入るまい。
すっともぐりこんだねずみは、ほっと、ひと安心だ。
間違っても、あの場面で、お手紙を渡してはならない。自分が、ネズリーと言う魔法使いの生まれ変わりだと、お姉さんに知られてはならない。
ねずみ生活が、その瞬間に、終わってしまう。
見てたのか――という、殺意に満ちたお姉さんの瞳が、最期の光景になることは確実なのだ。
「………ちゅ?!」
――なんだ?
ねずみは、ふと、立ち止まる。
宝石も、緊張に点滅し、立ち止まる。
大きなものが、下水のせせらぎを、はねた気がしたのだ。恐る恐る、水面に目を
ただ、何かがギラリと、こちらを
縄張りを主張する、ドブネズミの親分だろうか。
それとも………
ねずみは、下水にワニが住まうという都市伝説を思い出し、ぞくりと、身を震わせた。
「ちゅ~………」
気のせいならよいと思いつつ、ねずみは、気持ちを入れ替え、頭の中の地図を思い出していた。
まずは、仲間へのお手紙を、ネズリーだった当時、使っていたお部屋に運ぶのだ。そして、もう一通の手紙は――
ねずみは、もう来週に迫ったパーティーの行方を確実にするため、道を急いだ。
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