第6話 優雅なる、翌朝
男は、一冊の本を手にして、
男と言うより、少年だ。
ねずみは、これは生前の自分なのだろうと、感じていた。半分割れた鏡に映るのは、十六歳か、十七歳あたりの、ボロボロの衣服の少年だった。
貧しい暮らしに違いない、部屋の壁紙がはがれ、木製の壁地が出ていた。服装も、やはり貧しさを現す。ボロボロのマントに、更にボロボロの衣服の少年は、本を高らかと
ついに力を手に入れたとでも言いたいのか、実際にその通りかもしれない。野心にあふれる若者に特有の、怖いもの知らずの、怖いもの見たさの顔だった。
――さぁ、新たな力を、このネズリー・チューターの手にっ!
大げさにのたまうと、そのまま魔法を発動………させることなく、さて、どうすればいいのかと言う態度で、
見ている身としては、ずっこけたくなる姿である。ネズリーと名乗った少年は
道を歩けば、一人か二人は魔法使いに出会う世の中である。少年は、その修行中の身であるようだ。
ねずみは、納得ができた。魔法の力があるために、生まれ変わっても記憶を
ならば、多少なりとも魔法の力も受け継がせて欲しかった。明日は知れない、ねずみの身の上なのだ。
ぼんやりと過去の自分を見つめていると、魔法が発動した。
書物から、自分が実験したい呪文を見つけたようだ。意識を集中し、自らと本とが輝きだす。
そして魔法の材料だろうか、生け
意識は、ここで現実に引き戻される。
「ちゅぅ~………」
もう朝かと、ねずみは緩やかにまぶたを開けた。
朝の日差しが、まぶたをなぞっていた。
ぼんやりとした巨大な木枠が目に映り、再びまぶたは閉じられる。これが、今の暮らしであると、少し自らを哀れみたくなった。クモの巣がかかった、広大すぎる屋根裏である。
とはいえ、生前の自分の住まいも大差のない、ボロではなかったか。むしろ、ここのほうがまだ立派ではないか。
しかし、眠たかった。
お疲れなのだ。
だが、これは何かをなした後に特有の、心地よい疲れだった。主に、あごが疲れた。ガリガリガリと、ニセガネをよくかじったものだ。
ねずみはしばし瞳を閉じたまま、眠りの余韻を味わう。どうせ起きねばならぬのだと、ねずみの思考は動き始めていた。屋敷に住まう紳士であれば、本日の予定を頭の中で確認をするところであろう。
自らの役割はなんだろうと、ニセガネの顔を思い出す。かじられ、片方の耳がかけた、情けない銀貨のお姿を思い出す。
ねずみは、起きねばと、柔らかな
そして、背伸びを一つ。
「ちゅぅ~………」
だらしなく声が漏れたが、許して欲しい。
ねずみらしく、
ちょうどよい小さなシーツがあったので、
恐れ知らずに、ご家族の衣類を盗んだのではない。初夏の風に吹かれていた洗濯物から、すっと飛び立った一枚の布切れを発見したのだ。
動物のキャラクターが
持ち主に心でわびながら、自分はねずみなのだと、開き直ってもいた。
それに、ここはお屋敷なのだ。ハンカチの一枚を失ったとしても、何も問題はないだろうと。
今は、優先すべきことがあった。
食事である。
「ちゅ?」
ねずみは、操られるように歩みを進める。
呼ばれているのだ。
おいしい匂いが、漂ってくるのだ。眠っている間に食事の用意がされていたのか、そうと勘違いするほどに自然に、ねずみはすたすたと歩を進める。
においは、下から来ていた。
天井裏なのだ、匂いが下から来るのは、当然である。お呼ばれをされたわけではないのだが、当然のように、ねずみは歩みを進める。広々としたベッドルームから足を踏み出した。
“結界”を、またいだ。
無意識のことである。ネズリーは、己の爪で傷つけた自称ベッドルームの範囲を決めた線を踏まないように、またいだのだ。
とたんに、何かがカサカサカサ――と、目の前を横切った。ねずみと、どちらが嫌われ者なのか、黒い影であった。
『G』と、近年では呼ばれているようだ。
野生のねずみであれば、食料がやってきたと、追いかける状況である。しかし、ねずみの心は、紳士であった。見なかったことにして冷静を装い、歩を進めた。
ここで悲鳴でも上げればどうなるか、足元から刃が現れても、驚かない。昨日は弓矢が、サーベルが、斧が
思い出し、身震いをした。
己がいつ殺されても不思議ではない、恐怖の屋敷にいるのだ。
そして、思い出させてくれる。
おいしそうな匂いが、食事の時間だと、呼んでいた。
気持ちを入れ替えると、ささっと階段のない、下り道に到達する。下り道というか、直角真下の、崖だった。
苦もなく下ることが出来るのは、さすがはねずみである。とても身軽になったと、自分はどこか超人になった
匂いの元まで、あと少しだった。
ねずみにとっては、天井が見えないほど広大なる薄暗い通路を進むと、木漏れ日が、まぶたをなぞる。
空気孔のおかげでうっすらと光があるのだが、まぶしいほどだ。
まるで、刃で開けられたような木漏れ日が教えてくれる。ここは昨夜のお茶会が行われたテラスにつながるリビングルームである。
匂いは、その向こうからただよっていた。
机によってうがたれた大穴から、そっと外を見る。如何にねずみが手のひらの上に乗るほど小さくとも、サーベルや弓矢、斧の空けた
料理が、用意されていた。
量からして、ねずみのために用意されたものらしかった。小皿に、山盛りになっていた。
感激した。
そうか、分かってくれていたのかと。
だいぶ、空腹のようだ。ねずみから冷静な思考は、吹き飛んでいた。わざとらしく、壁の隙間から、匂いが漂うように配置されていたというのに、警戒心など皆無であった。このまま食欲に任せ、野生のねずみよろしく、タタタタタと、壁から這い出し、小皿にまっしぐらでもおかしくはない。
しかし、心は紳士のねずみである。まずは二足歩行に切り替え、衣服ではあるまいに、腹をパンパンと叩いて、ホコリを落とした。
紳士として、汚れた身なりで人前に出るべきではない。そんな気分で、静かにうがたれた穴から、顔をのぞかせた。
やぁ、皆様、おはようございます。
ねずみは告げた。
「ちゅう~」
誰もいないことは、
にもかかわらず、後ろ足で立ち上がり、紳士を気取って身なりを整えたのは、ひとえに屋敷の人々に対する敬意からである。
例え目の前にいなくとも、常に紳士であるべきだと、それがネズリーと言うねずみの持つプライドである。
一歩、足を踏み出す。
と、頭上の変化に気付いた。
やぁ、みなさん。
そんなつもりで、
お茶会にまで連れてきていた、可愛らしい女の小型のお人形さんではない。フリルはおそろいのスカートがふわりと舞って可愛らしかったが、そうではない。あの小さなお手々に握られていた品が、他にあるのだ。
頭上でギラリと、輝いていた。
分厚く幅広い
これはまるで、そう………アレである。
「………ちゅ………ちゅ………ちゅう!?」
ギロチンが、用意されていた。
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