かわいそうな子

夢月七海

かわいそうな子


 巣を張り巡らせて、獲物を待つ蜘蛛のようなものだと、その男は自らの行為を密かにそう例えていた。


 彼は以前、出会い系サイトに「イエロウ」というハンドルネームで登録した。しかし、自ら相手を探すことはしない。最低限のプロフィールを公開し、あとは放置している。

 約一年経った頃、「イエロウ」のページに、メッセージが一件届いた。「なこ」というハンドルネームの女性からだった。彼女のアイコンは、髪をバレッタでまとめた横顔が、青空を背景に逆光で陰になっているというものだ。


『初めまして。私も、『雪道にて』が好きです』


 「なこ」が反応したのは、男が書いたプロフィールの好きな映画の欄だった。ここでは嘘をついてはいない。

 これをきっかけに、「イエロウ」は「なこ」と会話のやり取りを開始した。二人の共通項は、映画の『雪道にて』のみだったが、「イエロウ」のどんな話にも、「なこ」は興味を示してくれた。


 一カ月以上、二人のやり取りは続いた。男にとっては、最もじれったい時期だが、ここは我慢の時期だった。

 想像するのは、自身が作った巣の真ん中に陣取る蜘蛛の姿だ。目の前で、ひらひらと優雅に舞う蝶が、この巣にかかるのを待ち構える。


『近いうちに、お会いしませんか?』


 「なこ」からそんなメッセージが届いた瞬間、男はほくそ笑んだ。だが、ここで欲を出すと、仕留めそこなうことも多い。

 「イエロウ」から送るメッセージは、『いつにしますか?』『場所はなこさんに任せますよ』と、あくまで相手に主導権を握らせる言葉のみだ。ここからまた数日が過ぎ、やっと「イエロウ」と「なこ」の初対面の日時が決まった。


「……あの、……初めまして。……なこ、と言います……」


 駅前で、「イエロウ」の前に現れたのは、緑のチャックのロングスカートに、襟と袖が黒いブラウスを着た女性だった。身長は百六十センチよりも低く、手足も華奢だ。大きな目をしていたが、ずっと伏せていて、最初の挨拶の時も男と合わそうとしない。

 ルリシジミのような女だというのが、「なこ」への第一印象だった。閉じた羽は灰色だが、それを開くと鮮やかな瑠璃色を隠し持っている、とても小さな蝶を男は思い浮かべた。


 二人は、連れ立って近くのイタリアンレストランへ入った。その間も、注文した料理を口にしてからも、「なこ」は終始おどおどとしていた。

 サイト上のやり取りから受ける印象とは全く異なる「なこ」の様子に、男は最初、人見知りなんだろうなと思っていた。しかし、顔を合わせてから一時間近くなっても、「なこ」との会話が全く弾まないので、「イエロウ」は当たり障りのない話題を出した。


「なこさんのハンドルネームの由来は何ですか?」

「……あの、本名とは、全く関係ないんです……」


 オレンジジュースに入ったストローをいじりながら、困ったように「なこ」は俯き加減に答えた。歯の部分が互い違いになったバレッタから、数本の髪の毛が零れ落ちて、下を向いている。


「……小さい頃から……よく、両親から、『あなたはかわいそうな子ね』と言われていました……。それで……、『なこ』っていう、ハンドルネームにしたんです……」

「はあ、そうなんですか」


 思いもよらぬ告白に、男は珍しく当惑していた。こういうのは、精神的虐待というのではないだろうか? とすら思う。

 恥ずかしそうに頬を赤く染めている所を見ると当人は、虐待だと微塵も思っていないらしい。……彼女の人生を思うと、爪の先程だが、「なこ」に対する同情心が芽生えた。


 レストランを出た後は、「なこ」の希望で水族館へ行くことになっていた。「イエロウ」の愛車に二人で乗って出発する。

 道中、ぽつぽつと会話していたが、途中から「なこ」が眠たそうにしてきた。オレンジジュースに混ぜて飲ませた睡眠薬が効いてきたので、「着いたら起こすよ」と声を掛けると、「なこ」は安心したように目を閉じた。


 男の車は、水族館とは正反対の方向、山の中へと向かう。男がここに来るのは、約一年ぶりだった。

 車一台分の細い山道を分け入り、決して誰も来ない中腹で停車する。後部座席にずっと置いていた肩掛け鞄を持ち、男は助手席ですっかり眠りこけている「なこ」を抱き上げて、さらに山の奥へと進んでいく。


 これで四人目かと、男は振り返る。全ての女性の容姿までは覚え出せないが、彼女たちの印象を、男は蝶に当て嵌めている。

 一人目は、カラスアゲハのような女、二人目はモンシロチョウのような女、三人目はオオムラサキのような女だった。


 これまでと同じ大きな木の根元へ、「なこ」を仰向けに置く。すやすやと寝息を立てる「なこ」の姿を、スマホで一枚の写真に収めた。

 男は、「なこ」の上から下を改めて眺める。肩から下がった鞄の紐が、その小さな胸を強調させている。しかし、彼がそれ以上に興味を抱いたのは、頑ななロングスカートの中だった。


 地面の苔と同調する、そのロングスカートをゆっくりと捲る。「なこ」はベージュ色のタイツを履いていた。タイツを脱がそうと、男は手を伸ばす。額からは汗が滲み、息は勝手に荒くなる。

 ザクッと、右肩に何かが刺さったのは、その時だった。


 「ああっ」と短い声を出して、男は後ろへ仰け反った。「なこ」は、ぱっちりと目を開けて、無表情で彼を見つめていた。

 咄嗟に、肩に刺さったものを取るとそれは、「なこ」のバレッタだった。しかし、まだ痛みが引かない。手を伸ばすと、細かい棘のようなものが残っているが、必死に引っ張っても取れない。


「……無駄ですよ。釣り針のように、返しが付いていますから……」


 腰を抜かしたように座り込んだ男に向かって、「なこ」と名乗った女は静かに言いながら近づいてきた。


「……加えて、毒が塗っていますからね。……体は痺れますが、頭は反対に冴えてくるのです。悪趣味ですよね……あ、私が作ったわけではありませんよ?」


 女が言う通り、男の体はうまく動けなくなってきた。今は、片手すら挙げられない。

 男は、これまでとは正反対に、自分に対して真正面から視線を注ぐ女に向かって、口を開いた。


「な、なん、で……」

「なんで、ですか……。それは、どうして、薬が効かなかったのか? 自分の目的に気付いていたのか? のどちらとも、でしょうね。順を追って説明しましょう……その前に」


 女は、鞄の中からタオルを取り出し、男の口にくわえさせ、後頭部で結んだ。男はこれで、はっきりとは喋れない。


「……舌を噛み切られたら、困りますからね。まあ、そうなっても、対処法はありますが……」


 そう言いながら、女は男の鞄の中を物色し始めた。そこから、レインコートを見つけて、広げる。


「やっぱり持っていましたね。お借りしますよ」


 レインコートを羽織った女は、自分の鞄から、ゴムのチューブを一本取り出す。


「片手間での説明、失礼します……」


 チューブは、男の右手首を強く縛った。まるで、注射の前に血の流れを止めるかのように。


「……ええと、あなたのことは、最初から知っていたんです。何を目的に、あのサイトに登録しているのか、も。きっかけは、あなたが一年前に殺した女性です。彼女の両親がとある探偵に娘の捜索を依頼しました」


 女は、右手首と同じように、男の左手首と両足首をチューブで縛る。


「探偵は、非合法な手段も使って、警察も知らなかったあなたの犯行を突き止めました。娘があなたにレイプされた上に惨殺されたことを知った両親に、探偵は持ちかけました……『この男に復讐しないか』と。両親はもちろんそれを依頼しました。そして、私が囮兼復讐の代理人として、あなたに近付いたのです」


 女が次に鞄から取り出したのは、白い布に包まれた何かだった。その布を巻き取ると、中から出刃包丁が現れた。


「私のことは……まあ、有り体に言えば、殺し屋です。探偵と契約していて、時々仕事を貰います。今回の仕事は、あなたに、娘よりも苦しませて殺してほしいというものです」


 出刃包丁が、男の真っ白になった掌に刺さった。意外にも出血は少なかったが、あまりの痛みに、男は言葉にならない悲鳴をあげて悶絶するが、逃れられない。


「あなたの目的と手段は分かっていました。ジュースは、あとでこっそり吐き出しました。睡眠薬は多少機能していて、眠気はありますが、仕事に支障はありません」


 男の掌の輪郭を、出刃包丁がなぞる。掌の皮膚一枚を、女は魚の皮のように、丁寧に剝がしていく。


「……こうして、肉の部分を見ると、人間も動物なんだなぁって思いますね」


 一本ずつ、女は男の掌の筋を切り取る。想像を絶するような痛みに、男の脳は焼き切れそうだった。


「……ああ、あなたに話したのは、全て嘘ですが、一つだけ、本当のことがあります」


 肉が無くなった掌の上、骨が見えている。女は同じように、小指の解体を始める。


「両親から、『かわいそうな子』と呼ばれたのは、本当です……。いつもずっと、心配されていました……。人の痛みが分からない、かわいそうな子だと」


 爪もあっさりと剥がして、男の小指は、軟骨でかろうじて繋がっている骨だけになった。


「両親が亡くなってから、私は坂を転げ落ちるかのように、裏社会に入っていきました……。その経緯は退屈なので省略しますが、気が付けば、殺し屋です。人生、どうなるか分かりませんね……」


 痛みのあまり、混乱する男の脳は、子供の頃に読んだ虫の図鑑を思い出していた。他の虫を喰らう蜘蛛にも、天敵がいる。それは、空から襲ってくる鳥なのだと。

 自分が蜘蛛だとすれば、まさしくこの女は鳥だ。次元が違う。人を痛みつけることに対して、快楽も優越感も抱かず、ただ淡々と行っている。


「さあ、中指まで終わりました。あと、右手の半分と、左手と両足ですね」


 初めて、女が男に向かって笑った。その可愛らしい笑顔に、男はこの先の地獄を思い、絶望するしか出来なかった。


























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かわいそうな子 夢月七海 @yumetuki-773

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