ケンカ
「誰かさんの帰りが遅すぎて、待ち疲れちゃったね。ねぇ、クマちゃん。お腹すいたから、ご飯、食べちゃいましょ。」
目の前にいる俺には目もくれず、沙也はクマのぬいぐるみを抱き上げると、テーブルへと向かう。
(・・・・沙也・・・・)
怒られたり。泣かれたり。
そんなことを想定していた俺には、思いも寄らない展開だった。
怒るのも、泣くのも。
もしかしたら、呆れる事すら通り越してしまうくらいに、沙也は自分の帰りを待ちわびていたに違いない。
誕生日も、クリスマスも、バレンタインデーもホワイトデーも。
いつでも待たせてばかりだったが、今日は・・・・いや、日付が変わる前日、昨日はそれらのどの日よりも、2人にとっては大切な日だったのだから。
そう、昨日は。
初めての、結婚記念日。
(参ったな・・・・)
為すすべも無く、花束を手にしたままその場に立ちつくす俺をよそに、沙也はぬいぐるみを椅子のひとつに座らせて、まるで会話でもしているかのように話しかける。
「じゃ、私お料理温め直してくるから、クマちゃんはおとなしくここで待ってるのよ?いい?お腹すいたからって、ツマミ食いしちゃ、ダメよ?まったく、ね。誰かさんが遅いから、せっかくのお料理もすっかり冷めちゃった。頑張って作ったから、ほんとうはできたて、食べてもらいたかったんだけどな・・・・」
言葉の最後は消えてしまいそうなほどにか細く、ぬいぐるみに見せている笑顔も、痛々しいほどに儚い。
涙を堪えているのか、両肩は細かに震えていて・・・・
溜まらずに、花束をその場に落として抱きしめようと伸ばした俺の腕の先で、沙也は笑みを消して呟いた。
「用意があるから、座って待っててください。」
抑揚の無い、突き放すような声。
「沙也・・・・」
行き場を失った腕を重力に任せて降ろし、俺はガックリと肩を落とした。
(今度という今度は、もうダメかもしれないな・・・・・)
フラフラと倒れるように、ぬいぐるみの隣の椅子に腰を下ろす俺の向かい側で、沙也はひとつ、またひとつと料理の乗った皿を持って行っては、湯気の立った皿を持ち帰り、テーブルの上に並べ直す。
「はーい、クマちゃん、お待たせ!それじゃ、食べよっか。」
「あ、あのな、沙也・・・・」
「ひどいんだよ、クマちゃん。聞いてくれる?」
俺の斜め向かい側に座った沙也が話しかけるのは、俺の傍らに座るクマのぬいぐるみのみ。
まるで、俺なんてそこにはいないかのように。
「あのね、お仕事が忙しいのは分かってるの。だから、しょうがないかなって、思うんだけど。でも、今日くらいは早く帰って来て欲しかったの。だって、初めての結婚記念日だったんだもん・・・だから、お料理だって頑張って、彼の好きなものたくさん作ったのに・・・・」
沙也が話しかけているのは、確かにクマのぬいぐるみ。
だが、その言葉は全て、俺への言葉。
沙也の一言一言が重く胸にのしかかり、居たたまれない思いで顔を上げた俺に、沙也はようやく目を向けた。
(沙也・・・・いいんだ、言いたい事全部言ってくれて。そんな、ぬいぐるみになんて言わないで、直接俺に言ってくれ。)
蛍光灯の明かりの下、ようやく正面から向かい合う事ができた沙也の頬には、涙の跡がうっすらと見え、いつもはクッキリしたきれいな二重まぶたも、わずかながらに腫れていて。
(あ~、また泣かせてしまったのか・・・・)
無言のまま訴えかけてくる沙也の瞳に、たまらず俺は頭を下げた。
「ごめん・・・・ほんとうに、ごめんっ!この通り、反省してます・・・・でも、約束忘れてた訳じゃないんだ。どうしようも無かったんだ・・・・って言っても、言い訳にしかならないけど・・・・」
「もう、いいの。」
「えっ・・・・」
「また冷めちゃうから、食べて。」
諦めとも取れる、淋しそうな沙也の笑顔が、何ともやりきれず。
黙ったまま、俺は目の前の料理を口に運んだ。
(うま・・・・)
一口食べて、それだけで自然と顔がほころぶ。
付き合いたての頃は、塩加減、甘さ加減を間違うのはしょっちゅうのこと、調味料自体を入れ間違う事もしばしばで、さすがの俺も思わず顔をしかめてしまう事が何度もあったが、沙也はめげることなく努力を重ねた。
俺の為にと。
おかげで、料理の腕は日毎に上達し、今では店でも開けるのではないかと思うほどだ。
(すげぇ、うまい・・・・)
おいしい料理は、人の心を和ませ、幸せな気分にさせると言う。
ましてや、それが愛情のたっぷりこもった料理であるなら、尚のこと。
「また、料理の腕上げたな。」
ほんのひととき、自分の置かれている状況も忘れ、俺は満たされた気持ちで次々と目の前の皿を空にしていった。
そんな俺の姿に、ようやく沙也の顔にも柔らかな笑顔が浮かぶ。
「良かった、頑張って作って。」
「沙也・・・・。」
未だ涙目のままの沙也が、ようやく俺にはにかんだ笑顔を見せてくれた時。
スーツの胸ポケットに入れたままのスマホが、無遠慮な着信音を鳴り響かせた。
(っ、なんだよこんな時にっ!)
同時に、沙也の顔から、一瞬にして笑みが消えた。
慌ててスマホを取り出し、液晶画面の表示を見てみれば、それは会社からの電話。
「ごめんな・・・・」
そのまま切る訳にもいかず、ひとつ溜息をつくと、俺は立ち上がってテーブルから少し離れ、沙也に背を向ける格好で電話に出た。
「はい。」
-夜分に申し訳ございません-
ややあって聞こえてきたのは、かなりの緊張感がうかがえる、年の若そうな男の声。恐縮しきりのその声に、きっと深夜シフトの新入社員なのだろうと、俺はできるだけ穏やかに話しかけた。
「構わない。で、何かあったのか?」
会社の得意先は、世界各国に点在している。
当然の事ながら時差もあるため、会社は基本的に24時間体制。
とは言え、こんな深夜にわざわざ電話がかかって来る事など滅多に無い事で、沙也の様子を気にかけながらも、同じくらい仕事の事が気になってしまう。
「いえ、特に何か起こった訳では無いのですが、実は海外のお客様から、本日朝一番のフライトでそちらに伺いたいというお電話があり、至急でアポイントを求められまして・・・・もう時間も迫っておりますもので、無礼を承知でお電話差し上げた次第でして・・・・」
(・・・・まったく、こんな時に限って。)
何事も無い。
その事実には安心しつつも、やり場の無い苛立ちに、俺はこめかみを強く押さえた。
何でこんな時に!
出来る事なら、怒鳴りつけてやりたい気分だった。
だが、電話の向こうの相手を怒鳴りつけるなど、お門違いもいい所だし、客は大切にしなければならない相手だ。
客先の意向をきちんと伝えてきたこの社員を、褒めこそすれ、怒る事などできはしない。
「そうか、わかった。連絡ありがとう。では、アポイントを入れておいてくれて構わない。確か午前中は何の予定も無かったはずだ。」
-はいっ、わかりました!-
(・・・・明日の朝はゆっくりするつもりで、アポ入れてなかったんだけどな・・・・)
計画は、ひとつ崩れてしまうと、雪崩のように次から次へと崩れてしまう。
今の時点で、当初の計画など既に跡形も無く崩れてはいたのだが、たった今、最後の「望み」とも言える計画まで突き崩されて、俺は絶望的な気分で、仏滅かと思うほどの一日を思い出していた。
一番頭を悩まされた、話好きな老人と。
その後、焦る心をやっとの思いで抑えながら応対した、最後の商談相手だったあの女性。
涙の跡の残る沙也の淋しげな笑顔と、仕事との間で、俺の心は大きく揺れた。
(もう何度、泣かせてしまっただろうか。あと何回、泣かせてしまうだろうか。もう、だめだ、俺。こんな事なら、仕事なんて全部放り出して・・・・)
-・・・・でお願いします!あれっ?聞こえてますか?-
スマホから、返答の無い俺に、怪訝そうに何度も呼びかける社員の声。
(何だか、何もかもイヤになるな・・・・)
手に持ったスマホごとゆっくり腕を降ろしながら溜息をついた時。
ふと浮かんだのは、あの話好きな老人と、それから、あの女性の言葉だった。
『こうして、笑いながら話ができるのは、今の私には君くらいなものでね。』
『あのように楽しそうにお笑いになってらっしゃるのは、初めて拝見しました。』
『それは、素敵なご趣味ですね。』
(いかんっ!こんなことでヘコんでる場合じゃないっ!)
沙也のことも。
仕事のことも。
時々全て、投げ出したくなる時がある。
でも、俺だって本当は、イヤという程分かっているのだ。
全てを投げ出す事など、自分に出来るはずがない。
だからと言って、片方だけを選ぶという事もまた、不可能。
何故なら。
沙也も仕事も。
沙也を想う気持ちも、仕事にかける情熱も。
沙也の笑顔も、お客さん達の笑顔も。
較べることなど、できはしない。
両方とも、守るべき大切なもの。
(何とかしなくちゃな、両方とも。中途半端が、一番ダメだ。)
-・・・・かされたんですかっ!-
力の抜けかけていた手でスマホを握り直し、再び耳元へと運んで、俺は言った。
「あぁ、すまない。何でもない、大丈夫だ。それより、その客と連絡がついたら、ついでにもう1つ頼まれてくれないか?いや、大した事じゃない。今日の・・・・あぁ、もう昨日か、昨日の俺の最後の客、何て言ってたかな、あの女性。俺のデスクの上に確か名刺が・・・・そう、そうだ、その人だ。悪いけど、朝一番に連絡を取って、アポを入れておいてくれないか?できれば、昼食時間帯を挟む形で。もう一度詳しい話を聞かせて欲しいと。」
(この程度で自信無くしてるようじゃ、俺もまだまだだな。こんなことだから、沙也だって・・・・)
電話を終え、スマホを胸ポケットにしまう俺の顔に浮かんでいたのは、自分自身へ向けた苦笑い。
しっかりしろ。
一言、自分に言い聞かせるように小さく呟き、俺は振り返った。
(言えば、わかる。ちゃんと説明すれば、彼女だって分かってくれる。俺が彼女を想う気持ちは本物だし、沙也だって俺のことを、本気で想ってくれている。これくらいの事でどうこうなるような関係じゃ無いんだ。沙也と俺は。)
「あのな、沙也。実は今日、いや昨日・・・・」
「『あの女性』って、誰?」
「へっ・・・・?」
「今日の・・・・昨日の最後のお客さん、女性だったんだ。」
言葉尻に含まれる、微かな非難の響き。
沙也は無表情のままではあったが、俺の脳裏を、嫌な予感が掠めた。
(まさか、沙也・・・・?)
「朝一番に、連絡するんだ。私には、何の連絡もくれないのに。遅くなるならなるで、連絡くらいくれてもいいのに・・・・」
(・・・・ビンゴか。)
うつむき、沙也は視線を落とした。
細い肩が抱えているのは、俺にしてみればあまりにも幼い【嫉妬】という感情。
それでも。
俺に、沙也を笑うことはできなかった。
そんな感情を彼女に抱かせてしまったのは、他ならぬ自分。
それに。
その感情だって、元はと言えば、沙也の、俺を想う気持ち故の副産物なのだから。
「違う違う、彼女は本当に、ただのお客さんだ。ただ、昨日は別件が長引いてさんざん待たせた挙げ句に失礼な事をしてしまったから、早いとこまた約束を取り付けて、挽回しなくちゃならないんだ。それだけの事だ。・・・・でも、ごめんな。そうだよな、電話の一本でも入れるべきだった。俺、早く仕事終わらせる事ばっかりに気を取られて、大事な事に気付いてなかった・・・・」
「もう・・・・知らないっ!」
大きな音を立てて立ち上がり、沙也が小走りに向かったのは、俺たちの寝室。
両手で顔を覆ってはいたものの、指の間からわずかにのぞく彼女の頬が涙で濡れていたのを、俺は見逃さなかった。
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