となりでねむらせて
平 遊
遅刻
「・・・・ということでな。そうそう、その例の件だが・・・・」
「あぁ、あの件ですね!あれでしたら、先日・・・・」
延々と、止むことのない話に調子を合わせながらも、俺は内心頭を抱えていた。
かれこれもう、3時間以上は喋っているのではないだろうか?
今もまた、新たな話題を思い出し、楽しげに話を続けている相手は、大切な取引先の1人ではあるのだが、仕事の話などとうに終わっているのだ。
アポイントのある他の取引相手も、もう随分と待たせてしまっている。
それでも。
さっさと話を切り上げて、喋り続ける相手を追い返すことの出来ない理由が、俺にはあった。
『こうして、笑いながら話ができるのは、今の私には君くらいなものでね。』
いつの折りだったか。
寂しそうな表情を浮かべて俺にそう告げた老人こそが、今なお一向に終わる気配の無い雑談を、楽しそうに話している相手。
(参ったな・・・・)
次の相手を待たせている事への焦りももちろんあるのだが、それ以上に、俺を焦らせていたもの。
それは。
愛してやまない年下の可愛い新妻、沙也との約束だった。
『今日は絶対に早く帰って来てね。たくさんお料理作って待ってるから!』
言葉と共に、行ってらっしゃいのキスで送り出され、
何があっても、今日は絶対に早く帰ってやる!
と固く心に誓ったのは、つい15時間ほど前の事。
だが。
「それでは、次の件に移らせていただきます。・・・・あの、宜しいですか?」
「えっ?あ、あぁ、申し訳ない。お願いします。」
予定の時間を軽く3時間以上もオーバーして、やっと最後の打ち合わせに辿り着いたのは、満月が頂上に差し掛かる手前頃。
(仕事は仕事だ。きっちりしないと。)
そう思って、相手の話に集中しようとはするものの、俺は壁に掛かった時計が気になって仕方が無かった。
「・・・・以上です。今回は、ポイント部分だけ説明させていただきましたので、詳しくはこちらの資料をご覧になっていただければと思います。もしご不明な点がございましたら、メールでもお電話でも結構ですので、私宛にご連絡ください。」
キビキビとした無駄の無い動作で、本日最後の商談相手-長い髪を後ろで1つに束ねたその若い女性は、手早く資料をまとめいる。
それも仕事のうち、とは言え、約束した時間から4時間近く待たされたというのに、嫌な顔、疲れた顔ひとつ見せず、的確にポイントを押さえたプレゼンをこなすその女性に、俺は頭が下がる思いだった。
「本日は大変お待たせしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。」
「いえ、お気になさらず。」
何でもない事のように笑いながら、彼女は言う。
「それよりも。私、驚いてしまいましたわ。あの、先ほどの方、取引先で何度かお会いした事はあるのですが、あのように楽しそうにお笑いになってらっしゃるのは、初めて拝見しました。」
「まぁ、人を笑わせるのは、私の趣味みたいなものですから。」
「それは、素敵なご趣味ですね。」
柔らかい笑顔をひとつ浮かべると、女性は俺に向かって深く頭を下げ、
「本日はお時間をいただき、どうもありがとうございました。」
と、応接室から出て行った。
「ふぅ・・・・。」
人気の無くなった、会社のフロア。
デスクの椅子に身を預けながら、俺は今しがたの女性の名刺をぼんやりと眺める。
あの老人が笑っているのを、初めて見た。
女性の言葉が唯一、俺の心を慰めた。
(ごめんな、沙也。でも俺・・・・)
壁の時計は、既に日付が変わった事実を、冷静に俺に突きつける。
(もう、寝てしまっただろうか・・・・)
きっと沙也は、俺の帰りを楽しみに待っていてくれただろう。少なくとも、暫くの間は。
それでも、待たせてしまうには、あまりに長過ぎる時間だ。寝てしまっていても、おかしくはない。
大きなため息とともに瞳を閉じ・・・・
次の瞬間、俺は会社を飛び出していた。
「悪いけど、もうちょっと飛ばしてもらえないだろうか・・・・」
無理は承知の上。
でも、言わずにはいられなかった。
「申し訳無いですが、これ以上は・・・・」
「ですよね、すみません、無茶を言ってしまって。」
「いえ、出来るだけ急ぎますので。」
これ以上は無いという程に焦りをつのらせる俺の姿を、後ろから追いかけてくるように付いてくる満月が、青白い光で照らし出す。
深夜の高速道路を、おそらく制限速度を超えたスピードで走り抜けるタクシーの中。
ひっきり無しに腕時計を確認しては、落胆を繰り返す俺の傍らには、大きなバラの花束があった。
仕事の空き時間に用意しておいたものだ。
予定通りに事が運んでいたならば、今頃は沙也の手で花瓶に生けられ、食卓テーブルに彩りを添えていたはずのその花束も、暗がりのせいなのか、それとも、あまりに長過ぎる時間が経過してしまったせいなのか、どことなく萎れているように見える。
「お客さん、もしかしてデートの約束にでも遅刻しそうなんですか?」
人好きのする、だいぶ年輩のタクシーの運転手の問いに、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「ははっ・・・・やっぱり、分かりますか?実はその通りなんです。遅刻も遅刻、大遅刻・・・・」
「まぁまぁ、そう気を落とさずに。もうじき着きますから。」
はぁ・・・・と、盛大な溜息をつく俺をバックミラー越しに見ながら、運転手がアクセルを踏み込んだとたん。
体が宙に浮くような感覚に、ハッとして俺は運転手の背中を見た。
「仕事とは言え、私も昔は随分と女房を泣かせたものでしてね。会社勤めの頃の話ですが。」
前方の信号機は、青から黄色。そして、赤へ。
その直前で加速させて交差点を走り抜けるタクシーの中、運転手はバックミラー越しに、俺に笑いかけた。
「余計なお世話かもしれませんが、今日はいつも以上に、彼女を大事にしてあげないといけませんねぇ。」
「・・・・そう、ですね・・・・。」
「まぁ、男の辛いところですがね。」
「えっ?」
キキッというブレーキ音と共に、タクシーが停止し、運転手が振り返る。
「彼女も仕事も、男にとってはどちらも大事なものですからねぇ・・・・お客さん、領収書はどうしますか?」
「あ、あぁ・・・・結構です。では、これで。あ、お釣りはどうぞ。無茶聞いてくださって、ありがとうございました。」
「いや、かえってすいませんねぇ。それじゃ、お客さん、頑張って。」
走り去るタクシーを背に、俺は花束を抱え直し、玄関へと向かう。
(ほんとうに、その通りなんだけど・・・・)
スーツのポケットからカギを取り出し、音を立てないよう静かに開錠しながら、俺は思った。
(愛と仕事なんて、較べられないんだ。でも・・・・)
忍び込むように中へと滑り込んだ部屋は、電気もテレビも付いたまま。
胸に、強い痛みが走った。
もう何度も感じている、いつもの痛み。
「沙也・・・・」
テーブルには、所せましと並べられた料理の数々。
そして。
数時間前にはきっと、ウキウキしながら一生懸命に腕を振るって料理を作っていただろう沙也は、テレビを前に、大きなクマのぬいぐるみを抱きしめて、ソファで眠っていた。
(ダメだなぁ、ほんと俺・・・・)
沙也の手に握られていたリモコンを取り上げ、テレビを消しながら、俺は自責の念に溜息をつく。
(愛と仕事なんて較べられない、なんて・・・・男の都合のいい弁解なのかもな。そんな言い訳をする奴は、みんな結局仕事を優先させてるもんな・・・・)
んっ・・・・、と軽く身じろぎ、沙也の瞳がうっすらと開く。
「ただいま、沙也。はい、お土産。」
寝ぼけ眼の愛しい新妻に、俺は花束を差し出す。
俺の前で、ゆっくりと開かれた沙也の瞳は、徐々に焦点を合わせて俺の姿をとらえ・・・・
「ごめんな、遅くなって。」
やがて、ふぃっと逸らされた。
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