蒙昧お嬢さま 下
元々、彼女の周りにはたくさんの人がいた。
幼いころから、財界でのパーティーなどに頻繁に出席していた両親につられて顔を出したものだった。
色々な人を見てきた彼女は次第に村上財閥の令嬢としての対処の仕方を自然と会得していった。
朗らかで気さくな人、明るいけどどこか卑屈な人、傲慢で利己的な人、確かに多様な人達だったが、村上財閥を目の前にして自分をそのまま出せる人はいなかった。
大抵はへりくだったり、ごまをすったり、村上家の次期当主欲しさに私に色目を使う者もいた。
高校生になり、普通の高校に入ってからもそれは変わらなかった。
殆どの者が、村上財閥と聞いた途端に目の色が急変した。
豪大な力を前に委縮し離れていくもの、その力のお零れにありつこうと寄ってくるもの、自分のステータスの飾りとして彼女を手に入れようとするものまでいた。
しかしそのいずれとして彼女からすれば当たり前のことであり、胸に響くところではなかった。
詰まるところ彼女は村上裕子であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
今現在の地位は全て彼女の両親、祖父母と続く家系の血の滲むような努力の結果が幸運にも実っただけであり、それは彼女がちやほやされる原因にはなりえない。
そういう虎の威を借る狐の状態にいい加減うんざりしていたころに彼と出会った。
最初はただ村上家に関わりたくない、そういうタイプの人間だと思っていた。
クラスメイトの話すところによれば彼の家庭は非常に貧しく、家庭を支えているのは彼のバイト代だけだということだった。
その時、彼女は彼に少し意地悪したくなった。
つまらない退屈な日常に少量の変化が欲しかったのかもしれない。
兎にも角にもあの時の彼女には彼に対する悪戯心が芽を出していたのは間違いない。
「ねぇ、そこの君」
放課後、すぐに席を立つ彼に駆け寄った私は彼を呼び止めようと口を開く。
「・・・・」
「・・・聞こえているのかい?君だよ君、田中君だっけ?」
「・・あっ、俺か」
呆れたことに彼は学校では授業で当てられた時以外喋らないので自分が話しかけられていることに気が付かなかったらしい。
内心大丈夫かと思いながら彼女は本題を切り出す。
「君と少し話がしたくてね、今少し時間はあるかい?」
「ない、じゃあな」
「・・・ちょ、ちょっとまって!」
「なんだ?」
踵を返し立ち去ろうとする彼を彼女は一瞬ぽかんとした顔になったが慌てて引き留める。
対する彼は真顔のまま首を傾げる。
(ふつう少しは迷ったりするだろ!こっちは世界を牛耳る財閥だぞ)
寧ろ清々しいほどに誘いを一蹴した彼に若干の驚きと怒りを感じながら彼女は続ける。
「さっきも言ったけど少し君と話がしたいんだ」
「時間がないから無理だな」
「ほんの少しでもいいんだ。都内の高級レストランに予約を入れてあるんだ、だからお願いだ」
か細い声で瞳を潤ませながら上目遣いで彼を見る。
その様は男性の庇護欲を刺激するにはあまりにも十分すぎた。
これをされて彼女のお願いを断れる男など存在しない。
彼女は次に彼の口から出てくる言葉はイエスだと信じて疑わなかった。
最早この程度の処世術は彼女にとってはお茶の子さいさいだった。
しかし——
「すまん、無理だ」
ガラガラ、バタン。
たった一言だけを残し颯爽と教室を出ていく彼に彼女は開いた口が塞がらなかった。
(・・・・へ?)
紅が射す教室には馬鹿みたいな顔をした美少女一人がいるだけだった。
(あの田中ってやつ絶対に許さない!)
その後クラスの知り合いに彼の連絡先でもきこうと思ったが彼はスマホを持っていないらしい。
(スマホさえ持ってない貧乏人の不細工男め。明日会ったら覚えてろよ。)
散々悪態を胸中に吐き出しながら呼び出した高級車に乗り込む。
しかしそれからいくらたっても彼は彼女の願いに応じることはなかった。
手を変え、品を変え何とかバイトの虫と化している彼をバイトから引き離してやりたかったのだが結局無理だった。
「ねぇ、爺や結局今日もダメだったよ~」
肩にかかった雨粒を振り払いながら車に乗り込む。
「左様で御座いますか、それにしてもその田中様という方は実に幸運な方でいらっしゃいますね」
真っ白な髭と髭を綺麗に整えた彼女の専属の執事である初老の男性―爺や—は朗らかに笑みを浮かべる。
「なんで」
不満げに頬を膨らませながら彼女は爺やが渡してくれたふかふかのタオルで髪を拭く。
「それはもちろん、裕子お嬢さまと毎日お話しできるのですから」
「馬鹿言わないでよ、あいつはそんなこと考えるたまじゃないわ」
車が走り出しパツパツと窓ガラスに水滴が付く。
次から次へと風で押し流されていく小さな水の塊をダルそうに見ながら素っ気なく答える。
「ではほかに意中の方でもいらっしゃるのですか?」
「それはないと思うわ。だってあいつバイト馬鹿よ」
「バイト・・で御座いますか」
チラリとミラーで彼女の様子を見るとすぐに視線を前へと戻す。
「なんかすごい貧乏だからバイトしないと大変なんだって」
「なるほど・・・それでは田中様は非常に強い芯の持ち主なのですね」
「芯?」
思わず顔を前に向ける。
ミラー越しに爺やと一瞬目が合う。
「えぇ、お嬢さまのお誘いをあっさりとしかもここのところ毎日断っていらっしゃるのでしょう?」
「そ、そうだ」
恥ずかしさをかき消すように彼女は窓に目を向ける。
相変わらず雨足は強いままだった。
「なら、そうするだけの理由があると思いますよ。このおいぼれが言うのもなんですが、お嬢さまのお誘いをここまで断る男性などあまりいないように思われます」
(強い芯か・・・)
雨音だけが響く車内で彼女は片肘をついて流れる水滴をぼんやりと眺めていた。
「爺やはあるの?自分の核っていうか元気の源みたいなもの」
「それはもちろんありますとも」
「聞かせてくれる?」
「えぇ、構いませんよ」
彼女は執事が一体どういった事を言うのか内心ドギマギしながら見守っていた。
「お嬢様がのびやかにそして健やかに成長してくれることでしょうかね」
「え?」
彼女は拍子抜けたような様子を見せるがすぐに執事に聞き返す。
「そ、そんなことなの?」
「そんなことではございません。私にとってはとても大事なことです」
「・・・」
「どうかいたしましたか?」
「・・・もっと自分に関係することを言うのかと思った」
「お嬢様」
依然として相好を崩さない執事は視線を前に向けたままで口を開く。
「基本的に人というのはわが身を一番に考えるものです。しかし、時にはそうでない人もいるのですよ」
「そうなの?」
「えぇ、もちろんですとも。」
「自分のことは?自分のことはどうでもいいの?」
思わず身を乗り出して執事に尋ねる。
その彼女の様子に危ないですよと注意した後、元の席に座ったのを確認して口を開く。
「勿論自分のことも大事ですよ。ただそれ以上に守りたい愛する人がいるのです」
「・・・結構わがままなんだね、人って」
静かにそうつぶやく彼女に優しい口調で応える。
「そうですねぇ。わがままなのかもしれませんね。ただ——」
執事はハンドルを右に切りながら言葉をつなぐ。
「ただ?」
「私にはお嬢さまがあまりに控えめなようにも思えますが」
「!」
「さっ、着きましたよ、お嬢さま」
レバーを引き、車を止める。
自宅についたのだ。
「・・あ、あぁ」
それにと、執事は車のドアを開けながら彼女に語り掛ける。
「思うだけならタダで御座いますから」
いたずらな笑顔を見せながら執事は彼女から鞄を受け取る。
「・・・フッ、意地汚い男だ」
一瞬面食らった顔になった彼女だがすぐに表情を緩ませる。
「褒め言として受け取っておきます」
「あぁ、そうしてくれ」
そう言うと彼女は帰宅した。
傘は必要なかった。
ぴーんぽーん。
朝早くチャイムが鳴り彼は自宅の扉を開ける。
「・・・」
「待って!!お願いします。話を聞いてください」
必死の彼女の声も空しく容赦なく彼はドアを閉めた。
かちゃりと鍵を閉める無機質な音が彼女の耳を打つ。
そこからしばらく彼女は何か言っていたようだがすぐに静かになった。
しばらくして彼は夕飯の買い出しに行こうと外に出た。
「ッ!?」
そこには朝帰ったとばかり思っていた彼女が立っていた。
「あっ、やっと出てきてくれた」
「・・お前、ずっと待ってたのか」
「え、うん」
彼女の言葉を聞いた彼はしばらく黙って彼女を見つめていたが、おもむろに口を開く。
「・・公園で話を聞いてやる」
「ほんとかい!?聞いてくれるのか!?」
「さっさとしろ」
「わ、わかった」
喜色が混じった声で返事をした彼女は彼と共に近くの公園に来た。
昼に遊んでいた子供たちは姿を消し、時々公園に面した道路をチラホラと車や人が行き来するのが見受けられるだけだった。
夕日の影響で公園全体に深い影が落ちていた。
「で、話っていうのはなんだ」
2人はどことはなく立ち止まると彼が最初に話しかける。
「君に伝えたいことがあってきたんだ」
「内容は」
彼の声を聞くが早いが彼女はその場で膝を汚すことを全く気にすることなく正座した。
そこには真面目で真っ直ぐな表情が浮かんでおり、彼女の決心の固さが見て取れるようだった。
「ッ⁉」
これには彼も面食らってしまい彼女をただ見つめることしかできなかった。
緊迫とした空気が彼ら二人の間に流れる。
その空気の中彼女は続ける。
「君の母親に先ず謝らせてほしい。君の一番大切なものを土足で踏みにじってしまった」
そう言うと彼女は手をついて頭を下げた。
「お、おい」
「私は本当に馬鹿だった、君がどういう気持ちで毎日バイトや内職に励んでいるのか知ろうともしないで自分のことばっかりで——」
「・・・」
彼女は額を地につけたまま話し続ける。
思いが溢れ、そのまま言葉になっているようだった
「それに君にも謝らなければならない。私が金を持って君に謝罪に行ったときもそうだ。金を払えば許してくれるだろうという私の浅はかな考えもそうだが、君が一番大事にしてるものを馬鹿にしておいて金をやるから許してくれというのは君の母親とその思いに値段をつけたと同じことだ。本当に申し訳ないことをしたと思ってる」
「・・・」
「ここまでのことをしてしまった私だ。君が望むならこれから二度と口も利かないように努力するし、顔も合わせないようにする。絶交といわれても仕方ない。ただもし叶うなら君と母親を傷つけた私のことを許してほしい。君に君の中の最後の私は配慮のない最低の女だと思われながら生きていくのは辛くて辛くてたまらないんだ」
「・・・」
しばらくの沈黙の後、彼は静かにその重い口を開いた。
「とりあえず土下座を止めてくれ」
「ッ⁉あ、あぁ」
彼は彼女が起き上がるの待ってから更に続ける。
「村上」
「な、なんだい」
「悪かった」
そう言ってスッと頭を下げる彼を見て、彼女は一瞬拍子抜けた顔を見せるがすぐにいつもの彼女に戻る。
「どうして君が謝る必要があるんだ。君は何も悪くないだろう」
「俺はお前のことを誤解していた」
「誤解?」
心底良く分からないといった感情を乗せた声が彼の耳を打つ。
「俺はてっきりお前はただ貧乏人の俺をからかって楽しんでる意地の悪い奴だと思っていた」
彼女は心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥る。
なにせ彼女が彼に絡み始めた動機はまるっきり今の彼の言うことそのままだったからだ。
「ち、違う!!確かに最初はそうだったけど・・でも今は、私は——」
「でも違った。お前はそういう人間じゃなかった」
そう言って彼女をまっすぐ見つめる彼の瞳には複雑な感情が浮かんでいた。
「お前がここまで俺たちのことを真剣に考えて土下座までしてくるとは夢にも思わなかった」
彼も実際彼女の行動には驚きを隠せなかった。
彼女は世界屈指の富豪でもある村上財閥の一人娘なのだ。
人一倍プライドの高い彼女が謝罪のために彼のような貧乏人に膝を汚すなど何かの間違いではないだろうか。
いや、と彼は思う。
確かに彼女の言う通り最初は俺のことを見下していたのは確かだろう。
しかし彼女の意識は『ただの貧乏人の男』から『田中博人』へと変わっていたのだ。
彼はそれを知って、自分も彼女同様に全く相手のことを知らないのだと自覚した。
今思えば彼は心の内では彼女に嫉妬していたのかもしれない。
何不自由ない生活、約束された将来、周りの人達からの厚い人望。
そのすべてが彼女に有ったもので、彼が手に入れるにはあまりに荒唐無稽なものだった。
立場だけで人を判断した自分を彼は後悔した。
今まで貧乏人というだけで見下されていた自分が今度は全く同じことを彼女にしている。
そう思うと彼はなんとも自分が情けなく、矮小なものに見え、同時に彼女のことを不憫に思うのだった。
「俺はもっとお前のことが知りたい」
咄嗟に出てきた言葉だった。
「え?」
「お前と関わって初めて自分がいかに小さくて駄目な人間だと分かったんだ。でも肝心のお前のことを俺は良く分かっていなかった。それどころか金持ちっていうだけで勝手にお前のことを決めつけてそれ以外のところは見ようともしなかった。だから——」
「わ、私も!!私も君のことをもっともっともっと知りたい!」
彼女も目尻に涙をためながら彼と同じ思いで必死に声を上げる。
どちらともなく2人は握手を交わし、笑みを浮かべた。
夕焼けが公園全体を優しく照らしていた。
「おはよう!」
「あぁ、おはよう」
あの日から数日が経った。
彼は相変わらずバイトを続けていたが、その場所は変わっていた。
毎日違う職場に足を運ぶ必要はなくなり、且つ今まで以上の給金を得ることができていた。
無論忙しさは変わらないが。
「ほら、鞄持ってよ。君の仕事でしょ」
「分かった」
彼は2人分の鞄を持ちながら通学路をゆっくりと歩いて行く。
「今日の放課後は家でしっかり勉強教えてもらうからね」
「おう、任せとけ」
お互いのことを知る、彼のバイト代を減らさない。
この二つの前提条件をもとに彼女が考えたのは彼が彼女の屋敷で働くことだった。
その提案で彼は彼女の屋敷で働くようになったのだった。
「土日も早朝から来てもらうからね」
「少しは休みもくれよ・・・」
控えめに肩を落とす彼に彼女はクスクスと笑いながら口を開く。
「何言ってるんだ。私の家で散々飲み食いしてるし、休憩時間もしっかり確保してる、挙句の果てにはゲームだってしてるじゃないか」
彼を覗き込むようにして意地悪な笑みを浮かべる。
「それを言われればぐうの音も出ないんだが・・・」
苦笑いをしながら彼女から視線を外す。
あ、あとと彼女は続ける。
「君のお義母さんのことなら私のメイドに言って面倒を見させてもらってるから気にしなくても構わないよ。むしろお義母さんは感謝してたよ。前よりも息子が生き生きしてるって」
「母さんと話したのか?」
少し驚いたように彼女に視線を戻す。
「言っただろう。私は君のことがもっと知りたいんだ。これ位のことは当たり前だよ」
それに君も言ってくれたじゃないか、あんなに情熱的に『お前のことが知りたい』って。
にやにやとその笑みを崩すことなく彼の前に出る。
そう言うと彼は赤面しながら都合が悪そうにまた彼女から目を離す。
「そのことは言わないでくれ。恥ずかしいんだ」
確かに勢いで言ってしまったわけではないが、冷静になればあんな歯の浮くようなセリフ良く言えたものだと思ってしまう。
「私はすっごく嬉しかったけどね」
可憐な笑顔を見せる彼女を見て、少しドキリとする。
「あれ~。また顔が赤くなったよ。私の知ってる君がまた一つ増えたね」
「き、気のせいだ。ほら学校行くぞ。遅刻は勘弁だ」
「フフ、は~い」
ごまかすように歩みを速めると後ろから鈴を転がしたような彼女の非常に楽しそうで澄んだ声が聞こえた。
2人でじゃれあい、談笑しながら歩を進める。
暖かな陽光が2人をずっと照らしていた。
「君のこともっともっとも~っと教えてもらうよ」
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