蒙昧なお嬢様 上 

世界で最も裕福な26人が世界人口の約半数に当たる38億人分の総資産と同額の富を握っていることをご存じだろうか。

我々では想像もつかないほどの巨万の富。

一度は経験してみたいという者も少なくないだろう。

そして対照的にそんな富豪とはかけ離れた生活を送っている者がいるのも又事実である。

これは一見相容れなさそうなそんな二人の物語である。



「じゃあ、行ってきまーす」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

「母さんこそ、気分が悪くなったらすぐに連絡してくれ」

「えぇ、ありがとうね」

築60年近くは立っているお世辞にも綺麗とは言えないマンションから一人の男が出てくる。

「やぁ、おはよう」

「おはよう」

そんな彼の目の前に一人の女が現れる。

男の方も慣れたように簡単な挨拶を交わすと同じ方向に歩き始める。

「相変わらずおんぼろな家だね」

茶化すようにくすくすと笑う。

「ほっとけ。ていうかお前の家がデカすぎるんだよ」

「それはあるかもしれないけど、それにしても君の家はおんぼろだよ。」

「しょうがないだろ、貧乏なんだから」

「あんな素敵な母親に苦労を掛けるなんて、本当にしょうがない男だね」

彼は一瞬彼女に目をやったがすぐに視線を外すといつもの調子に戻る。

「今は母さんの病気を治すために金を貯めてんだよ」

「そうか。殊勝な志だね。まあ、せいぜい頑張るんだね」

饒舌に毒を吐くのは村上財閥の一人娘である、村上裕子。

村上財閥は精密機械、石油製品などあらゆる製品に手を回しており、年商は約47兆。

世界トップ2に入る超巨大会社である。

そんな財閥の一人娘がなぜ無防備に一人でいるのかというところに疑問が呈されるだろう。

というのも彼女の両親は社会勉強として成人するまでは一般人と同じ生活をするように推奨している。

その為、残り2,3年は彼女はあくまで一般人として生活することになっているのだ。

そしてこれは彼女の知るところではないが実は、彼女の身の安全のため一般人に模したSPが常に彼女の近くにいるのである。

財閥の一人娘なのだ。

これは当然のことだろう。

一方で彼女の毒舌を受ける外見からはどこにでもいそうな男の名前は田中博人。

先ほどの彼らの会話でも分かる通り、非常に貧しい家庭に生まれた男である。

そして、唯一の肉親である彼の母親は重い病気にかかっており働くことも困難な容態であった。

そのため、彼が一人でバイトを掛け持ちして何とか生活ができているようだった。

ひとり親への医療費補助があるにしろ、それをもってしても生活はぎりぎりだった。

爪に火を灯すような思いで彼は母親の治療費を貯めており、その苦労の為か彼は将来医者になるという確固たる意志を持っていた。

「ねぇ、今日は放課後暇なんだよね?」

「バイトだ」

「えぇ~、またバイト~?」

不貞腐れたように頬を膨らませる。

並みの男ならそれだけで心を鷲掴みにされるのだが彼にはそんな余裕などない。

「勉強教えてほしいんだけどな~。もうそろそろテストだし。ね?」

「無理だ。ていうかお前なら家庭教師でもなんでもつけてくれるだろ。金持ちなんだし」

最後の言葉を恨みっぽく言う彼に対して彼女は笑みをこぼす。

「嫌味っぽく言うのはやめてよ~。家庭教師とかだとさ、堅苦しくて嫌なんだよね。ゆったり出来ないもん」

「勉強はやるときはしっかりやるんだ。ダラダラしててもあんまり身にならないぞ」

目頭を押さえながら目を瞬かせる。

「何?寝不足?」

「切りのいいとこまで内職してたらつい遅くなっちまってな」

「な、内職?」

怪訝な顔で彼に聞き返す。

「あぁ、造花を組み立てて完成したものを業者に渡して金をもらうんだ」

「バイトしてるんだよね?」

彼の覗き込むように視線を向ける。

「してるけど俺はまだ高校生だからな。あまり遅くまでは働かせてくれないんだよ」

「なるほどね」

いつものように言葉を交わしながらゆったりと学校に向かう。

2人の通う高校は県でも有数の進学校で二人はその中でも1クラスしかないしかない特進クラスに通っている。

「おはよう」

「おーおはよう」

簡単な挨拶を済ませ、2人して席に座る。

彼らの席は離れており彼が自分の席に腰掛けると自然に彼女が視界に映る。

村上が座ると同時に多くの生徒が彼女と話をしようと集まってくる。

アーモンドのような形をした切れ長の吊り上がった瞳、筋の通った高い鼻、ぷっくりとした桃色の唇はその瑞々しさを十分に周囲に伝えている。

175㎝の長身に加え、八頭身という圧倒的スタイルながら女性らしさを十分に主張する双丘に引き締まったウエストはまさに女子垂涎のものだろう。

類まれなる美貌の持ち主でありながら、運動も抜群にでき、全国模試でも上位に名を連ねる頭脳。

おまけに明るい性格でよく気が回る。

そして何を隠そうあの村上財閥の一人娘なのだ。

まさに絵にかいたような非の打ちどころがない完璧なお嬢さまなのだ。

男女問わずお近づきになりたいと思うのも無理ないだろう。

彼女にはそれだけの魅力とカリスマがあった。

一方で彼の周りには人一人いない。

何の部活にも入っておらず、放課後には直接バイトに向かう彼でも友達の一人や二人はいるだろうが彼に話しかける人はほとんどいない。

というのも彼の家庭が極貧であるということは周知の事実なのだ。

実際彼が来ている制服も彼の母の友人からお古を頂いたものである為、所々が解れ、色あせている。

遊びに行こうと誘われてもバイトがあるからといって今まで一度も参加しなかった。

その内貧しい彼を遊びに誘うのもなんだか申し訳ないということになり、自然と彼と交流する者は減っていった。

元来、不愛想な彼の性格がそれに拍車を掛け、現在に至るのである。

彼は腫れ物に触れるような扱いを受けているのである。

しかし、彼はそれを嫌ってはおらず、むしろ心地よく思っていた。

変に気を利かせるくらいならいっそ一人の方がずっと気楽だった。

学校に行ってバイトに行って帰って寝る。

これを繰り返すだけでいいのだから。

「おーい。お前ら席座れ~。授業始めるぞー」

チャイムと共に先生が入ってくる。

(さてと、今日はあのコンビニだったな)

彼は今日行くバイト先を脳内で確認するとペンを握った。




そんな生活が一年ほど続いたある日のことだった。

「ねぇ、流石に今日は暇だよね?」

「バイトだ」

「えぇ~~、またぁ~?いつになったら暇になるんだい?」

「暇?そんなものは知らんな」

放課後、赤橙の夕日が差し込み教室に長い影を落とす。

残されたのは彼ら二人だけ。

彼女は健気にも委員会で遅くなる彼を待っていたのだった。

「たまにはいいじゃないか。息抜きとしてね?」

「すまんがそんな時間はないんだ」

夕日で陰影を強調された彼女は身の毛のよだつような不気味さの中に仄かに艶やかさがあり、まるで高価な芸術品のようだった。

「別に今日ぐらい良くないかい?ほら、あの高級料亭「時雨」の席だって予約してるんだ。だからお願い!」

「・・・悪いな」

一瞬逡巡し、すぐに席を立つ。

何回も何回も誘っても同じ答えしか返ってこない。

そんな彼にいら立ちを覚えていた彼女は言ってしまった。

絶対に言ってはならない言葉を。

言ってしまったのだ。

「き、君の母親は・・・君に心配ばっかりかけて最低な親だね!」

「・・・・」

「・・・ぁ」

気づけば凍り付くような目で彼は彼女を見ていた。

その瞳の奥に混在するドロドロとした感情は名状しがたく、彼女に対する負の感情があふれ出ているようにも思われた。

いつもの暖かな彼の瞳など欠片もそこには存在していなかった。

「そうか・・・お前はそう思っていたのか」

「ち、ちが——」

「もう、二度と俺に関わるな」

目も合わせてもらえなかった。

吐き捨てるようにそれだけ言った彼は後ろも振り返らず教室を後にした。

「そ、そんな・・・」

教室にはポツンと取り残された彼女が絶望と共にそこに立ち尽くしているだけだった。

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