老伝記

そのぴお

老伝記

 今ではもう昔の事ですが、日本という国では、頑固なオヤジが溢れていました。

私の父親も、その一人である思っておりました。

しかし、私も年を重ねるごとにそれが正しくないのではと感じるようになったのです。

理由があるとすれば、私があの頃の父の年に近づいたことでありましょう。

時代は日々変化し、進化しますが、人の心というものは、それほど移ろいやすいものでは無いのかも


 「あきない中」と書かれてある、板を立てかけただけの看板は、今日も静かに佇んでいる。

下町ですっかりと落ち着いているその中華料理屋は、いつも客の入りが良い。

現代なら、きっと「下町のB級グルメ」とでも言われた事だろう。

店の店主である彼は、今日も中華鍋を振っていた。


 商売というのは、やはり腐っても客が命。

お客様は神様であるとのたまう御人が居らしても、驚く事でもない。

料理屋のほうが客に媚びることが良しとされる時代であったというわけです。

「食べさせてやる」ではなく、「私などの料理を食べていただく」という解釈であったといっても過言ではないでしょう。

客もその気持ちで、自分たちがわざわざ食べに来てやっているという態度をとるのです。

まるで一流グルメ評論家のような顔で、ここの店は味が悪いだの、味付けがいまいちだ、などと言ってしまう。

ですから、料理人も余計に媚びる。

作りたい料理ではなく、客に売れて尚且つ文句を言われないようなものを作ろうと躍起になっていく。

時代も時代、そのような事はどこの店も同じですから、当たり前なのです。


 しかしながら彼の場合、なんとも時代のうことを聞かない人で、客に媚びることを知らない。

ある日のこと。夕方になるとその店には、仕事を終えた人々が、手軽く食事を済ませによく足を運ぶ。

そのピークの時間が過ぎて、客足も落ち着いた頃、彼は厨房の椅子に座って、一服していた。

煙草を吸いながら、店の天井の角に据えられているテレビに、視線を当てていた。

そのうち、一人の客が、疲れた顔で入り、すぐさま「唐揚げとビール頂戴か」と注文をよこしてきた。

おそらく残業でもしてきた帰りなのだろう。

客の男は、唐揚げをつまみに酒を飲んで、ゆっくり仕事の疲れを癒そうという根端なのだろうが、そんな男の企みを一掃するかのように彼はこう云った。

「やかましい、チャーハンにしとかんかい」

場面は凍りつき、彼の独壇場となった。

この言葉には確かな理由がある。

唐揚げは、油を熱して、鶏肉を衣につけてあげるので、非常に手間なのだ。

彼はそれが面倒だったのだろう。彼は自分を生きている。

客は驚いたことであろう。

客はいちいち店主の顔色など疑うはずがない。

そもそも酒を飲みたくて唐揚げを頼んでいるのに、チャーハンは分が悪い。

「何を云うとんねん、やいやい言わんと唐揚げ出さんかい。なめとったらあかんど!」

そう云われて初めて彼は重い腰を上げて、

「お前もやかましいわい、阿保か」と、

客を罵りながら、機嫌を悪そうにして唐揚げを揚げるのである。

今の時代なら考えられないだろう。しかし昔ならこれがまかり通るのだ。

なんとも素晴らしい時代である。



 時代に臆さない態度で我が道を行く。

彼は意識していないだろうが、外から見れば、まあそんな感じである。

それでも料理は格段に美味うまく、その味に惚れ込む人間は少なくない。

いくら態度が悪かろうと、味で黙らせるというのだ。

誰に何を言われようと関係ないのである。

彼にとって店は、「美味うまい飯を作ってやるから、金をよこさんかい」という具合だろう。

かなり無茶な生き方だが、ここに魅力を感じるのは、きっと私だけではないはずだ。


 彼はかなり合理的で、体裁ていさいを気にしない。飯は食べられればなんでもいいのだ。

ある家族ずれのお客さんが、昼食のお持ち帰りを注文していた。

しかも店に気を使って、昼時の忙しい時間帯を避けて、昼前に注文してくれたのだとか。

お客様なのにとても気が利いている。

家族分の料理をこしらえて、客は代金を支払い、満足そうに家へ持って帰った。

しばらくして、昼時の忙しくなってきた時に、その客が再びやってきた。

その客は不満げな顔を浮かべて、鍋を振っている彼に歩み寄ってくる。

「ちょっと、箸が入ってへんのやけど、どうなってんの」と云われたのだ。

誰だって店の不備には少々怒る。

客は間違ってない、

だが彼は自分を生きている。

忙しそうにこう云う

「やかましい!、今忙しいんじゃ、箸くらいセブイレで貰ってこんかい!」

どこに自分のミスをコンビニに押し付けるやからがいるだろうか。

大変驚いたことだろう。無理もない、一般の感覚だ。

客は甘噛み程度の反論だけして、その場を去ってしまった。

その後、「評判が悪くなればどうしよう」などとは微塵も考えない。

彼は忙しかった、ただそれだけの事である。

箸なんてどこにでもある、いっそ手前てめぇの家にある箸でも使えばいいじゃないか。

これが彼の考えなのだ。実に合理的だ。

彼はいつでも、自分を生きている。



 時代に立ち向かおうと行動しているわけではない。

自分を生きようとするうえで、結果的に時代に立ち向かっていることになっている。

時代の常識というものが、時に人々を抑圧しているという証拠なのだ。


 グルメ評論家気取りに、彼はこのように立ち向かった。

いかにも食通と言わんばかりの小太りのおっさんがご来店された時のことである。

店の定番である、しょうゆラーメンを注文された。

隣の客も注文するほど定番である。

するとおっさんはぶつぶつと何か言いだした。

「店は汚いし、店主は不愛想やの~。減点や。」

どうやらほかに聞こえないほどの独り言のつもりだろうが、普通に聞こえている。

彼は特に何か反論することはない。

誰が何と言おうが、基本的には興味がないからである。

「はい、しょうゆ、お待ちどーさん」

そうやって彼はおっさんにラーメンを差し出す。すると早速、おっさんが切り込んでくる。

「おいおい!、ちょっとこれ、隣のんより麺少ないんちゃうんかい!どなえなっとんや」

隣の客のラーメンを指差し、汚い唾を吐きながら怒鳴る。

完全な、「いちゃもん」というやつだ。

大変迷惑な客だが、この時代では茶飯事。

こんな時でも彼はユニークだ。

少しも自分の色を濁さない。

「何を云うとんねん。どこに麺の本数いちいち数えとるやつおんねん!云うてみぃ!」

確かに。

なんとなくの感覚で麺が少ない気はするが、

誰も麺が少ないことを証明するために麺の本数を数えたりしない。

予想外の返答を返されたおっさんは何も言い返すことができなかった。

煮えきらない様子のおっさんだったが、このおっさん、ラーメンを食べ終わった後、ちゃっかりチャーハンも頼んでから帰ったのだ。

散々に言っていたが、飯は美味うまかったようである。

彼は時代に臆さない、人に媚びない。



 創造的に生きようとしても、中々上手くいかないのが現実だ。

彼にこんなことを言えば、きっとこう返ってくる。

「それは、「創造的でありたい」と思った瞬間に、それはもう創造的とは云えない」

要は意識した瞬間には、もはや創造的ではないというのだ。

私には云っている意味が少しもわからないが、それも仕方がない。

この言葉は難しい。

そんな難解な言葉を解読するのに、最も適当な答えを、彼はすでに行動で示していたのだ。

とても小さな出来事だが、私にとっては、心の底から創造性を感じさせられる出来事であった。


 彼はこれでもかというほど、タバコを吸う。

その生涯の死期が近づいていた時でさえ、医者に止められたタバコをやめることはなかったほどだ。

店は昼を過ぎ、客足も一旦止まる頃、彼は決まって客席に座り、テレビを見る。

もちろんタバコを吸いながらだ。

灰皿はそこら辺の市販の灰皿を使っていた。

しかし、いつも不満げな顔をしている。

なぜかを問うことはなかったが、とても気になっていた。

次の日になると、灰皿は変わっていた。

どんな風にかというと、大きな缶詰のようなものの口に、グルグルに巻いた針金をうまい具合に乗せ、そこにたばこを挟めるように設計されている。中には水が入っている。

売り物にしては手作り感の主張が激しい。

それはどこで手に入れたのかと尋ねると、

「これ俺が作ったんや。」

彼にとって物は基本的に買うものではなく、「無いなら作ればいい」という考えなのだろう。

実に創造的。物が生まれるときの初期衝動はきっとこれだろう。

この考えがなければ、新しいものなんて生まれない。

それを分かっていたのか否かは知らないが、彼は当然のように人間の本質的な創造性に辿り着いているのだ。

しかしそこに「辿り着いた」という意思はない。

彼は自分を生きている。自分のために生きている。ただそれだけ。



 彼は誰よりも人間だ。

ここまでの彼の生き方は滅茶苦茶だ。

客に偉そうにしたり、態度が悪かったりする。

だが、考えてみてほしい。

客は神様、客があってこそ、という考えが、もしも時代特有の考え方だった場合、

客に媚びるという態度は、むしろ不自然だ。

しかし、彼の態度は、一対一の対等な人間同士のコミュニケーションに他ならない。

客と店の関係性に対する固定観念を捨てれば、彼の態度の方が適当である。

なぜ人間同士の対等な会話の方が適当かと云うと、時代は日々変化し、進化するからだ。

それでも、人と人との繋がりは、長い歴史においても変化したり、進化したりしない。

彼はここでも、人間の本質的なものに辿り着いているのだ。


 彼は人のために自分の時間を浪費したりしない。

主人公は自分だと考えているからだ。

当人は意識していないだろうが、他の人には考えられないことを考えている。

だから時代の価値観に翻弄されず、自分のために生きることができる。


創造的で、誰よりも人間で、自由である。


しかし彼は芸術家ではない、哲学者でもない、大空を羽ばたく鳥でもない。


ただの下町の中華料理人である。



父は偉大ですが、「自分が偉大だ」とは意識していないのです。

それが彼をより偉大にさせるのですが、、、。

私も、あの頃の父の年になりましたが、まだまだ彼の考えていることはわかっていないと思います。


父は偉大な人間です。間違いなく世界で一番素晴らしい人間でありましょう、

少なくとも私にとっては。

ですが、それを彼に云っても信じないでしょう。


彼は誰よりも、自分のために生きている。

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