記憶喪失の男
沢田和早
記憶喪失の男
オレは何食わぬ顔で通りに立っていた。そろそろ来る頃だが……ああ、あいつだな。距離を取って後を付ける。ここでは
「この街はいつ眠るんだ」
午前零時を回っても繁華街は昼間のような賑わいだ。相手はまったく警戒していない。これなら簡単に仕留められるだろう。
標的が路地に入った。あの一帯に監視カメラがないのは確認済みだ。
「あそこで殺るか」
間を開けてオレも路地に入る。標的の他に通行人が一人。電柱に隠れて銃を取り出す。通行人が脇道に入る。標的とオレだけになる。
「今だ」
狙いを定めて引き金を引いた。発射音はほとんど聞こえない。歩いていた標的が止まった。少し震えたかと思うと右側に倒れ込んだ。命中だ。そして今日の仕事はこれで終了だ。
「便利なものだな」
銃から発射されたのは弾丸ではない。揮発性の毒液を仕込んだカプセルだ。これをエアガンで撃ち出す。射程は数十mだがそれで十分だ。首筋に当たったカプセルが割れて気化した毒液を吸い込めば標的の命は確実に奪える。特殊な毒液なので痕跡はほとんど残らない。検視官も心臓麻痺と結論付けるだろう。
「アニキ、お見事」
路地から出ると相棒がオレを待っていた。依頼内容や標的に関する情報などは全てコイツの担当だ。
「引き金を引くくらい誰でもできる。見事なのはおまえの手回しだよ」
「嬉しいこと言ってくれますね。さあ帰りましょう」
車に乗り込むと疲れが押し寄せてきた。仕事の後はいつもこうだ。座席に深く腰掛け目を閉じる。
私は目を開けました。薄暗い室内。いつもよりだいぶ早く目が覚めてしまったようです。
「またあの夢か」
最近よく見るのです。自分が誰かを殺す夢。たとえ夢だとしても嫌なものです。人が死ぬ、それも自分の手によって死ぬのですから。
「今日もあの夢を見たよ」
「そうですか。でもあまり気にしないほうがいいですよ。夢なんですから」
朝食の席で妻に話しました。一緒になってもう二年。私のような男にはもったいない女性です。
「記憶を失う前の私に関係がある夢なのかな」
「どうでしょう。何か思い出せたのですか」
「いや。何も」
私たちが出会ったのは病院です。頭に大怪我をして担ぎ込まれた病院の看護師、それが妻でした。幸い命はとりとめましたが一切の記憶を失っていました。
身元が特定できるものは所持しておらず、怪我の原因が事故なのか事件なのかそれさえも不明でした。捜索願や指紋の照合も行いましたがどれも一致しません。
結局、家庭裁判所で就籍の許可をもらい新たに戸籍を取得しました。その頃には妻とは看護婦と患者という関係から男女の関係に発展していました。そして戸籍を取得後すぐ入籍したのです。今は病院の紹介で就職した医療関係の会社で働いています。
「今日は通院の日なんでしょ。先生によく話してみたら」
「ああ、そうだね。じゃ、行ってくる」
家を出て駅へ向かいます。通勤途中に咲いている
「ほう、また人を殺す夢を見ましたか。ふ~む」
会社帰りに立ち寄った心療内科の医師は少し考え込んでいました。
「こうも頻繁に夢となって現れるのですから、私の過去と何らかの繋がりがあるとしか思えないのです」
「いやいや、出来の悪いミステリー小説でもあるまいし、それは考え過ぎと言うものですよ」
私の心配を吹き飛ばそうとするかのように医師は大きく手を振りました。
「夢の中に現れる他人は自分自身の象徴です。過去の自分を消して新しい自分に生まれ変わりたい、そんな願望が夢となっている可能性もあります」
「そうでしょうか」
「命を奪う夢など誰だって見るものです。特に異常な夢ではありません。それにその夢によって何かを思い出したわけでもないのでしょう」
「ええ、まあ」
「それなら関係ないでしょう。湿度の高い梅雨の季節はストレスを感じやすくなって不快な夢を見ることが多くなります。梅雨が明けて夏が来ればそんな夢も見なくなりますよ」
自信に満ちた医師の言葉を聞いているとそれが真実のように思えてくるから不思議です。私の心は少しだけ晴れました。今夜は気持ちよく眠れそうです。
オレは歩道から店内をうかがっていた。今夜の標的はあいつか。かなり飲んでいるな。相棒の話では別のやり方で始末するようだが。
「アニキ、お待たせしやした」
相棒が軽いノリでオレに話し掛けてきた。これから殺しをやろうという雰囲気じゃないな。こいつは心底この仕事が好きなんだろう。
「今回も銃じゃダメなのか。あれが一番簡単で確実だ」
「いつも死因が心臓麻痺じゃ怪しまれますからね。酒飲みには酒飲みに
やがて標的が店を出てきた。すでに千鳥足だ。これなら尾行しても気づかれることはないだろう。相棒と二人でのんびりと後を付ける。
「おっ、ようやくへたり込みやがった」
標的が歩道の植え込みに尻を下ろした。そのまま眠ってしまいそうだ。
「今夜はあっしに任せてください」
相棒はへたり込んだ標的に近付くと介抱を始めた。ネクタイを緩め、横に寝かせ、背中をさする。標的が吐いた。仰向けに寝かせる。通行人は見て見ぬふりをして歩いていく。やがて相棒が戻ってきた。
「これにて終了。さあ帰りましょう」
「えっ、もう終わりか」
車の中で相棒の話を聞いた。簡単だった。介抱するふりをして喉に指を突っ込みむりやり吐かせる。その吐しゃ物を気道に押し込んで窒息させるのだ。
「どうりで帰ってきたおまえはゲロ臭かった。しかしこれで報酬をもらうのは気が引ける。今回は見張っているだけだったからな」
「それを言っちゃあ、いつも見張り役のあっしの立場がありませんぜ。たまにはあっしにも実行役をやらせてくださいよ」
気を張らなかったせいか車の中では眠くならなかった。自宅に戻り、水割りを飲んでベッドに入った。今晩はなかなか眠れそうにない。
「まただ。またこの夢だ」
目を覚ました私は頭を抱えました。このところ夢を見る頻度が増しているのです。しかもそれらの夢は妙に生々しいのです。昔自分が経験したことを思い出しているかのように目が覚めても細部まではっきりと記憶しているのです。
「君は、もしかして私の過去を知っているんじゃないのか」
その日の朝食の席で妻に尋ねました。妻は私をじっと見詰めました。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「不自然だと思ってね。こんなに情報システムが発達しているのに身元が突き止められないなんてあり得るのかな」
妻は少しだけ哀しそうな顔をしました。
「もし知っていたとしても私からはお話しできません」
「どうして?」
「そうするように医者から言われているからです。記憶はあくまでも自分の力で取り戻すものだと。もし他人にあなたはこんな人間だったと言われたとして、それを信用できますか? 素直に受け入れられますか?」
「それは……」
「そうでしょう。ですからあなたの過去はあなた自身の力で取り戻してください。あたしはそれを見守るだけです」
「じゃあ、やっぱり私の過去には何か犯罪めいたものが……」
「もうこの話はやめましょう。たとえあなたの過去がどのようなものであっても私はあなたと死ぬまで一緒にいます。そう決めたのですから」
妻の言葉は私に勇気を与えてくれました。誰だって人には言えない過去のひとつやふたつはあるに違いないのです。
私は妻の過去を知りません。それでも一緒にいたいと思っています。いつまでも過去に囚われていないで過去を忘れて今を生きたほうが幸せなのかもしれません。
「行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
妻に見送られて家を出ました。梅雨はようやく明けたようです。そろそろ落ち鮎の季節ですし次の週末は妻と一緒に観光ヤナにでも行きましょうか。
オレは相棒の運転する車に乗っていた。一仕事終わったところだ。
「今夜も楽勝だったな」
「アニキの手際の良さには惚れ惚れしやすぜ」
「疲れたな。少し眠るぞ」
「どうぞ」
「そう言えば最近変な夢を見るんだ」
「へえ~。どんな夢ですか」
「オレは記憶喪失になっているんだよ。で、入院していた病院の看護師と結婚して会社員をやってるんだ。おかしいだろ。このオレが平凡な家庭を築いているんだぜ。しかも一回じゃない。このところ頻繁に同じ夢を見るんだ」
「無いものねだりってヤツじゃないですか。アニキ、本当は心の底でそんな生活を望んでいたりして」
「冗談はやめろ。マイホームパパなんて真っ平御免だ。寝るぞ」
後部座席で目を閉じる。車の振動が心地良い。今回はあの悪夢を見ずに熟睡したいものだ。
「あっと、眠っていたのか」
目を覚ますと妻の顔がありました。そうです。今日は日曜日。落ち鮎料理を楽しむために観光ヤナへ遊びに来ていたのでした。昼食後、隣接の休憩所で眠ってしまったようです。
「だいぶ寝ていたのか」
「いいえ。でも25時までありますから少しくらい遅れても大丈夫ですよ」
そうでした。今日は月に一度の一日25時間の日です。私は東の空を眺めました。日がだいぶ傾いています。
「いい夢が見られましたか」
「う、うん。まあな」
夢の話はしないでおくことにしました。もう夢のことは考えないことにしたのです。
「今日はいい日でしたね」
「そうだな」
「明日も明後日もこんな日だといいですね」
「ずっといい日さ。君と一緒にいればいつでもどこでもいい日になるんだ」
夢のように幸福な日々。でもこれは現実。夢であるはずがないのです。たとえどんな悪夢に襲われようとも現実の幸福をしっかりと見詰めていれば何も怖くありません。これからも妻と二人でこの夢のような世界を楽しみ続けていくつもりです。
記憶喪失の男 沢田和早 @123456789
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