それとも

そのぴお

それとも

ある日の真夜中のことである。

 その辺りの住宅街は実に穏やか。日本によって築かれた平和の一つである。

中でも一際地味なアパートの一室に、上京したばかりの女が一人で暮らしている。

廊下と六畳一間という狭さだが、一人暮らしには十分だろう。

女は明日、仕事があるにもかかわらず、部屋の明かりもつけずに、ベットの上で仰向けになって、

スマートフォンをいじっている。

午前二時が過ぎたあたりで、顔にスマホが落ち、「痛ってぇ」と間抜けな声を出していると、鍵を閉めているはずの玄関から、重いドアの開く音がする。

こんな時間に来る客などいるはずがないので、何者かが侵入しているのではないだろうかと、女は不審に思った。

しかし、今から起こり有ることを想像すると、不審な感情は次第に恐怖と焦りの感情に変わっていく。

女は咄嗟に、背の低いテーブルの上に置いていた包丁を手に取る。

この包丁は夕刻、女がリンゴの皮を剥くのに使った物であり、洗いもせずに放置していた。

ゆっくりと、息を殺して足音を立てないように、

廊下と六畳一間との境のドアへ近づき、廊下の先にある玄関の様子を、ドアの隙間から片目だけ覗かせる。

部屋は暗闇で、僅かな光でも拾えるように、女の瞳孔は開ききっていた。

しかし、まだはっきりとは見えない。眼には、何者かが玄関をくぐり、

音をたてないようにドアを閉める姿が僅かに見え、さらに緊張感が高まる。

女は息をすることすら忘れ、包丁にはぐっしょりと手汗を染み込ませていた。

玄関のドアが締め切られる寸前の、僅かな隙間から差し込んだ月の光に映し出されたのは、

黒い服を着た小柄の男。

男もまた、包丁を持っていた。しかし男の持っている包丁からは、血らしき液体がポタポタと落ちている。

女は男から狂気を感じ、恐怖のあまり膝はガタガタと震えだしていた。

音もなく迫ってくる足音と、心臓が握りつぶされるかのような緊張感は、徐々に大きくなる。

張りつめた緊張の糸を、ぷつりと切るように、リビングまであと少しと迫るところで、

男が玄関の段差に気付かずにつまづいた。

例え男が町で躓いても、その音の大きさに驚いたりしない。

それでもこの空間においてはどんな音よりも大きく聞こえるだろう。

また、誰も男が倒れる様を見て、「好機が訪れた」とは考えない。

この状況ではそれが有り得た。

女は好機と思うだけに終わらず、行動を起こした。

男が静かに起き上がろうと、両膝をついた瞬間、今まで息を殺して片目だけ覗かせていたドアを勢いよく開き、包丁を突き出して命のマウントを取ろうとする。

「うぎ、うごいたら、、刺すよ!」

少々噛んでしまったが、そんな事を気にしている余裕などない。

不規則なリズムでしか呼吸ができないほど、女の恐怖と緊張は張りつめている。

それでも、目の前の男の命は、自らの手中にあると確信している。

男は指示に従う気はなく包丁を持ったまま立ち上がろうとする。

たとえ女が包丁を持っていたとしても、襲ってくるまいと、高を括っていた。

実際、女の手は有り得ないほど震えており、人の命を奪えるような心中ではないことが明らかだ。

女が持っている包丁は単なる脅しの道具に過ぎない。

「刺す」と言いながらも、本当に相手の体にぶすりと包丁を刺し込む気はない。

というよりも、刺せない。

人を殺すというのは、そう簡単にできることではない。

ましてや先ほどまで、平和な日常を何の疑いもなく過ごしていた女が、突然身に迫った恐怖を打ち砕くために、

人に包丁を刺し込むなんてことは、不可能であると言わざるを得ないだろう。

特別な訓練を受けた兵士でも、いざ人の命を奪わなければならない状況に立ち会うと、体は硬直する。

それ程までに、現代の道徳において人の命というものは、実に重い。

人を殺せるものなど、狂人くらいである。

立ち上がろうとしている男の姿がスローモーションのように見える。

暗黒にも慣れてきて、僅かな月の光でも拾うようになった女の目には、男の服にたっぷりと付着している、返り血と思われる赤い液体を、その一瞬で捉えた。

血を見て、女の頭の中では、様々な予想が膨らんだ。

通り魔、殺人鬼、凶悪犯罪。ほかにも誰かを殺している。

男は女を睨みつけ、今にも動きそうである。女はそれに狼狽うろたえる。

その時から、心のマウントは男のほうに軍配が上がっている。

この空間は、男が支配したといっても過言ではない。精神的な面はもちろん、身体的な面においても、

女に勝ち目はない。女は返り血の付いている男に殺されるまで、もう何もできないであろう。

一度は空間を制したかと思われたが、女にとって、脅し道具でしかなかった包丁では、

実際に人を殺めた経験があるこの男には、一切通用しなかったのである。

女の思考は停止した。









 平和という楽園に、長く身を置いていると、命に迫る危険など、

最初からこの世に無いかのような勘違いをしてしまう。

しかし、どんなに平和な世界があったとしても、そこに在るものが人間である限り、

狂人は必ず現れる。

一時の平和に、決して甘んじてはならない。

どこへ行っても、人間は常に死と隣り合わせであることを忘れてはならない。

迫りくる死に対して、常に戦う覚悟を持たなくてはならないからだ。

戦う意思が無いものは敗北と同じ、理不尽に立ち向かわなくては

人間として生まれてきた意味がない。


 狂人に勝てるのは、狂人だけ


 女は、全身に抱えきれないほどのエネルギーを振り絞って、勢いよく地面を蹴り、男に襲い掛かる。

勿論、手には全神経とともに、人を殺すための包丁を、固く握りしめている。

明確にその姿は見えていないが、おそらく男の心臓である一点をめがけて、体を投げ込んだ。

女の行動に動揺したのか、男は体勢を大きく後ろに反らして、回避しようと試みるが、命を投げ打つともいえる女の攻撃には敵わない。

女の包丁は、見事に、男の頸動脈を捉えた。

男は人形のように倒れた。

首から大量の血飛沫を出しながら一瞬にして絶命した。

女の心中に恐怖心など既に存在しなかった。

そもそも感情のある人間の所業ではない。

殺す瞬間はもちろん無心であり、人を殺すとはそういうこと事なのだ。

感情はないが、意識はあるようで、しばらくその場で立ち尽くす女。

その眼には何が映っているのか。

次第に瞼が重くなり、目を開けていられなくなった。

人は、自らの限界を超えた身体機能を行使すると、体が悲鳴を上げるのだろう。

このままでは倒れてしまうと考えた女は、血生臭い死体から逃げるように、ベットに向かう。

だが、全身は朦朧とし、道半みちなかばで意識を失った。



 目が覚めると、ベットの上でしたたるほどの汗をかいていた。

部屋の中を眩しいほどに照らし出す太陽は、もう真上近くまで昇っていた。

手には必死に握りしめていた包丁

ではなく、スマホがあった。固く握りしめている。

思い出したように、慌てて廊下の様子を窺おうと起き上がるが、

ふと目に入った、背の低いテーブルには、林檎の皮と、

それも剥くために使っていた包丁が置いてあった。

包丁には血など付いていない。

少し落ち着いて、おもむろにドアの隙間から、片目だけをのぞかせて、廊下の様子を窺う。

そこには死体など無く、悪臭も消えている。

状況を信じることができず、ドアを開けて隈なく手掛かりを探すが、何も見つからない。

すっきりとしない顔で首をかしげながら、玄関のほうを見るが、鍵は閉まっている。

ここまで確認して、女はようやくあの強烈な出来事は、夢であったのかという発想に辿り着いた。

しかし、夢であるとわかっていても、女の脳内には深い傷を負ったことだろう。

人を殺す瞬間、たとえ夢の中とはいえ、手にはまだ、その時の感触が色濃く残っている。

それでも恐怖に立ち向かうという大いなる経験を手にした実感も、確かに存在していた。

少し安心した女は、仕事に行けていないことを思い出し、脳内は日常モードに切り替わる。


 リビングに戻るために、ドアを開けようとすると、ドアノブに、直径8ミリほどの赤い輪がこびり付いていた。

赤い輪の周りには、ふき取った後のようなものがある。

女はしばらく考えた。

これがもし、血痕ふき取ったものの、周りだけ先に乾いてしまって、

拭いきれなかったものであるとしたら。

女は一瞬、恐怖の感情を抱いたが、すぐに立ち直って、冷静になり、深呼吸をする。


 何事もなかったかのように、そのドアノブを握り、ドアを開け、リビングに入る。

仕事の準備を整えて、会社に「寝過ごした」という一報を入れた後、玄関へ向かう。

廊下で振り返り、もう一度ドアノブに付いている赤い血の輪を見た。

じっくりと見ているうちに、女には正体不明の勇気が芽生え始めた。

すると女はリビングに戻り、背の低いテーブルの前に立って、

スマホを取るように、包丁を手に持った。

カバンの中に入れ、玄関へ向かい、女は会社へ向かった。


 女がどんな表情で、何のために包丁をかばんに入れ込んだかは、定かではない。

女は今、人間なのか

それとも

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それとも そのぴお @sonopio

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