第175話 温泉旅行③


 食事は中々に豪華なものだった。

 何種類もの料理が部屋に運ばれてきて、あれやこれやと説明をされたがほぼ忘れた。


 口に食べれば美味しいのだからそれでいい。ただ、時折これはなんだろうという料理もあったので、もう少し真剣に仲居さんの話を聞いておけばと思った。


 咀嚼し、味わってみても答えは出ないので結に尋ねたところ、満面の笑みで「さあ?」と返ってきた。


 そうだった。

 才色兼備の大和撫子。そんな印象を周りに与える一方、中身はそんな感じなのだ。


 それを愛くるしいと捉える人が多いのでマイナス要素にはならないが、こう見えて結は意外と大雑把だ。


 普通に美味しかった夕食を終えると、風呂も入ったのであとはだらだらと過ごすだけ。

 とはいえ、することも特になかったので俺達は大浴場を堪能することにした。

 明日の朝も楽しむが、せっかくの温泉旅館なのだから何度も入っておいて損はないだろう。


 これに関しては結も賛成だったようで、各々温泉を楽しむことにした。特に時間は決めず、上がったら部屋に戻るということを決めて、俺は結と分かれた。


 大浴場はその名の通り広く大きく、またそこから見える景色も部屋からのものとは違って素晴らしい。


 時間的に混んでいてもおかしくないが、たまたま人が少なくてゆったりと楽しめた。


 一時間ほど楽しみ、俺は部屋に戻った。結の姿はまだなかった。女の子だからなのか、結構長風呂だ。


 さては、お風呂好きだな。


 部屋のドアを開け、中に入る。和室にあった机はなくなっており、その代わりに布団が敷かれていた。


 恐らく、さっきまでの間に敷いてくれたのだろう。問題というか、気になった点というか、目についたのは布団の位置。


 部屋の真ん中辺りに並べられた布団の距離だ。がっちりとくっついている。


 男女が二人で温泉旅館に来ているのだから、そういう関係であることはお察しだったのだろうけど、一旦離しておくというのもある種の気遣いではあると思う。


 嫌ではない。

 でも、やっぱりちょっと恥ずかしい。この状態を結が見れば、離すことを拒むだろうから今のうちにちょっとだけ距離を作ろう。

 結より先に帰ってこれたのは幸いだ。


 そう思ったときのこと。


「わ、お布団敷いてくれてる! なんかいいね、こういうの」


 結が戻ってきた。

 なんてタイミングの悪いやつだ。あと三〇秒遅ければミッションコンプリートだったというのに。


 特に布団の距離については触れてこなかった結だった。そうなると、いよいよ触れることはできない。


 意識してるみたいで格好悪いし。何も言わないということは、結にとってはこの距離は当たり前ということなのだ。


 からかわれるのもごめんだし、ここは覚悟を決めることにした。この旅行、覚悟を決める機会が多いな。


 その後はジュースを飲みながら、ゆっくりと話をした。別に何でもない、他愛ない話だ。


 最近の出来事だったり、ふとした思い出話に花を咲かせたり。場所が違うだけで、いつもと変わらない時間の過ごし方。


 けれど、それでいいような気がした。

 人それぞれ、カップルそれぞれ距離感や考え方、価値観は異なるけれど俺達にはこれが合っている。


 そう思えた。


 気づけば、そろそろ寝てもいい時間になっていた。結がくあっと欠伸を見せたところで、俺達は時間の経過を実感した。


「そろそろ寝るか」


「……そう、だね」


 眠いからか、結のテンションは少し低かった。何というか、おとなしいというかしおらしいというか。

 二人とも就寝の準備を済まして、布団に入ることにした。


 暗い部屋の中で、じーっと天井を見上げる。緊張しているのか、何だか寝付けそうにない。


 そう言えば、前にもこんなことがあったな。

 あれは、結が転校してきてまだ間もなかった春頃か。家の鍵を忘れて俺の家に数日間泊まることになって、ホラー映画観た日の夜に怖いからといって同じ部屋で布団を並べたんだ。


 あれから、随分時間が経ったもんだ。


「なんか、懐かしいね」


 結が言った。


「ん?」


「こうやって二人で寝るの」


「そうだな。俺も、同じこと考えてたよ」


 あのときと同じように、暗い部屋の中で布団を並べて話をする。変わったのは、俺と結の関係だ。


 あの頃と比べると、いろんなことが変わった。

 周りの環境ももちろんそうだが、俺自身の気持ちや考え、この一年を通して俺は少し前に進めた。

 そんな気がする。


 いろんなことがあって。

 その度に壁を乗り越え。

 ときに頭を抱え、悩み。

 そうして、答えに辿り着く。


 一人じゃなにもできなかった。

 そんな俺が、ダメなりに頑張るところをずっと見ていて、支えてくれたのが他の誰でもない、結なのだ。


 そう思いながら、俺はふと隣にいる結を見る。


 すると、どうやら先にこちらを見ていたらしい結としっかり目が合った。

 なんでこっち見てるの? と結を見た俺に言う資格はないが。


「どうした?」


 なので、普通に訊く。

 すると結はいつものように冗談めかして言うでもなく、落ち着いた静かな声でゆっくりと言う。


「なんでもないよ。こーくんの顔が見たかったんだ」


「……なんでもないのに見たくなるのか?」


 こっ恥ずかしく、俺は照れ隠しで再び視線を天井に戻す。


「うん。だって、好きなんだもん。大好きな人が隣にいるのに、見ないなんてもったいないと思わない?」


「……どうなんだろうな」


 そんな直接、隠すこともなく気持ちを吐露することはできない。恥ずかしいし、普通に照れる。だというのに、結はそれを何でもなく言ってのける。

 言われるこっちの身にもなってほしい。


「わたしは思うよ?」


 言いながら、隣からもぞもぞと動いている音が聞こえてくる。やはり、結も緊張して寝れないのか。ずっと同じ姿勢だとしんどくなるもんな。


「まあ、言いたいことは分からないでもな――」


 驚いた。

 思わず、俺は言葉を最後まで発することを忘れてしまう。頭の中にあった思考がすべて一瞬にして吹っ飛んだのだ。


「せっかくこんなに近くにいるのに、何もしないなんてもっともったいないと思うけどね」


 そう言いながら、結が俺の顔を両手で掴んで無理やり彼女の方へ向けたのだ。


 至近距離に結の顔がある。そりゃ誰だって驚く。いつの間にか俺の布団に侵入してきてるし。


 緊張か、あるいは違う何かか。

 俺の心臓がバクバクとこれまでにないくらいに激しく音を鳴らす。


「お前……」


「わたし、思い出がほしいな。今日のこの日が特別に思えるような、どきどきする思い出」


「……それって」


 俺が思考停止し固まっていると、まるでそれをほぐそうとでもするように、優しく唇を重ねてきた。


 柔らかく、心地よい感覚に段々と俺の気持ちが落ち着いてきた。

 数秒間、重ねるだけのキスをした結はゆっくりと唇を離した。


「……ゆ、い?」


 潤んだ瞳。

 朱色に染まる頬。

 物欲しそうな表情。


「こーくん、わたしね……こーくんのこと大好きなんだよ? こーくんはどう?」


 今さらそんなことをどうして言ってくるんだろう。なんて、さすがに思わない。

 彼女が何を思ってそんなことを口にしたのか、察せないほど鈍感ではないのだ。


 真っ直ぐな気持ちには、真っ直ぐな気持ちで返さなければならない。

 だから俺は口にする。


「好きだよ。お前に負けないくらい大好きだ」


 そして。

 今度は俺から唇を重ねた。

 お互いの愛を伝え合うように、お互いの気持ちを確かめ合うように。


 

 * * *


 

 結局。

 どきどきしっぱなしだったその日はロクに眠ることができずに、翌朝はチェックアウトぎりぎりに起きることになってしまった。


「……ゆっくり朝風呂に入るつもりだったのに」


「あはは、昨日の夜に入っといてよかったね」


 慌ただしく準備をして、旅館を出た俺達は電車に乗る。ようやく一息ついたところで、俺は後悔というか残念な気持ちを吐露した。

 結もおかしそうに笑うだけだ。


 本当に。

 昨日入っていなかったら、俺はせっかくの大浴場を堪能できていなかったということだ。

 本当に入っておいてよかった。


「惜しいことしちまった」


 はあ、と溜息をつくと結が俺の袖をちょいちょいと引っ張る。どうしたのかと見てみると、楽しそうに笑っている。


 俺が残念がっているのがそこまで嬉しいというのか?


 なんて疑問を抱いたが、もちろんそんなことは思っていないようで、結は俯く俺の顔を覗き込んでくる。

 

「じゃあさ、また来ようよ。ね?」


 楽しそうに。

 嬉しそうに。

 あるいは、何かを期待するように。


 そんなことを言ってきた。

 俺は昨日を振り返る。いろんなことがあったが、確かにどれも楽しくて、いい思い出となった。

 それこそ、忘れられない特別な思い出ができたのだ。


「そうだな。これが最後ってわけじゃないもんな。俺もバイトしてお金貯めるか」


「うんうん。これから何度だってあるんだよ。こんなに楽しいことがこれからまだまだあるんだなって思うと、わくわくどきどきしない?」


 そう。

 これは終わりなんかじゃない。始まりなんだ。

 楽しかったからこそ、終わりを感じて寂しくなるが、また来ればいい。ただそれだけなのだ。

 楽しいことは、まだまだ数え切れないくらいに待ってるんだから。


「ああ」


 これから始まる、まだ見ぬ未来に胸踊らせながら、俺は結の言葉に力強く頷くのだった。

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