第125話 【初恋編④】彼女の初恋


 涼凪ちゃんは口にした。

 彼女の中にあった正直な気持ちを。


 俺は、その気持ちに返事をしなければならない。


 いつだったか、結から告白されたことがあった。その時は俺の中に宮乃の一件があって、誰とも付き合うつもりはなかった。


 だから、その申し出を拒んだ。


 結はそれでも諦めずに、今でも俺に真っ直ぐな好意を向けてくれている。その好意を迷惑だなんて思わないし、むしろ嬉しいと感じている。


 可愛くて、優しくて、俺のことを好きでいてくれる結のことを嫌いだなんて思わない。


 いつか、結の気持ちに対して、答えを出さなければと思っていた。


 俺が受け入れれば、それでハッピーエンドになる。みんなが笑顔で、幸せな未来が待っている。


 それが分かっていて、どうして受け入れないのか。俺自身、不思議に思っていた。

 理由の分からない何かが、それを拒んでいた。最近になって、それが少しずつ形になっていた。


 白河明日香だ。


 好きか、と言われると答えに悩む。しかし、嫌いだなんてことは微塵も思わない。一人の女の子として好きかどうかは置いておくとしても、少なくとも、他の人に比べて特別に思っていることは確かだと、思う。


 俺が結の告白に返事ができないのは、この揺れる中途半端な気持ちが邪魔をしているからだ。

 この気持ちに対して、はっきりと答えを出さなければ、俺は前には進めない。



 そう。



 つまり。



 その葛藤の中に、彼女は――橘涼凪はいない。


 俺にとって涼凪ちゃんは、行きつけの喫茶店の店員で、可愛い部活の後輩だ。

 涼凪ちゃんのことは大好きだ。

 でもその好きは、結や白河に対して抱いているものとは決定的に違う。


 だから。


 俺が出すべき答えは決まっている。


「……っ」


 その言葉を口にしようとしたが、言葉が出ない。ぱくぱくと口を開いて、ギリッと歯を食いしばる。


 怖い。

 答えを出すのが。


 答えを出せば、何かが壊れる。

 何かを選べば、何かを失う。


 そんな気がして、言葉を詰まらせた。


「先輩」


「……涼凪、ちゃん?」


 名前を呼ばれ、涼凪ちゃんを見る。

 俺を見つめるその瞳は大きく揺れている。けれど、不思議とそこに恐怖や不安があるようには見えない。


 お母さんの夢の話をしていたときと同じだ。その瞳に宿っているのは、決意だけだ。


 俺の言葉を、気持ちを受け入れようとしている。答えを聞く前にその目ができるということは、彼女は俺の出す答えを知っているということになる。


「私は、大丈夫ですよ」


 涼凪ちゃんは、自分の言葉が俺を苦しめていることを理解している。それでも、逃げることを許さないのはきっと彼女の優しさだ。


 だから。


 俺はちゃんと応えないといけない。


「……ごめん」


 涼凪ちゃんの顔が見れなかった俺は俯きながらその言葉を口にした。


 言葉が返ってこなかった。


 俺は恐る恐る顔を上げる。


「はい」


 涼凪ちゃんは笑っていた。


 どうして?

 俺の気持ちは言葉にするまでもなく、彼女に伝わったようだ。そんな顔をしていたのかもしれない。


「あんまりしんみりするのも嫌なので、ハッキリ言いますけど先輩に振られるのは分かってましたよ?」


 そう言った涼凪ちゃんは悲しそうに笑っていた。


「そう、なの?」


「はい。先輩が私のことを大切に思ってくれていることは分かりますけど、その中にある気持ちが、月島先輩や白河先輩とは違うのは何となく伝わってきましたから」


 結だけでなく、白河に対する気持ちまでもバレていたとなると、さすがに恐ろしくなる。


「俺、そんなに分かりやすい?」


 尋ねると、涼凪ちゃんは少しだけ考える。


「んー、いや、よほど敏感でなければ気づかないと思いますよ」


「涼凪ちゃんは敏感だったってこと?」


 俺の言葉に対して、涼凪ちゃんはかぶりを振った。


「先輩のことを特別に見ていたからこそ、気づいたのかもしれません。何となく、薄々、そんな感じですよ。強いて言うなら女の勘ってやつです」


 涼凪ちゃんは俺が結や白河に対して特別な感情を抱いていたことに気づいていた。


 ならば。


「なんで、告白を?」


 こんなことを聞くなんて、我ながらデリカシーがないと思う。


「ケジメをつけたかったから。結果はわかっていても、それをちゃんと聞かないとぐるぐる考えちゃうんです。その結果、仕事に悪い影響があったりして、このままじゃダメだなあって思ったんですよね」


 器用じゃないから。

 二兎を追うだけの器用さはないから。


 だから。

 ちゃんと答えを出したのか。

 答えを出すために、自ら傷つく道を選んだんだ。


「おかげで、すっきりしました。これからはお仕事を頑張ろうと思います」


「そ、か」


「気まずいとか言って、うちのお店に来るの止めないでくださいよ? 先輩はうちの大事な常連さんなんですから」


 言いながら、涼凪ちゃんはにっと笑う。

 その笑顔が無理やり作られたものであることは明らかだった。結果がわかっていても、それでも何も思わないことはない。


「うん。また、お店に顔出すよ」


「それと、私を振ったんですからちゃんと自分の気持ちと向き合ってくださいよ。でないと、私振られ損なんで!」


「振られ損て……」


 もしかしたら。

 涼凪ちゃんは俺の背中を押そうとしてくれたのかもしれない。自分が傷つくことを分かっていて、それでも俺の力になろうとしてくれたのかも。


「私、もうちょっと休みたいんで、先に帰っててもらえますか?」


「え」


 あ、そうか。

 涼凪ちゃんは俺に告白して、俺はそれを断った。さすがにこの後一緒に帰るのは気まずいか。


「あ、分かった。あんまり遅くなっちゃダメだよ」


「分かってますよ」


 俺はくるりと回り、涼凪ちゃんに背中を向ける。

 このまま彼女を一人にしていいのか、そんなことを思ったけれど、少なくとも俺が一緒にいるべきではない。そんなものは優しさではない。

 だから。

 俺はゆっくりと歩き出す。


「先輩」


 呼ばれて、俺は足を止める。

 振り返ると、涼凪ちゃんは精一杯の笑顔を浮かべていた。


「今日は、本当に楽しかったです。また、どこか連れて行ってくださいね!」


 最後の最後まで気を遣わせてしまった。

 歳下なのに、俺よりもよっぽど大人だな。涼凪ちゃんは。


 俺は返事をして、再び歩き始めた。

 それから涼凪ちゃんがどうしたのかは分からない。もしかしたら涙を流していたのかもしれない。


 ただ、その後。

 涼凪ちゃんから何度目かも分からないお礼のメッセージが届いた。


 壊れるかもと思いながらも、それでも涼凪ちゃんは向き合った。壊したくないと思いながらも、勇気を持って前に出た。

 ならば、俺は彼女が大切にしていたものを壊してはならない。それを涼凪ちゃんも、そして俺もまた、望んではいないのだから。


「……はあ」


 帰路を歩く途中、すっかり暗くなった空を見上げて俺は溜め息をついた。


 やんわりと、自分の気持ちを理解した気がした。

 俺の中で、月島結と白河明日香は特別な存在なのだ。


 普通に考えて、すげえ失礼な話だな。結に言ったら怒られるんじゃないだろうか。

 白河が俺のことをそういう意味で好きとは……まあ、多分ないだろうけど、でもこの中途半端な気持ちを持ったまま結と付き合うというのはもっと失礼な話だ。


 どうやら。

 俺にはまだ、向き合わなければならない問題があるらしい。


 それを気づかせてくれたのは、他の誰でもない。涼凪ちゃんだ。

 お礼というのもおかしいけど、今度何かご馳走でもしようかな。そんなことを思いながら、俺はゆっくりと家に帰った。



 * * *



 八神幸太郎に振られてから少し経ったある日の放課後。

 橘涼凪はとある喫茶店にいた。


「それで」


「写メ撮ってきてくれた?」


 アユミとユウカだ。

 二人はどうやら涼凪がついた嘘に興味津々らしく、そのことについて追加情報を得ようとこの会合を開いたようだ。


「……えっと、それって」


 涼凪は苦笑いをしながら言う。


「もちろん、涼凪の彼氏のことよ!」


 アユミの方が楽しそうに言ってくる。


 もちろん彼氏などいない。

 これは涼凪が咄嗟に二人についた嘘なのだ。二人は八神幸太郎が涼凪の彼氏だと思っている。

 幸太郎の姿を一目拝みたいと以前会ったときに散々言われたのだ。


「あー、そのことなんだけど」


 非常に言いづらそうに涼凪が口を開く。すると察しがいいのか、二人は表情を曇らせる。


「え、なに」


「不穏な空気なんですけど」


 アユミとユウカは顔を見合わせて低い声を漏らした。


「実はね、あの話……嘘なんだ」


「え」

「え」


 声を揃えて間の抜けた声を漏らす二人に、涼凪の中の罪悪感が膨れ上がる。


「なんか、恋人がいる二人の話を聞いてたら、見栄張っちゃった」


 さすがに二人の惚気話にうんざりしたので嘘をついたとは言えなかった涼凪は、やんわりと真実を濁した。


「な、なにさそれー」


「涼凪ひどいよー」


 とは言うが、二人はそこまで気にしている様子はなく、涼凪はあははと笑いながらほっと胸を撫で下ろした。


「なに、じゃあ涼凪はその先輩のこと何とも思ってないの?」


「実際のところ、そこそこ好意あったんじゃないの?」


 どうやら、恋バナはまだ終わらないらしい。

 幸太郎のことを好きかどうか、という質問に今の素直な気持ちで答えるとするならば、それは決まっている。


「好きだよ。大好き」


 そこまで言うと思っていなかったのか、二人はぽかんと驚いた顔をする。


 だから涼凪は、


「先輩として、ね」


 と、笑ってみせた。


「なんだよーびっくりしたわー」


「涼凪は彼氏とか欲しくないの?」


 恋人か、と涼凪は少しだけ考えた。考えた素振りを見せただけで多分答えは既に決まっていた。


 そういう話に興味がないわけではない。

 幸太郎と付き合いたいと思っていなかったわけではないから。もし叶うなら恋人になって楽しい毎日を過ごしたかった。


 でも。

 それは叶わなかったから。


 だから、彼女の答えは決まっている。


「恋愛は今は……いいかな。家のことでいっぱいいっぱいだし。お仕事が、恋人みたいなものだよ」


 そう、心の底から思える。

 とてもじゃないが、すぐに幸太郎ではない誰かのことを好きになれるとは思えない。


 それに。

 幸太郎に抱いた恋心を、今は大事にしたいと思うから。


「涼凪……それは」

「婚期逃す人のセリフだよ」


「……へ?」


 アユミとユウカの真面目なトーンのツッコミに、涼凪は苦笑いをするのだった。

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