良さげな香りに誘われたその先は

其乃日暮ノ与太郎

飛んで火にいる夏の虫

「じゃ、これに着替えて」

そう指図されて手渡されたのは、セールワゴンで山積みで売られている粗悪なダークネイビーのスウェット。


(高収入バイトだったもんだからソッコー来てみたけれど、ろくに調べず飛びついたのは失敗だったか……)


この春に高卒フリーター四年目になった浜中啓司が心中のボリュームを下げて嘆き、素気すげ無い態度な五十前後の男に、

「脱いだらそこの籠へ」と着替えを促される。


(考えてみれば、片田舎の駅が待ち合わせ場所で結構な距離を車に乗せられて山奥らしき道を進んで来た先のこの建物に入れられるまでの何処かで怪しむべきタイミングは腐るほどあった)


浜中が悔やみながらも、ここまで来てしまった以上は……と諦め半分で指示通りに動いた後に年配者の先導で廊下を何度か折れながら数分歩かされ、止まりなさいと立たされた右側のドアが中年男によって手前に開かれた。

「じゃ、入って」

青年はこの感情がこもっていない一言に無意識の反応で足を踏み入れてしまう。

直ぐに閉じられて施錠の音が鳴った此方側には掴むものが無い扉から振り向き見渡したその空間は、日常生活で見慣れた天井高にその一辺と同じ長さのクッションフロアと無機質で真四角な壁に囲まれた上下左右がむらなく琥珀色に塗られた正方形の部屋だった。


そして瞬時に肺の細気管支の拡張を待たずに身を竦める事となる。


自分から離れた壁の右隅に生産地も素材も一緒に見えるアッシュグレーの服を着て至る所のリブを薄汚している人物が猫背で片膝を立てて座る周りを飲み物の空き容器と食べ終わった包材を数個づつ散かしたままの場所から自分を仰視していたからだ。

「ど、どうも」

咄嗟にいた挨拶に年の頃が似通っている相手の反応は無い。

まさか視界に紛れていた塊が人だった事に驚いた脳と筋肉にエネルギーを供給する血圧と心拍の急上昇が治まらない中、規則正しいリズムが刻まれている何かが室内にあると浜中は気付く。

左に首を振ったそのコーナーには振り子タイプの三角錐メトロノームがあり、針が60BPⅯで揺れている。


(き、気色悪……)


更に対角線に身体を向けると幅300mm強×奥行200mm位×高さ100mmに満たない大きさの仕切板で七つに分けられたケースが置かれ、逆の一角には肩の高さ程の衝立がされていた。

恐る恐るその向こうを覗くと隠されていたそこにはトイレが備わっていて、脇にはご丁寧にオフホワイトのペーパーホルダーが付けられている。


(募集要項の下に書かれていた『一週間三食・昼寝付き』に食い付いたとはいえ、これじゃ監禁されるのが確定したじゃんかぁ)


甘い汁が吸えると安易に勘違いした青年がその場に崩れ落ちて床に頬をあて、暫しの放心状態に入った。


(なんか息苦しい……)


「ここ、空気薄くないですか?」

浜中が姿勢を体育座りへと先に居た住人に向かい合う様に変えながらおっかなびっくりで質問をする。

「それは無い。それとあれが有るから」

意外と友好的にあしらった生白い男が始めに指差したメトロノームの横を見ると20cm弱の角形自然給気口があり、次に示した膝を抱えた青年の右上角には150φ程度のグリル部分が突き出している丸型レジスターが付いていた。

同じ空間に閉じ込めらた相手の第一声を聞いて少し気分の落ち着いた浜中は次にケースに四つん這いで近付き、ポリスチレン製の箱の中を眺めた後にPTP包装シートを摘み上げる。

「これ、何ですか?えっとN……」

「抗うつ薬NNRIは神経伝達物質セロトニンを増加させるから意欲を高めたり、不安や落ち込みなどの症状を改善する効果がある」

即座に返って来た答えに青年は疑問を覚え、更なる問いを投げた。

「じゃ、となり……」

「抗不安薬アレプラゾラムは脳の興奮などを抑えることで不安や緊張、不眠などを改善する中間作用型の薬だ。不安とパニック効果には強い」

これにも即答する不健康そうな男に再度問うてみる。

「で、こっち……」

「ミルテザピンはセロトニンとノルアドレナリンの働きを高める作用のある四環系抗うつ薬に分離されるイフレックスのジェネリックで不眠や食欲低下などの症状が改善する」

ケースに収まっていた全部の説明を一通り聞き終えた浜中の体内で膀胱と結腸を空にするエネルギー消費の準備が行われた。

「何故こんなモノが……」

「様々な不安障害やPTSDの為に用意しているのさ」

彼はそう言って続ける。

「正し、真ん中のは依存性に注意。右のは脳内でのヒスタミンには覚醒作用があり食欲も増加させてしまう。セロトニンによって精神が安定してリラックスすることにより、エネルギー消費が抑えらえれて直接的な食欲増加と代謝抑制が重なるからミルテザピンを服用すると太りやすくなるぜ」

不敵な笑みのまま饒舌に語った男に青年が根本的な質問をぶつけた。

「ここで何してるの?」


「実験だよ」


不可思議なアンサーにも拘わらず浜中の視覚が瞳孔を拡大させる対応をする。

その言葉は即座に見上げた天井の隅に設置されていた防犯カメラ二つの存在で裏付けられた。

「これから俺はどうなるんだ」

不安に駆られ思わず零れた青年の一言を男が拾う。

「前回は通気口両方からカサカサと音がして、黒っぽい茶色の御器ごきかぶりがおびただしい数で侵入してきた」

浜中は想像する間もなく瞬時に立毛した。

「その前は絶食を五日間強いられて、その前は何かの薬物でキマッてた野郎が不規則な時間に何度も飛び込んで来たな」

言い終えた男は心理状態が混乱しかける青年をよそにしてニヤけている。


その時、

突然開いた扉の向こうに怪士あやかしの能面を付けて刃渡り10cmのサバイバルナイフを握った何者かが出現した。

「えっ」

驚くのも束の間、能面野郎が扁桃体より発せられた警告で中枢神経や自律神経にさまざまな生理的応答を促した浜中を狙って素早く襲いかかり、この瞬間に立ち上がった男はその場で静止した。

「あっぶなっ」

アドレナリンを含む血流の大放出で生理的防御力の向上をさせ体が激しく緊張し、逃走や戦闘モードに入ることで危険をかわそうとする野生の本能が働いて攻撃を辛うじて避けた青年を背にして今度は角の人間にサバイバルナイフが突きつけられる。

「マジかよぉ」

能面が踏み込み男が華麗に回避すると、振り返った刃先が消化器官の毛細血管の収縮で血流を筋肉側に集中させ、肝臓のグリコーゲン分解をさせて瞬発力を高めた浜中に向いた。

「来んなよぉ」

その願い虚しく、そいつは突進してくる。

「やめろやぁぁ」



同時刻 監視カメラの向こう側


助手「今日こそは流石にやられますかね」

教授「大賀秀次は1900年初頭に発見されて以来これまで400例ほどしか報告されていない脳の一部が石灰化して異常をきたし、恐怖を司る偏桃体の部位が破壊され死滅したウルバッハ・ビーテ病の患者。奴等から貴重なサンプルが取れるだろうから注視していてくれ」


こうして開始された実験室には、血相を変えてわめき散らして逃げ惑う浜中の声と、顔色は変えずに楽しむ様にして身をかわす大賀のステップ音、メトロノームの脱進機のリズムが入り交じっていた。

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