第91話 見習い料理人と殿下
──夜。
陽も落ち、空に星がくっきりと見えるようになった時間帯。
ガレイトたちは馬車に揺られながら、すでに帝都の近くまでやって来ていた。
予定よりもだいぶ早い到着である。
「と、いうわけで……」
イルザードが、アクアを中指で指さしながら口を開く。
アクアは馬車の扉の下。
そこにあるすこし出っ張った場所に足を乗せ、窓枠に手をかけている。
「こいつのことは、女と自分語りが大好きな変態、と覚えておけばいい」
「は、はぁ……」
サキガケが遠慮がちにうなずき、馬車の外を見る。
「どもー」
アクアはサキガケの視線に気が付くと、ひらひらとにこやかに手を振ってみせた。
そして、その顔──
ガレイトに殴られて出来た顔の腫れは、ほとんど引いていた。
「ああ、見えてきましたよ。ヴィルヘルムの帝都〝ニーベルンブルク〟その正面玄関です」
アクアが馬車の進行方向を見ながら言う。
帝国首都ニーベルンブルク。
ヴィルヘルム帝国領の中心にあり、国の要。
領地を守護するように、ぐるりと周辺を取り囲む外壁。
領内は中心へ向かうほど標高が高くなっており、その中心には国王の居城──
真紅のヘルロット城が聳え立っている。
そして、領内への進入は東西南北にある、四つの門からのみ可能となっていた。
ガレイトたちは現在、その南門の近くまでやって来ている。
「──御者さん、ここらへんで止まってください」
アクアが声をあげると、御者は手綱を操り、馬車を止めた。
「……おい、なぜ止めた」
イルザードが不満げに尋ねる。
アクアはぴょんと馬車の縁から地面へ降りると、もう一度、馬車のほう見た。
「いや、ほら……もう時間も時間ですし」
「どういうことだ。説明しろ」
「イルザードさんは……まぁ、いいとして、ガレイトさんが帰って来たと知られれば、たちまち騒ぎなってしまうでしょう?」
「おい、どういう意味だ」
「……昼間なら構いませんが、明日は定例会もありますし、ここは静かに、何事もなく侵入したほうがいい……そうでしょう? ガレイトさん?」
「まぁ……そうだな。また馬車を呼ばれても……」
ガレイトはなにかを思い出したのか、途端に苦い顔を浮かべる。
「じゃあ頼めるか、アクア」
「はい。もともとそのつもりでしたので……」
「助かる」
「では、すこし待っていてくださいね……」
アクアはそれだけ言い残すと、小走りで南門へと向かって行った。
◇
ぶんぶん。
遠くのほう──
帝都ニーベルンブルク南門前。
灯りに照らされたアクアが、馬車に向かって手を振っている。
ちらり。
ガレイトは向かいの座席──
静かに寝息をたてているブリギットとカミールを見た。
「では御者さん、お願いします……」
ガレイトは寝ている二人が起きないほどの声量で、御者に指示を出した。
御者もそれを受け、静かに馬を走らせる。
ゴロゴロゴロ……。
かぽっかぽっ。
再び車輪が回り出し、小気味いいリズムで馬車内も揺れる。
やがて南門に差し掛かった頃──
ガレイトは窓際のカーテンを閉じ、門兵から見えないよう頭を内へ引っ込めた。
ガラガラガラ……。
鋼鉄の鎖が巻き取られ、門の扉がせり上がっていく。
やがて──
ガチャン。
門が完全に開いたのか、ガチャンという音が鳴る。
「うわ……」
馬車の外。
アクアがそのような声をあげる。
ガレイトは首を傾げたが、そのまま馬車の中で息を殺す。
しかし、馬車が動く気配はない。
「──出ておいで」
突然、大声……ではなく、よくとおる男性の声が響く。
その声が聞こえた途端、ガレイトとイルザードが顔を見合わせた。
「な、なにが起きてるでござる……?」
サキガケが小声で二人に尋ねるが、二人とも何も答えない。
「怒らないから」
ガレイトはおそるおそるカーテンを開けると、窓からちらりと顔を覗かせた。
そこには──
「やあ、久しぶりだね。ガレイト」
「あ、あなたは……!」
キリリと吊り上がった眉と口角。
短めに切り揃えられた、金のウルフカット。
その前髪が風に揺れる。
黒く、ツヤのあるダブルボタンのジャケットに、赤い毛皮のマント。
そんな格好の青年とガレイトの目が合う。
「えと……どちら様でござる?」
サキガケがひょっこりと顔を出して、その青年に名を尋ねる。
ガチャ。
ガレイトは静かに、馬車からでると──
「お久しぶりです。王よ」
その青年の足元に跪いた。
「え? オウ? オウ……って、王様?」
「いや、そこまで畏まる必要はないよ、ガレイト」
「ですが……」
「君はもう騎士じゃない。だから気楽にしてくれ。呼び方も、
「は、はい。失礼します……」
ガレイトはそう言うと、静かに立ち上がる。
「……というか、さっきのは、君に向けての言葉じゃないしね」
「あの、えっと……じゃあ拙者……?」
「ああ、こんばんは。貴女は
青年がニコリと笑い、サキガケに挨拶をする。
「あ、ハイ。そうでござるが……」
「定例会は明日からですので、今日はゆっくりお休みください」
「あ、ありがとう……ござ──」
「おーい、聞こえているのだろう? イルザード?」
青年がすこしだけ、声のトーンをあげる。
そして馬車の中。
イルザードは腕組みをすると、座席の背もたれに体重をかけ、目を閉じた。
「ぐー、ぐー、がー、がー」
「いやいや……」
サキガケが軽く手を横に振る。
「ふむ、なるほど。返事はしない気か」
青年はすこし驚いたような顔で、口に手をあてた。
「……なら、私から行こう」
「え?」
ガレイトとイルザードが声をあげる。
青年はそんなことは意にも介さず、馬車の中へ入っていった。
「う……」
「……なんだ。起きているじゃないか、イルザード」
「……ドモ」
イルザードが居心地悪そうに首を上下させる。
「……それにしても、なぜ水着なんだい?」
「暑かったので」
「そうか。今度私も、水着で公務をやってみるかな……」
「
ガレイトが馬車の外から静かにツッコむ。
「それで……イルザード。私が言いたいこと、わかるかい?」
「まあ、はい。なんとなくは……」
「一隊の長でもある君が、突然いなくなったこと。なんの届け出もなく外国へ行ったこと。私宛の手紙を勝手に盗み見ていたこと──」
青年はそう言いながら、指折り数えていく。
「……まあ、まだまだ色々あるんだけどさ、とりあえず……」
青年はそう言うと、手を振り上げ──
イルザードめがけ、勢いよく振り下ろした。
「め」
責めるように、咎めるように、青年は人差し指でイルザードを指さす。
「……はい?」
イルザードは怪訝そうな顔で訊き返す。
「これからはないように。いいね。〝め〟だからね」
「……は、はあ」
毒気を抜かれてしまったのか、イルザードは困惑した顔で青年を見る。
それは同じ馬車内にいるサキガケも同じだった。
「おや、どうかしましたか? 波浪輪悪のお方……?」
「いえ、なんというか、その……すこし失礼なんでござるが……王様、びるへるむの統治者の方って、もっとお年を召されている方かと……」
サキガケの問いにガレイトは眉を吊り上げ、イルザードは口をへの字に曲げる。
「ああ、なるほど……」
「あの、サキガケさん、
「いや、いいんだガレイト」
青年が手をあげて、ガレイトを制する。
「たしかに。何も知らずに、
「い、いや……そんなことは……!」
「うん、とりあえず自己紹介をさせてもらうね。……私の名はフリードリヒ。フリードリヒ・フォン・ヴィルヘルム。この国の国王……ではあるけれど、最高指導者ではないんだ」
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