第89話 見習い料理人と氷の騎士


 ゴロゴロゴロ……。

 かぽっかぽっ。

 何事もなかったように馬車がゆっくりした速度で街道を往く。

 そして、そんな馬車の隣──

 そこには目も見えぬほど、パンパンに顔を腫らしたアクアがいた。

 アクアはガシャンガシャンと鎧を鳴らしながら、馬車と並行して歩いている。



「いやあ、本当にお久しぶりです、ガレイトさん」


「おまえも……変わりないようだな」



 ヌッと馬車から顔を出し、アクアの顔を見るガレイト。



「ははぁ……、そのムカつく顔を見るのも久しぶりです」


「そうか。……ただ、ずっとここに滞在する予定はない。用が済めば、すぐに帰る」


「いえいえ、お気になさらないでください。少なくとも僕は、ガレイトさんを歓迎しているつもりです」


「それはよかった」


「ええ、はい。……ですが、なんでガレイトさんの顔って、こんなイライラするんですかね?」


「さあな。俺に訊くな」


「……まったく、いつになったら野垂れ死んでくれるのやら……」


「そのように、他人任せにしている時点で、俺は殺せんぞ、アクア」


「ああっ!?」



 びしっ。

 アクアがあまり開けない目をめいいっぱい開き、ガレイトを指さす。



「いいっすね! すっげえ、イラつきます、それ! クラクラしてきましたよ!」



 そう言って、ケタケタと笑うアクア。



「……言っておくが、謝らんからな」


「なに言ってんですか。問答無用で、魔法まで使って斬りかかった俺が全面的に悪いんすから。むしろ、再起不能にされなかっただけ、マシです」


「そうか。ならいい」



 素っ気なく返事をするガレイト。



「それよりも、お客様がいるのなら先に言っておいてくださいよ~」


「なに?」


「それならいきなり攻撃しなかったのに」


「……あのな、俺がひとりでこんな馬車に乗ると思うか?」


「え? 思いませんが?」


「──確信犯ですよ、こいつ」



 ひょこ。

 イルザードもガレイトと同じように、馬車から顔を覗かせる。



「おや、イルザードさんじゃないですか。どちらへ行ってたんですか」


「散歩だ」


「……ビキニ姿で?」


「この格好だと、散歩してはダメなのか」


「いえいえ、ですが……なるほど。わかりました。散歩なら、グランティまで行っても仕方がないですよね」


「おまえ……なぜそれを……」


「え? 本当に行ってたんです? グランティ?」


「……チッ」



 イルザードが舌打ちをする。



「それよりも、だ」


「はい?」


「ガレイトさんを見た瞬間、攻撃を加えるのはやめろ」


「え~、なんでですか?」


「理由を言わねばわからんのか、貴様は」



 イルザードが威嚇するように、声を低くして言う。



「──ハッ! ……すみません。イルザードさんの殺気が凄すぎて、気絶してました」



 アクアが再び軽口をたたく。

 そして、沈黙。

 ピリピリとした空気がその場を支配する。

 やがて──



「やめろイルザード。アクアも挑発するな」


「……すみません」

「……ごめんなさい」


「ああ、それとアクア。ちょっといいか……」



 ガレイトがそう言って、アクアを指さす。



「はい、なんでしょう。ガレイトさ──」


「もう一度、この三人を巻き込んだら殺すからな」



 たらー……。

 アクアの額から顎にかけて、一筋の冷汗が流れる。

 アクアはそれ以上何も言わなくなると、一度、唾をごくりと飲み込んだ。



「あ、あの、がれいと殿……」



 馬車の中、サキガケが遠慮がちに声をあげる。



「その方は……?」


「ああ、そうでした。すみません。……おい、アクア。自己紹介をしろ」


「ええ? ここでですか?」


「おまえのためにわざわざ馬車を止めると思うか?」



 アクアは「はぁ」とため息をつくと、歩きながら胸に手をあてた。



「──聞こえていますか、馬車の中の麗しの君」


「あー……えと、拙者のことでござるか?」


「僕はアクア。アクア・パッツァと申し──あいたっ!?」



 ガレイトが腕を伸ばし、アクアの頭を叩く。



「なにするんですか。舌噛んだらどうするんですか。ぶっ飛ばしますよ」


本名・・だ。偽名・・を使うな」


「……はあ? それは……ダメでしょう」



 ここでアクアははじめて狼狽える。



「本名……にござるか」


「ええ、じつはこいつ、アクアと名乗ってはいますが……偽名なのです」


「なんでそんな……」


「ガレイトさん、本当に言うつもりですか?」


「当たり前だ。散々迷惑をかけておいて、挙句、偽名を伝えるつもりか? 失礼なのは顔だけにしておけよ、アクア・・・


「この顔はてめぇが……! ……というか、それとこれとは別じゃないですか?」


「ふん、そんなことを言っている場合か……」



 イルザードが口を開く。



「いいか、サキガケ殿は波浪輪悪ハローワークの職員だ」


「おや、ギルドの……」


「つまり、ヴィルヘルムが国を挙げて協力している、定例会に参加するゲスト。国賓だ。そんな人に幻覚魔法ヴィジョンをかけたと知られれば、ヴィルヘルムの信用問題にかかわるわけだが……おまえは、これをどう補填するつもりだ? 王子様・・・よ」


「お……王子様?」



 サキガケとブリギットが馬車内で声をあげる。



「な~んでいきなりバラすかな……」


「わるいな、王子様。口がすべってしまった」


「……ソアマァ……!」



 アクアは笑ったまま、こぶしをギリギリと強く握っている。



「え、ええっと……話を聞くに、あくあ殿はびるへるむの王子様……ということでよかったでござるか?」


「……いいえ、僕はこの国の王子ではありません」


「え?」


「──が、その前に、いまからする話は他言無用でお願いします」


「し、承知したでござる……」


「では、改めて自己紹介を……僕の本当の名はヴァシルト。ヴァシルト・ミラズールです」


「ばしると・みらずぅる……殿。なるほど。……ん? その名前、なんか最近、聞いた気が……」


「あれ……? ミラズールってたしか……」



 ブリギットが呟くと、ガレイトがコクリとうなずいた。



「はい。俺たちは、そこの国境を通ってきましたね」


「え? では、ばしると殿は、隣国みらずぅるの王子様でござるか?」



 今度はサキガケが馬車から顔を出す。



「ああ、はじめまして。そのお顔立ちはもしかして、東方の……?」


「え? ああ、はじめましてでござる。拙者、千都出身のさきがけと申す者で──」


さん」


「ニン」


「ニン……」


「……そ、それで、なぜ隣国の王子様が、びるへるむで隊長を──」


「……美しい」


「は?」



 アクアはそう言うと馬車の縁に飛び乗り、サキガケの手を取り──

 チュッ。

 軽く手の甲に口づけをした。

「はわわ……」

 それを座席に座って見ていたブリギットが、小さい声でつぶやく。



「なんて……美しいお方だ」


「な、なな、なにすんねん! あんた!?」


「おや……方言も、また心地いい響きですね。まるで天女の歌声のよう……」


「て、て、て……!?」


「まずは謝罪を」


「ああ!?」


「まさか、このガレイトゴリラのお連れ様が、こんなにも美しい方だったとは……それを知っていれば、あんな下品な技ヴィジョンなど使わなかったのに……ああ、許してください、魁さん」


「あ、頭おかしいんか、この人……!?」



 助けを求めるように、ガレイトとイルザードを見るが──



「……はい」



 アクアが臆面もなく答える。



「はい!?」


「貴女ほど美しい方を前にすれば、頭も狂ってしまうでしょう。……貴女はさながら、天上より現われ出でた女神様。僕はさしずめ、それに魅入られた哀れな──んブッ!?」



 ガレイトのこぶしがアクアの顔面にめり込む。

 アクアはそのまま馬車からはじき出されると──

 ガシャアン!

 背中から地面に叩きつけられた。



「サキガケさんが困っているだろ。やめろ」


「……悪いな、サキガケ殿。ウチの馬鹿が」


「な、なんなん、あの人……!? 信っじられへん! 都会の人ってみんなこうなん!?」



 顔を真っ赤にして、自身の手の甲をこするサキガケ。



「いや、あの男が特殊なだけだ」


「いやあ、申し訳ない。まさか、ここまで奥手な方だとは思っていませんでした……! ますます惚れてしまいそうだ……!」



 パンパンに腫れた顔。

 そして、鼻腔からは鼻血。

 さきほどまでの美青年は、もう、ここにはいない。

 そんなアクアが、ガシャンガシャンと鎧を鳴らしながら、馬車と並走している。



「魁さん、貴女を困らせるつもりはなかったのです。僕を信じてください」


「そういうのはいいから、それよりも、なぜ隣国の馬鹿王子が騎士をやっているか言え」



 イルザードが面倒くさそうに言う。



「ああ、スパイです、スパイ」

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