よっつめ
始まりはほんの些細な事だった。
雨が降ったからと傘を差すように、猫が鳴いていたからと視線を其方へ向けるように、何やら怪しげな人影が見えたからと歩調を速めるように。ほんの些細な事だった。
いや、きっと始まりだけではなかった。全てが全て、些細なことだった。終わりに至るその時まで、そこへ導いた全てが些細なことの連続だった。後悔か懺悔か。判別の難しい感情に苛まれ瞼を落とせば背後で泡の笑う音がした。
顔を上げ振り返れば水槽の中の魚が身を翻す。照明が鱗を照らし、鱗が反照した光がチラリと水中で煌めいて。
一つまみの餌を横からつまみ上げぱらぱらと落としてやれば追い掛けるように魚が踊る。飼い主の気紛れに踊らされた魚に喰らいつかれた粉末状の餌は水の中ふわと舞い、いくつもが水槽の底へと沈みこんだ。
トン、トンと水槽を置いた台を叩く。
僅かな振動では沈み込んだ餌は舞いもせず地面にしがみつき、水をその鱗で撫でる魚もまた何の反応も示しはしない。
トン、トン、トン、トン。
規則的に鳴る音は時計の音に似て気を鎮めていく。瞼を落とす。指の動きは止めぬまま。暗闇の中、ただ聞こえる規則的な音に耳を傾ける。
トン、トン、トン、トン。
トン、トン、トン、トン。
暗闇の底から何かが手を伸ばし、ずるりずるりと身を引き摺りこんで行くような。そんな錯覚に囚われる。
足先が闇に飲み込まれ、膝が、腰が。
瞼を持ち上げたくなる衝動が沸き上がる。
この先への興味を抑えられず、衝動を抑え込むよう瞼を閉ざす力を強めた。きゅ、と顔に皺が依る。
ぐわん、と世界が揺れた。
違う。これじゃない。
失望と安堵が同時に身を占め、身から力が抜けた。瞼は持ち上がらない。瞼を持ち上げたいと望む衝動さえ既に絶えてしまった。
ふいにぽちゃん、と音が鳴る。
気味の悪い濡れた感触が手に振れ、只管規則的なリズムを刻み続けていた指が止まる。
手を台から離し手を払う。いつの間にか勝手に開いていた瞼に気付き息を吐き、もう一度、水滴に濡れた手を振り水滴を落としては水槽から身を背けた。
こぽこぽと泡の湧く音がする。
「黙っていい子にしといとくれ」
思っていた以上に不満気な声が口から漏れる。
其れを正す気にもなれず椅子に身を埋めては腕を組んだ。背後から聞こえていた泡の音は、今はもうすっかり静まっている。
時計の音さえ響かない部屋の中。もう一度瞼を閉ざし暗闇に浸ったとしてあの感覚はもう一度訪れはしない。
諦め瞼を開き溜息を吐き、常に片手を占領していた煙管を口に咥えケムリを吸い込む。肺まで溜め込み、ゆっくりと吐き出した煙は白く歪んだ形を作り出した。
煙は宙を登り、天井に行き着いてはジワジワと横へ広がっていく。其れを見上げていればぴちゃんと水面の揺れる音が鼓膜を揺すった。
「こんな所、さっさとおさらばしたいのはあたしも同じさ。…全く、気味が悪い」
目を伏せため息混じりに言葉を紡ぐ。
逃げ場を探していた煙達は、もう一度見上げた時には既にどこかへと消えていた。
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