みっつめ
男は一つを忘れていた。
いや、忘れている事は一つではなかったかもしれない。ただ、忘れている事を思い出した事が一つあった。だがそれは明確な一つになり得ることはなく、揺らめく水面の皺のように不確かであった。
けれど、男には忘れている事が一つあった。
男は其れを知っていた。酷く不確かなその存在を知っていた。其れをどうすれば思い出せるのかも実の所理解していた。
本当は忘れてすら居ないのかもしれない。
だが男は其れを忘れていた。
思い出したくなかったのだ。否、思い出してはならないことだった。
「…で、あんたは尻尾を巻いて逃げたってのかい」
それ迄ただ静かに男の話を聞いていた人影がふぅ、と煙を吐く。やってられないとばかりに其れは男へ向けていた身体を他所へ向けまたもう一度煙管を咥えた。
煙の香りとお香の香り。噎せ返るほどの煙と匂いに満ちた空間で、男はただ言葉を返ことも無く目の前にいる人物の方を向き続ける。視線さえ向けず、俯き加減で佇んで。それだけだ。
ろくに反応を示さない男に人影はもう一度煙を吹いた。白く空気に刻まれた溜息を書き留めもせず人影は男との間に置かれた古びた机の引き出しをガタガタと開く。香の芳しくも思える香りが揺らめいた気がした。
「全く。冷やかしに使われちゃあ色々してやるのも億劫になっちまう。いい加減前進したらどうだい。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる、いつまでも前に進む気配さえないじゃあないか。んン?それとも、前に進む気も無いのかい?それじゃ、協力してもやれないねェ…」
不機嫌を隠しもせず其れは言葉を紡ぎつつ引き出しから取り出した一つを片手で器用に古びた紙で包み込む。協力してやれないとは言いつつ取引を止める気は無いのだろう。
包み終えた何かを影が男へと差し出せば男は盗みでも働くかの様な素早さで手に取り草臥れきったコートのポケットへと潜らせた。ソレに人影はクツクツと喉奥を鳴らしつ整った唇を釣り上げ目を弧に歪める。
用は済んだとばかりに男が身を翻す。其れを人影の手がとめた。コートの襟を後ろから掴みぐいと引き戻す。倒れ掛けた男の腰の重みを受け古びた机が小さく悲鳴をあげる。
「御前サン、之は慈愛に満ちた優しい親友からの導きだがね…ソコにいても地は固まらないよ。例え幾ら雨が降ってもネ。精々泥を喉に詰めて窒息死、だなんて無様は晒さないでおくれ」
三日月を象る唇から紡がれる言葉は空間を埋める煙の様にうっそりと、妖しげな香りを孕む。男は鬱陶しいとその手を払いコートの襟を立て直しもう一度足を踏み出した。
人影は笑みを浮かべたまま煙管を吹かす。
「随分と前のあんたは好きだったんだがねェ…」
狭い部屋の戸を潜る男の耳を小さな声が掠める。独り言かもどんな情を持っているかも分かりはしない声に男は無意識の内にソレを振り返った。
ソレはいつもと同じ様に狭く、物に埋め尽くされた部屋の中に立っていた。何処か妖艶な笑みを浮かべているソレは、けれどその顔を明確に認識させはしない。顔どころか其の姿の仔細さえ知覚することを許さない。
目の前にいる筈が、視界に捉えている筈が、存在し笑みを浮かべている事以外を理解させないソレに男は窶れ色濃い隈に縁取られた目を僅か細め、けれど何も言わぬ儘外へ身を滑らせ戸を閉めた。
クツクツと言う静かな笑声がふつりと途絶え、男はもう一度、静寂に支配された暗闇へと投げ出される。
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