ふたつめ
男は彼女の傍にいた。
彼女の胸元に耳さえ押し付けていたかもしれない。男の脳内はただ、彼女の心音で満ちていた。
とくん、とくん。
穏やかなリズムで刻まれる其れはまるで母体の中で聞いたようなリズム。男は安心しきっていた。聞こえる音に酔いしれていた。身の全てを、心の全てを預けていた。丸まり全てを授かり生を繋いでいた胎児期の様に。
ここがあるべき場所なのだと、男はそんな事を考える。
他の何からも自分を守り抜いてくれる存在が彼女なのだとそう盲信する。
他の音など聞こえはしなかった。
とくん、とくん。
じんわりと体の奥底から、心の底から温められていくような感覚。体の全てが力を抜けと、彼女に身を預けろとそう告げる。
体の胸部からどろりと溶けその場に崩れてしまう程に男は体の告げる導きに従い力を抜く。彼女の身に全身を預け、最早瞼さえ落ちていく。
とくん、とくん。
次第に遅くなっていくような彼女の心音と共に男の心音もまた穏やかに、緩やかに、其の動きを緩慢になる。鼓動が焦燥を手放す。
「──……、」
けれど男の意識はいつまでも飛びはしない。
微睡みに蕩け、水に体を溶かしながら未だ水面に固形物として浮かび続ける。
何かが阻止しているのだ。完全に溶け切ってしまうことを。
男には其れが煩わしくて仕方がなかった。けれど何故煩わしく感じられるのかさえもが分からなかった。それどころか何故こうも溶けてしまいたいのかも分かりはしなかった。
意識的に思考する事も叶わなくなった男の中、未だ機能し続けるのは溶けずに残った氷塊に混ざったプラスチックの如く野性。
警告。
本能のみが察知し告げる其れを理解する事もなく、男はただ溶けてゆけるその時を待っていた。
とくん、とくん。
とくん、とくん。
とくん、とくん。
意識を残したまま、記憶を残したまま。
男は思考を支配する心音に耳を欹てる。
女はただ、男に完璧な平穏が訪れない事を嘆いた。
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