小噺

暖色

ひとつめ

自分の呼吸音が五月蝿かった。

自分の鼓動の音が五月蝿かった。

ギリと握り締めた手に刺さった自分の爪の痛みで我に返れば世界は既に暗転していた。肌に触れる夜気は冷たい筈が体はどうしようもなく熱を孕んでいて。

ゆっくりと身から力を抜くように強ばった両手を開きながら体の底から息を吐き出す。それと共に肩を大袈裟に持ち上げ落とす。

漸く首筋を舐める空気の冷たさが分かるようになれば世界を見回した。

見てしまう事を恐れ逃げ出した世界はただ只管に、鳥の囀りが、虫の囁きが聞こえる程に平和で。無意識のうちに口角がゆっくりと持ち上がる。

後悔はなかった。

涙は出なかった。

ただ汗だけが頬を伝って。

「…はは、は」

震えた様な笑声が鼓膜を震わせる。誰の声が判別のつかなかった其れが自分のものだと分かっていた。

自分が酷く情けのない顔をしていることも分かっていた。

笑みが静かに溶け、開いた両手で顔を覆い乍その場にしゃがみ込む。いつの間にか体は酷く冷え、身に触れる自分の体さえもが冷たいものに思えた。次第に暖かいものへと変わっていく其れに震えた呼吸を繰り返し、わけも分からず湧いた思考を痺れさせる様な温もりから逃れる様に再度顔を上げる。

ふと、黒い闇の中に白が映った。

大きな白鴉。

此方を見詰める黒い丸い瞳と視線が絡まる。

身動きが取れずに制止した。

一秒、二秒。

長くはなかった筈だ。けれど酷く長く感じられた。

唐突に、けれど自然と、満を持したように、白鴉が視線を外す。

魔法が解けるように体が楽になるのを感じた。

白鴉は興味を失った様に、初めから興味などなかったように踵を返し歩き出す。

その背を呆然と見送り、けれどパッと弾かれた様に男は立ち上がった。その弾みの儘、走り出す。

後ろからの足音に気がついたのが白鴉が飛び立った。

大きな羽が空気を揺らす。月明かりを浴び白い翼が神聖さを放つ。

──追い掛けなければ。

何故そう思ったのか。

明確にしないまま男は白鴉を追い掛け走り出す。男の瞳を支配するその白鴉は、今この瞬間、男にとっての月となった。

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