4-10
警察官が三度目にもなる同じセリフを、初めてため息交じりに吐き出した。
「暑かったでしょ。どうぞ」
目の前のテーブルに麦茶の入ったグラスが二つ。つるりとしたガラスはすっかり汗をかいていて、中の氷がほとんど溶け、味は薄まっていそうだ。最初に二人を追いかけてきた若い男はすでに奥へ引っ込んで、代わりに今は壮年の皺の多い警官が脚を開いて座っている。声が低くて大きい。ひげも濃くて何だかゴリラみたいな男だと真は思う。
カラン、と音を立てて氷が溶け、最後の小さな一欠片が薄茶の海でたゆたっていた。理緒と顔を合わせ、真はおずおずとそこに手を伸ばした。冷えた麦茶が全力疾走の後にとても魅力的だったから、つい無意識の行動だった。理緒がすぐにその手を叩き落とす。一連を見ていた警官が含み笑いを見せた。
警察には警戒心をむき出しにしろ、大人に対する不信感を見せろと事前に二人で打ち合わせをしていた。――自分たちはあくまで家出を試みた子どもであって、補導は不本意なこと。だから間違っても親の名前や連絡先をあっさり素直に答えてはならず、鞄の中を見せたがろうとせず(結局見せはしたのだが)、しばらくだんまりを決め込んで、ぶすっとした表情で時計をちらりと見た後、非常に不愉快そうにぼそっと答えるという台本に倣った。
ショッピングモールへ尾行に出かけたときもそうだったが、理緒はこうした演技や茶番が楽しいらしく、ノリノリで脚本を練り演じている。スパイ気分は真も好きだからその気持ちは分かるが、本音を言うのが苦手だといつか話していたのを思い出すと、理緒は嘘をついている方が安心できるのかもしれないとも思う。
「君たちねえ……。お金もスマホも何も持たないで、一体どこまで行けると思ってたの? そりゃ夏休みだもの、遠くへ行きたい気持ちはおじさんも痛いほど分かるけど……」
ドアがノックされ、引っ込んだばかりの若い警官が再び顔を覗かせる。「いらっしゃいましたよ」彼の声に続いて部屋に入ってきたのは文乃だった。見覚えのあるTシャツにジーンズ姿の母親が、真の顔を見て眉間に皺を寄せた。やはり最初に来たのはこちらの母親だったか――。隣で理緒が不安げに俯く。これから両者の親を問い詰めるわけだから、理緒の母親も来てくれなければ困る。
ズカズカと部屋に入ってきた文乃が真の隣で仁王立ちした。
「あんた一体何やってんの。家出なんて柄じゃないでしょ? 悩みがあるならすぐ口に出すくせに」
理緒の母親が来るまで時間を稼ぎたくて、真は俯いてぼそぼそと答えた。
「……母さんには、別に関係ないし……」
「関係ないってあんたね。とにかく帰るよ、いつまでもお巡りさんに迷惑かけてないで。それでええとそっちのお嬢さんは……ああ! もしかしてあんたがいつか話してた、映画デート行った子?」
真は飛び上がった。
「ちょっデートじゃ」
「デートなわけないじゃん!」
理緒が割り込んで叫んだ。真っ赤な顔をして自分の膝をにらみつけ、やってしまったと言わんばかりの表情で理緒はさらに俯いてしまった。
「…………じゃない、です……違う……ます……」
きっと反射的に叫んだのだろう。理緒の今の気持ちがなんとなく分かって、真も伝染したようにいたたまれない気持ちになった。ばつの悪そうな顔をした二人の子どもを、ここにいる大人たちはどう思っているのだろう。
文乃の顔を伺おうと上目に見上げた先で、真は母親の背後でドアノブがひねられるのを見た。
「すみません。娘がお邪魔してると……」
掠れたような高い声の女が入ってきた。これまでに四度も見たから間違いない、佐生理緒の母親、純子だ。一度目はホテルの前で、二度目は塾で、三度目は映画館で。最後に見たのは、弁護士と夫と三人で立つ姿だ。
二人の母親が揃ったことを知り、隣に座る理緒が固まった。俯くその表情がさっと白くなる。
文乃がきょとんとした顔で純子を見た。文乃は彼女が誰だか知らないのだ。きっと息子の友達の母親としか思っていない。対して文乃の存在と二人の子どもの揃う光景に、純子は全てを理解したらしかった。露骨に俯いて文乃の視線から顔を背けるようにして、早足に理緒の正面にやってきてその手を掴んだ。
「すみません娘がお世話になりました。ほらさっさと帰るわよ――」
この期に及んで、まだしらを切る気か。
「触んないでこの不倫女!」
理緒が叫んでその手を振り払った。なるほど、今ここでやるしかないようだ――。驚いた顔をした警察と、母親の持つ心配顔を失っていく文乃を見ながら、真は震える脚を勇気づけてそっと立ち上がる。凍り付く雰囲気の中、正面からまっすぐその顔を見上げて純子に会釈した。
「初めまして佐生さん。俺は鷺岡真って言います。理緒さんの友だちで、塾で仲良くなりました。俺の父と、会社同じなんですよね」
化粧の下からでも浮き出てわかる、土のように悪い顔色を浮かべて純子が黙り込んだ。理緒も一緒に立ち上がって真の手を握る。ああ、と文乃は冷たい声を漏らし、
「真」
真の胸倉を掴んで引き寄せ、頬を強く張った。ぴしゃりっ! 痛々しい音が響く。その残響が消える頃にようやくじんじんと痛みがやってきた。理緒が泣きそうな顔をして目を見開いている。真は今、自分がどんな顔をしているか本当にわからない。
「全く関係のないお巡りさんを巻き込んで余計な時間を取らせたこと。これだけは間違いなく、あんたとその子の二人が悪い。謝んな」
真はただ黙って頷き、理緒の手を離して警官に向き直る。何とも言えない表情を浮かべる警官に理緒と二人で顔を向け、深く頭を下げた。
「迷惑かけてすみませんでした」
理緒も慌てたように続いた。
「すみませんでした……」
たっぷり時間をかけて下げた頭を上げると、文乃がふっと諦めたように笑って純子の方を振り返った。場違いな明るい声で告げる。
「さ、子どもがちゃんと謝ったんです。今度は私たち大人がちゃんと、逃げずに腹割って話し合いましょ」
警官から指示された書類にそれぞれの母親が記入して、少し説教じみたことを言われてから四人で警察署を出た。文乃が電話をかけるとすぐに信治が合流し、こちらに歩いて来ながら苦い顔で真の方を見た。口止めの約束を破ったのは確かにこちらが悪いが――いや、全然悪くない。騙される方が悪いのだ。真は開き直って、文乃の背中越しにべっと舌を出してやった。
純子が自分の夫――理緒の父親に電話をかけている間に、文乃は屈み込んで真に視線を合わせて語った。
「全くあっぱれよ、小学五年生がここまでよくやったと思う。だから実にどう説明するか、しないのか、これは真が決めるべきことだと私は思う。今から私たちが四人で話し合って来る間に、あんたは家でお米を五合炊いて、それから実のことを見ておいて。実には今何が起きてるのかを、説明したければして。したくなければ隠しておいて。あんたの口からではなく私やお父さんの口から話すべきだと思うなら、私たちが帰ってきたらそう言って。真が判断したのなら、私もお父さんも必ず約束を守る。……悪いのは確実に、私たちよ。どう謝ってもあなたたちの傷をなかったことにはできない。だけどね、そっちのお嬢さんも聞いて」
仲間外れのような顔で下を見ていた理緒が顔を上げた。一拍置いて、文乃は語る。
「結局どんなに親が間違っていても、あなたたち子どもは生きていく上で、確実に私たちの影響を強く受けて生きていくの。お金のこと、住む場所のこと、食べるご飯のこと、通う学校のこと、全ては私たちが与えるもの。これからあなたたちの人生を支えていく存在は、今、あなたたちが必要だと判断したから、喧嘩をして離婚や別居をするかもしれない。それを――」
「分かってっし!」
真ははっきり口にした。自分のと同じ色をした母親の目を真っすぐ見つめて答える。
「分かってる……俺も佐生もいろいろ考えた。俺は鷺岡じゃなくなって、もう友だちからサギオって呼ばれなくなるかもしれない。佐生は一人っ子だから、親が喧嘩したり離婚したりすれば、三人いたのが二人や一人になって、家族が派手に壊れる。だけどこのまま本当のことをみんなで見て見ぬふりをして、家の中の全員が疑い合いながら家族ごっこをするよりマシだ。マジで気持ち悪いんだ。だから俺たち二人で、こうすることを決めたんだ」
一瞬、本当に何も映さない無表情になってから文乃は伏し目になって俯いた。
「……家族ごっこ、ね。その通りだわ。……私はね真、お父さんの間違いを見て見ぬふりをしていたのは、私たちが夫婦にはなれなくっても、あんたや実のお父さんとお母さんであり続けようと思ったからなの。だけどそうよね、それこそ家族ごっこよね。我ながら馬鹿なことをしてた……ほんと笑える……」
片手で両目を覆って俯き、深く細くひゅうっと息を吐き続けた後、文乃はぱっと顔を上げた。もうそこには真の知る気丈な母親の顔しかなかった。
「実のことよろしくね」
真の後に理緒の頭も順番に撫でて、文乃は立ち上がった。真は慌てて鞄からファイルを取り出す。
「待って母さん、これ。もう必要ないかもしれねえけど一応持ってって」
それは真にとっては理緒との努力の結晶だが、文乃や信治にとってはどんな存在なのだろう。文乃がここに来て初めて感情を隠そうともせず、悲しそうに目を細めた。ん、と頷いてファイルを受け取り、背を向けて信治の方へ歩いていく。
入れ替わりに純子がやって来て、溜め息と共に告げた。
「ほんっと言うこと聞かないんだから……理緒も家に帰ってなさい。それで授業をすっぽかしたことを真島さんに謝るの。分かった?」
理緒は鼻で笑って一蹴した。
「そっちこそ分かってんの? 今度こそ卑怯な逃げ道なんて探さずに、ちゃんと話し合ってごめんなさいしてきなよね。はい、勇気の出るお守りあげる」
一体どこにそんな嫌味の引き出しを持っているのか――。真がいっそ感心して見守る中、理緒が写真を剥き出しで手渡した。純子は心底嫌そうな顔をしてそれを受け取った後、何かがプツンと切れたように軽く噴き出して笑った。
「本当、誰に似たんだかね」
そう苦笑と共に吐き捨てた後、純子が理緒のおでこを指でバチンと弾いた。「えっ」理緒が驚愕の声を上げる。真も驚いた。こんなことをする人だったのか。今までに見た佐生純子の中で、最も人間らしい表情だったように思う。痛みよりも驚きの方が勝っていたようで、理緒がぽかんと口を開けて自分のおでこを触ってはその手を下ろして見つめていた。
三人の大人が立ち去る背中を見つめながら、もう一度おでこを触りながら言った。
「生まれて初めてされた……あの人デコピンのやり方知ってたんだね……」
「そりゃ……人間だもんな……」
夕方の駅前には仕事を終えた人が増え、二人の周りを絶え間なく行き交う。ここであった一世一代のドラマは、他の人にとっては雑踏の景色の一部なのだろう。
家に帰る人、出かける人――自分たちは今から前者になる。帰れと言われたのだ。理緒と別れるのが心底寂しくなって、口が勝手に動きだした。
「あー……なあ、急いで帰んないとだめ? どうせだしその、近いからうちに寄ってかねえ? 喉乾いただろうし……ええと、麦茶とかしかないけど……あ、あとグァバ茶ってのがあって、どんなのか知らねえけど……」
「……ふふっ、何必死になってんの。おかしいなぁ」
無表情だった理緒が弾けるように笑って、背中を強めに叩いてきた。吹っ切れたような明るい口調で続ける。
「どーせ私はもう親の言うこと聞かない不良少女だよ。家抜け出して言いつけ破って喧嘩焚きつけて……後もう一つ二つしでかしても同じだよ。お母さんの言うとおりになんてしてやんない。家庭教師のお姉さんには電話で謝るから、鷺岡君の家の電話貸してね」
悪い笑顔を見たら気の重さが少し和らいだ気がした。一緒に悪い顔を作ってバス停へ歩き出す。
「いいぜ、どこにでも長電話しちゃえよ。国際通話だろうとなんだろうと、電話代はうちの親持ちだぜ」
「へえ。ならついでに小腹がすいたから、人様の家の冷蔵庫、勝手に荒らしてやろうかな」
「戸棚に貰い物の高いお菓子があるの知ってるぜ。うちの妹も巻き込んで、派手に食い散らかしてやるのはどう?」
「賛成! 確か鷺岡君の妹さんもゲーム好きなんだよね。親が教えたがらないような卑怯な裏技、時間が許す限り教えてやろ!」
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