4-9

『もしもし』

 ショッピングモールで会った時よりも不機嫌そうな声が出た。初めて親の不倫現場を直視した日。通りすがりではなく、手をつなぐところ、楽しそうに笑いあうところをしっかりと目の当たりにした日が、真の脳裏に蘇る。

「り、理緒です。叔父さん……」

 震える手で理緒がポケットからメモ帳を取り出した。先ほど図書館で開いていた物だ。真以上に緊張しているのが伝わってきた。

『理緒ちゃん? どうしたの公衆電話からなんて。スマホは……』

 スマホは――お前のせいで、壊され、没収された。どの口が、と言いかけた真と同じように、理緒の表情から緊張が押し出されて、代わりに怒りがあらわになった。

 すう、と理緒が息を吸う。開かれたメモ帳のページを見て真は驚愕を隠しきれなかった。理緒が一息にまくし立てる。

「――おばあちゃん、どうしよう! 叔父さんの部屋が気になって勝手に覗いちゃったら、アニメの女の子のポスターとかフィギュアとかたくさんあって、叔父さんが勝手に見たなって怒ったの。フィギュア触っただけで泥棒だ悪い子だって言われて、誰にも内緒にする代わり、抱きしめさせてって言われて――」

『はああああ!? え!? ちょっとなに』

「五分後におばあちゃんに電話でこう話します。やめてほしければ今すぐに貝掛駅前の交番に通報して。大荷物を持った子ども二人が怪しい動きをしてて、家出かもしれないって」

『何それ全っ然身に覚えないんだけど! なんで、何が……』

「人のこと盗み見てお母さんに告げ口して、ほんと最低だよ叔父さん! ほら、早くしなよ親戚みんなにロリコンだって言われるよ? もしかしたら逮捕されちゃうかもね。あのさあ、小学五年生の女の子からの切羽詰まった電話と、チャラくてフラフラしたオタクの叔父さんと、みんなはどっちを信じると思う!?」

『そんな……』

 電話口の絶望しきった声に真は心底同情した。そして目の前のこの女が恐ろしくなった。これは確かに、効果てきめんな作戦だ。

『そりゃプライベートなことだし悪いかもって思ったけど、だって心配じゃない。理緒ちゃんまだ小学生なのに、もうデートなんて。何かあってからじゃ遅いし、せめて君のママにだけでもこっそり伝えておこうかと思って……パパじゃ気まずいだろうから……ただの……親切心だったのに……』

 叔父の声は情けなくしょぼくれている。その声の話す内容に理緒の顔が固まった。真も首を傾げた。

「なあ佐生、これって……?」

 真がささやく。怪訝な顔で理緒が訊ねた。

「……ええと……叔父さん、お母さんに頼まれて私のことストーカーしてたんじゃないの?」

『はああ!? そんなことするわけないじゃない。というか俺、君のママとそんなに仲良くないの知ってるでしょ? むしろ嫌われてる。だから今回理緒ちゃんのデートについて話をするのだって、結構勇気いったんだからね? そりゃ君には悪いことしたとは思うけど、だからってそんな冤罪をかぶせられるいわれはないよ!』

 演技にしては鼻声混じりの訴えに、理緒も真も固まってしまった。もしも叔父の言う内容が本当なら、彼に悪意はないわけだ。理緒のスマホが壊されて調査の邪魔をされたのは、叔父の連絡で理緒たちの尾行に勘付いた理緒の母親が、牽制のために妨害を試みたもの。つまり不幸な事故。

「なあもしかしてこの人、悪気があったわけじゃ――」

「――あと、三分!」

 理緒が腕時計を見て受話器に叫んだ。

「貝掛駅前の交番だからね? そこで怪しげな大荷物持った子どもたちが右往左往してるっ通報すること。さもないとロリコン変態叔父さんにさせちゃうから!」

『ちょっと理緒ちゃ――!』

 ガチャッ、と受話器を叩きつけて理緒は肩で息をした。釣銭が音を立てて落ちてくる。青ざめた表情でそれを手に取り理緒は笑っていた。

「おい佐生……」

「はー……楽しいね、鷺岡君。人に理不尽な意地悪をするのって」

「お前そーいうの八つ当たりって言うんだぜ……」

「ストレス溜まってるんだから仕方ない。大体、叔父さんが余計なことしたのに変わりはないんだから」

「分かるけど……これっきりにしろよ。じゃないとホントに悪い子になっちゃうぜ」

 親が間違いを犯している今、彼女を正しい道に引き戻すのは友人である自分の役目だ。真は少し大人になった気分で理緒の肩を叩いた。



 午後四時五十二分。車道を挟んだ向こう側の交番に見えるように、二人でそわそわと身を捩らせた。時折周囲を見渡して、何かから隠れるような仕草で理緒が言う。

「……本当にこのまま、二人で行けるところまで行っても良いよね」

 その顔と芝居がかった口調に、そうだな、と真は返す。

「駆け落ちってやつ。ちょっとロマンあるよな。電車とか乗り継いで、全然知らない駅に行って……」

 交番の中から警官が出てきた。若い男だ。そいつがこちらを見て、目が合う。これから全てを、終わらせる――。

 反射的だった。一緒に三文芝居に興じていた手を掴み、真は背を向け走り出した。

「鷺岡君――!」

 不意打ちを食らったような理緒の声。続いて背後から男が何かを言う声が聞こえたから、真はもっと早く走った。車道を挟んでいては簡単に追っては来れまい。理緒がすっかり履き崩したスニーカーで少し後ろを一緒に走る。ビルとビルの隙間に入り込み、いくつか角を曲がってさらに細い道を縫うように駆ける。来たこともないビルの一階に飛び込み非常口から通り抜け、駐車場を突っ切り、一方通行の幅の狭い道路に出ると、駅前と比べて人がほとんどいなかった。後ろをついてくる大人はまだいない。片やサッカー少年、片やインドア少女。走る速さは全く違ったけれど、そこにつくまで二人が手を離すことはなかった。

 真は理緒から離した手を膝につく。息がしづらくて軽くむせた。けれど全力疾走に肺が苦しくなったのは、一か月かそこら運動をしていなかったからではない。

「はー、なるほど、警察から逃げようと、すれば……っ、そりゃ確実に補導されやすくなるわけだ……。さすが……」

 頭上から降ってくる見当違いの賞賛に、アスファルトを睨みつけて首を振った。

「俺たちこれでっ――!」

 乱れる息に裏返った声を乗せて真は顔を上げた。汗と一緒にわけもわからず涙を流すその瞳で、自分と同じように緩やかな落涙を見せる少女を見た。額の汗に続いて、鼻頭をなぞる涙を、彼女は笑おうとしながら指で拭う。そうだった、と真は思う。佐生理緒は強がりに変な冗談を言うやつだ。

 怒り、不安、正義感と迷い、緊張――今、頭の中をぐちゃぐちゃに埋めつくされているのは、自分だけではない。

「俺たちさ……これで……」

 親の目を盗んでこっそり情報交換をした。推測を重ねて尾行して、自分の親が自分の親以外の異性と擦り寄る場面を目撃した。自分たちを育て導いてきた人たちを、これから二人で突き落とす。親にとっても子にとっても破滅だ。まさにダブルパンチ。

 真は口を開いて息を吸う。

「……本当に……」

 ――家庭を壊してまで間違いを暴く意味は?

 ――大人の喧嘩を煽って子どもが責任を持てるのか?

 ――今だけ我慢をすれば自分たちも成長するから、親の不倫など、表情一つ変えずに飲み込めるようになるのでは?

 理緒の表情を見ればわかる。――ここまで来たら、どれもすでに愚問だ。

「…………俺たち、会えて良かったよな」

 ぐずっ、と可愛くない音を立てて鼻をすすり、理緒が大きくうなずいた。

「――おい! 君たち……!」 

 回り道をしたらしい警官が声を張り上げ、斜め後ろから走ってきた。ああ、終わりだ。二人して袖で目元をこすり、なるべくキリッとした顔をつくった。

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