4-3
マンションの非常階段にうずくまってひとしきり泣いていたら、真上から誰かに肩を叩かれた。
「サギオ? どーしたんだよこんなとこで……ってお前」
泣いてる、と原木が目を見開いたところで、真は原木に飛びついた。原木はおろおろしながら「よーしよしよし」と所在なさげに背中を擦ってくれた。
帰りたくない、と掠れた声で訴える真を、原木は同じマンションの自宅へ入れてくれた。同じ間取りの全く違う雰囲気を持つ原木の家は、なんだか高級感がある。自室に通されベッドの上で鼻をぐすぐすやっていると、原木が連絡したのだろう、二リットルのペットボトルジュースと袋菓子を持った長沼がやって来た。いつのまにか失恋したということにされた真は、二人に丹念に慰められながら一緒に菓子を食べ、テレビゲームをした。
「女なんて気にすることないぜサギオ、恋愛より友情だ」長沼が言う。
「佐生さんは悪女ってやつだな。紗理奈ちゃんに言いつけてやる」原木が言った。
「違う。あいつは悪くない……佐生は……」
佐生、と口にした途端また涙が出てくる。その光景をどう思ったか、二人の友人は両側から真の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。的外れでもちやほやされると、いくらか気が紛れるものだ。
存分に泣いて遊んで、夕方になって真は帰宅した。風呂を沸かして、信治の作った冷やし中華を食べる。文乃の帰宅は深夜になると、信治のスマホに連絡があったそうだ。実が風呂に入っている間、ソファでテレビを眺めていると信治がやって来て、気まずさなど欠片もない声ではっきりと告げた。
「真。お前の友だちのことだけどな」
「佐生理緒? 知ってる、どうせもう会ったらダメだって言うんだろ。子ども同士がまた会って、不倫がこれ以上こじれるのはよくないもんな」テレビを見たまま返事をする。
「……確かにそれもあるが、俺は父親として、お前たちが友だちでいるべきじゃないと思ってるんだ」
若干震えた声音に振り返る。信治は今日見た中で、一番つらそうな顔をして立っていた。
「お前がその子とどれだけ仲良くなったのかは知らないが、きっかけが俺と彼女のお母さんの間違いだって言うのは分かる。彼女と今後も友だちであり続けるなら、真。お前たちは互いの顔を見る度に、お前たちの親がしでかした最悪の記憶を思い出すだろう。話が合うとか勉強を教え合うとか、友だちになるきっかけって本当はそういうものだ。これは俺のエゴに違いないが、お前たちのそれは友情とは少し違う――」
「どの口が言うんだよ、馬鹿!」
叫んで、真は自室へ飛び込んだ。と同時に、耳の裏がカッと熱くなるのを感じる。悔しいが図星だった。理緒に会えないことの他に、目的を達成して、自分たちの友情がどう転ぶかを考えるのも、同じくらいに恐ろしかったと今気づく。
不倫は間違いだ。その間違いから生まれた友情は、こうして間違いが清算されたら、もう存在してはいけないのだろうか。その答えを、真は知らない。真自身が知らないのだから、部外者である信治にとやかく言われる筋合いはない。そう強く思いたいのに、親が反論しているというだけで、呆気なく不安を覚える子どもとしての自分の弱さが、たまらなく屈辱的だ。
――こんな惨めな気持ちを、世界で唯一理解し合えた友だちなのだ。せめて一言だけでも、理緒の言葉が聞きたい。
***
お城や塔で囚われるお姫様に憧れていた時期があった。ひっそりとした小部屋の中、レースのカーテン越しに物憂げな顔で夜空を眺めて、キラキラの調度品が並ぶ部屋の中で、寂しそうに溜め息を吐くのだ。王子さま、早く助けに来て、と祈りながら――。
もちろんそんなのは絵本や映画の中だけのお話だ。フィクションだ。脚本だ。現実はそうじゃない。
スマホを取り上げられ勝手に退塾手続きを済まされ家庭教師をつけられた。囚われのお姫様というよりは牢獄の囚人がお似合い。理緒はあからさまな溜め息を吐いて舌打ちをし、机を蹴ってシャーペンを床に叩きつけた。悪辣な四コンボで家庭教師の大学生は涙目だ。自分でも最低な態度だと思うが、やってられないのだ。
「り、理緒ちゃんあの……何かわからないところでも」
「分からないところ? ああ、たくさんあるよ。どーして大人は臭いものに蓋をしたがるのか、どーして子どもから自由を奪い上げるのか。お姉さん知ってる? あんな済ました顔して私の両親は、不倫女とそれを揉み消すクズ野郎なんだよ。それでもって、不倫を嗅ぎ回ってた私をこんな風に家に閉じ込めて、あなたみたいな間に合わせの家庭教師をつけて監視させてんの」
「えっ。ふり、えっ」
「そーだお姉さんの年頃ならツイッターとかやってるでしょ。拡散してくれない? 自分が受け持ってる小学生の親が不倫騒動起こしてるって。あの人たち焦るだろなあ」
明け透けな暴言に女子大生の真島は絶句していた。自分が無意味な八つ当たりをしている自覚があるから、理緒は余計に腹が立つ。自分を含めてみんな嫌いだ。脳裏に蘇る光景は二日前からずっと、被害者ぶった陰気臭い母親の顔と、自分のことしか考えていない父親の顔ばかり。真島には何の非もないことは理解しているが、それでも理緒は当たり散らさなくては気が済まなかった。
理緒の苛立ちとは方向性の違うフォローを真島が飛ばす。
「え、ええとね理緒ちゃん。あたしはツイッターよりインスタ派だし、持ってるのは見る専のアカウントだし、ていうか余所様のお宅の事情をそんな簡単に言いふらすのは――」
「あーもーうっとーしいなあ、道徳って言葉を擬人化したような顔して! もう勉強はおしまい、帰って良いよお姉さん。ほらもう全部解き終わった! あなたがさっきお手洗い行ってる間に!」
「えっ、うそほんとだすごーい。理緒ちゃん早いんだねぇ。じゃあ丸つけしよっかぁ」
柔和な顔でありきたりな褒め方をした真島が、空欄のないテキストに赤ペンを走らせる。採点作業を始めて少し経ってから、穏やかな顔を苦い笑みに変えた真島が、床に転がるシャーペンを拾い上げた。
「えーっと……まだまだ時間もあるし、あたしも理緒ちゃんもやるべきことはちゃんとやった方が良いと思うし……間違ったとこのやり直しだけ、一緒にしよっか。今日はそれで終わり。ね?」
シャーペンを差し出される。気取った態度で雑に答案を埋めた挙句、誤答ばかりを晒している。醜態だ。理緒は顔を真っ赤にして声にならない叫びを上げた。
結局誤答の解説をしてもらっていたら、約束の時間まで授業を受けることになってしまった。真島は温厚だがしっかり発言するタイプだった。加えて教え方も上手く、優秀な家庭教師と言わざるを得ない。十六時三十分。勉強を終えて彼女を玄関まで見送ると、真島と入れ替わりに帰ってきた母親が――佐生純子が気まずそうに靴を脱いだ。
真島の背中が見えなくなるのを見届けて、純子が玄関扉を閉めてから理緒はアルカイックスマイルで声をかける。
「お仕事お疲れ様。鷺岡さんは元気だった?」
「やめて、理緒。もうその話はしないって言ったでしょ」
「じゃあいい加減ちゃんと、説明したら? どうして私は塾を辞めさせられたの? 鷺岡真と友だちになったから? 私とあの子がお母さん達に都合の悪いことをしでかしたから? はっ、どうかしてるよね。親の不倫が理由で子どもから友だちを奪うなんてさ」
「理緒」
聞き分けのない子どもを叱るように純子は言った。
「この話はもう終わったの。確かに理緒の言う通りお母さんは不倫をしてた。間違ってた。あなたにもお父さんにも本当に悪いことをしたわ。だから謝って解決した。――最初からすべて、大人だけで解決するはずだったのよ。子どもは余計なことを何も知らずに済むはずだった。なのにあなたたちが勝手に首を突っ込んだ。子どもだけで大人をからかうのは楽しかったでしょうけれど、夏休みの遊びにしてはたちが悪すぎるんじゃないかしら。お母さんはあなたに真っ直ぐ育って欲しいから、もう塾のお友だちとは――」
「屁理屈でしょ!? 人のスマホ水没させといてよく言うよほんと。子どもの間違いを指摘する前に自分の間違いにもう一度しっかり向き合ったらどう? 大人だけで解決してた? 笑わせないで、あんたたち大人の手際が悪すぎるから、私も鷺岡くんも親の不倫に勘づいて、嫌な気持ちになってどうしようもなくなったから不倫調査なんてやったの。こんなに家が嫌いになるのは、全部大人が間違ってるせいなんだって。私達は間違ってないから堂々としてても良いんだって、そう証明しないと安心できなかったの。ねえ、情けないよね、親が子どもを追い詰めてさ? ごめん以外の言葉で何か言ってよ!」
震える舌で最後まで言い終えたとき、理緒は耳の裏で血の流れる音を聞いた。泣き出してしまいそうなのを必死にこらえる。負けてたまるか。純子は黙りこんだ後、眉根を寄せてお得意の可哀そうな女の顔を作り上げてこう言った。
「何度も言ったわ、あなたのスマホを壊してしまったのはわざとじゃないって。――ほらね、理緒? 人を疑ってばかりいるから、お母さんがいくら謝ってもあなたは許してくれようとしない」
「――っ!」
激しく、舌を打つ。まるで理緒が悪役のようではないか。もちろん理緒は悪くない。全然悪くない。なのにこんなに堂々と悲しそうな顔をつくられてしまえば、もうわけがわからなくなる。大人の一挙一動で、自分の確信が簡単に揺らいでしまうのが嫌だ。自分は間違ってない。けれど自分はこんなにも弱い。駄目だ。目頭に、熱が集まる。
泣きだして憐れな子どものように扱われる前に、理緒は母親に背を向け、自室に閉じこもった。小学生でも自室に鍵を取り付けられる方法は、ネット検索で出てくるだろうか。――いや、パソコンもスマホも没収されていたんだった。
広げっぱなしのテキストが置かれた机に目を向ける。棚の上にじっと鎮座して理緒を見つめるのは、理緒の友だち曰く「くしゃみする寸前のヤギの顔」をしたマスコット。何の動物を模して作られたのかは分からないそいつを抱き上げ、ぎゅっと胸に押し付ける。
「くそ馬鹿ブスばばあ……っ!!」
持っている言葉をありったけかき集めた無様な暴言を吐き、理緒はベッドに飛び込んだ。枕に顔を埋めて叫びながら、バタ足でシーツを蹴り続ける。やがて疲れてマスコットを枕元に置き、肘をついて顔を上げた。こいつをくれた真は、今どうしているだろうか。彼もきっと理緒のように、余計なことに首を突っ込むなと脅されているに違いない。
眼鏡の奥でいつも明るい色を湛えていた、黒蜜のような瞳を思い出す。真のせいでこうなった。真のおかげでこうなった。彼の誘いに乗らなければこうはならなかったと思うが、理緒には後悔などなかった。確かに今は苦痛極まりないが、理緒にとって家庭とは、もともとが息苦しい場所だ。上質な服を着た父と優雅な振る舞いをする母に挟まれて、賢く良い娘でいることが、自分が家庭に席を置くためのコストだと思っていた。それは母親が不倫をしていたっていなくたって、同じことだと今なら思う。違うのは息苦しさの度合。不倫を暴いた今の苦しさの方が、以前に比べて何倍も清々しい。
本音で話せる友だちとの夏の冒険を思えば、こんな状況は安いものだ。
「――会わなきゃ。なんとしても」
理緒にとって真は不倫を暴くための友人ではない。同じ傷を抱えて助け合う仲間だ。だから一緒に不倫を探ったからと言って、真との友情までを否定されるいわれはない。彼にもそれを肯定してもらえたら、どれだけ心強いだろうか。
身体を起こす。充電器にセットしたままのゲーム機を取り、電源を入れた。
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