4-2

「父さんが母さんに内緒にしてることは何?」

「浮気。不倫してること」

「その相手は誰?」

「佐生さん。俺と同じ塾に通ってる、同い年の佐生理緒のお母さん」

「一昨日、父さんがどこにいたか」

「父さんはペガサスの看板があるラブホにいた。時間をずらして佐生さんと入った後、佐生さんと一緒に出てきて、その後――」

 言わなければ、と思う。同時に、自分も信治もこんなに辛い顔をしているのに、どうしてわざわざもっと辛くなることを言わなければならないのかとも思った。けれど言わなければならなかった。

「佐生の親父さんと男の人が出てきて、父さんたちに何か話しかけてた。それを見て俺と佐生――佐生理緒は逃げ出した。そこまで。それでおわり」

 一拍置いて、信治は大きく溜め息を吐いた。それからどれほど時間が経ったろうか。数秒か、数分か、真は信治から目を離せなくて、時計を見られなかったから分からない。信治は意を決したように口を開いた。

「まずは謝りたい。本当に悪かった。父親として最低の行いだ、子どもに見せたことも悟られたことも。全部やってはいけない間違ったことだ。すまない」

「ふざけんじゃねえクソ親父ッ!!」

 真はテーブルを叩いて立ち上がった。拳が痛い。コーヒーが跳ねた。椅子が後ろに倒れる。どれも知ったことではない。

「悪かった? 間違いだった? そんなこと言って何か解決する? しないだろ。ていうか何に対して謝ってるんだよ、何が悪かったって思ってる? なあ、父さんが浮気したことで、ミノや、俺や、佐生が、どんな気持ちになったかって、父さん一度でも考えたことはあったのかよ?」

 信治は驚いたように目を見開いていた。その顔に無性に腹が立つ。たまらず、熱々のコーヒーを彼にぶちまけた。

「俺たち、死ぬほど不安になった。これから全部、何が間違いで何が正解か、そういうことをもう親に聞けなくなる、自分で全部判断しなきゃならなくなるのかって思ったら、マジでこわかった。母さんは多分不倫のこと気づいてる。くせに、間違ってるって言わずに黙ってる。それで二人が自分達の間違いを棚にあげて、親だってだけで俺や実に偉そうなことを言うんじゃ、そんなの黙って飲み込めるわけない。もう父さんや母さんが絶対に正しいことを言うわけじゃない、嘘かも、間違いかもしれないって知ってる……。だから俺たちみんなが家族を無駄に疑って、わけわかんなくなってんだ。父さん、実がなんで忘れ物増えたか知ってる? あいつ泣きながら言ってたよ、なんだか父さんの言うことを素直に聞けなくなったって。自分は父さんのこと何も知らない、いつも忙しそうって。そんなこと考えてるうちにあいつはとうとう、母さんの話まで上手く聞けなくなったみたいだ。それを聞いてたら俺まで泣けてきてさ、校庭で、あんなに暑いのに、俺たち馬鹿みたいに……馬鹿、みたいに…………」

 信治は被ったコーヒーを拭いもせず、何度も途切れる演説を黙って聞いていた。次の言葉に詰まり、真はテーブルの隅の箱ティッシュを差し出す。受け取ったティッシュで信治は真の涙を拭った。真はその手を叩き落とした。

「親が嘘をついてるとき、何となくだけど子どもはわかってるんだ。なあ、俺たちは馬鹿じゃないぜ、父さん。なんで不倫なんかしたんだよ……」

 自分で出したティッシュに鼻をかみながら問う。信治は泣き出す直前の顔をして笑った。

「……そうだな。もう、許されるために話をするのはやめるよ。――正直に話すと父さんは寂しかったんだ。家族のために一生懸命仕事をしてた。それは俺も母さんも同じだったはずなのに、気づいたら在宅で仕事をしてる母さんだけが、俺よりも真や実と仲良くなって、俺は家にいる時間が減って、その分お前たちと仲良くするチャンスも減った。仲良くなれないなら家にいたって楽しく過ごせないよな。例えるならそう……インフルエンザで一週間欠席したら、次に登校したとき友だちが他の友だちと仲良くなってて、教室に居場所がなくなる感じ。分かるか?」

 真は黙って頷いた。いつか長沼が同じことを言っていたからだ。そのとき「他の友だちごと話しかければ良いじゃん」と返したら、長沼には「お前みたいな奴にはわかんねえよ」とひどく寂しそうな顔で言われた。だから真は、もう信治にまでそんなことは言わない。

「家族は好きだよ。でも楽しいか楽しくないかで言えば楽しくなかった。佐生さん――お前の友だちの佐生さんのお母さんは、俺と似たような気持ちを抱えてた。それで仲良くなったんだ。一緒に話をして、友だちみたいに仲良くなって、その延長戦で……不倫になった。今さら信じてもらえるかわからんが、あれは恋愛っていうよりは、傷の舐め合いだ」

「……でもデートしてたよな」

 ぎょっとして信治がこちらを向く。しまった、口を滑らせた。少し考えた末、もう自棄になって真は白状した。

「不倫の証拠を押さえるために、俺たち二人で父さんたちの映画デートを尾行したんだ。モールに、字幕版の映画観に行ったろ? 二人が手を繋いでるところを佐生のスマホで写真に撮ったけど……そのスマホは佐生の母さんに、紅茶ぶっかけられて修理に出された」

「スマホを……ああ、それでか」

「それで?」

「いや、佐生さんのお母さん、ちょうどモールに映画を見に行った後、目に見えて様子がおかしくなったんだ。会う回数も減らそうとしてたみたいで。……そうか、彼女は先に気づいてたんだな。俺たちが自分の子どもをどんなに苦しめてるのか……」

 真は黙り込んだ。思い出すのはショッピングモールで取り乱す理緒の顔だ。彼女の叔父の薄気味悪い笑顔をまだ鮮明に思い出せる。あの男が理緒の母親に告げ口をしたから、理緒はスマホを壊された――。あくまで予想でしかないが、理緒の不安は当たっていたのかもしれない。

「確かにデートはしたが、あれはなんていうか……、やっぱり傷の舐め合いとしか言えないな。でも不倫は不倫だ。お前たちに尾行なんかさせて、本当にごめんな。気持ち悪かったろ、父さんがイチャイチャしてるとこなんて」

 黙って頷く。だよなあ、と信治は苦笑した。一度会話が途切れて、真は椅子に座った。信治が口元に両手の人差し指と中指を揃えて添える。彼の悩むときのクセだ。

「とても図々しい……お願いをするんだが、このことは母さんや実には黙っていてくれないか? 俺と真だけの秘密にしたいんだ」

「不倫やめる気ないの?」真は身を乗り出した。

「違う、やめるためだよ。全部終わらせる。父さん、慰謝料を払うことにしたんだ。お前は刑事ドラマとかよく見てたから分かるよな? 慰謝料――他の人の奥さんと不倫をした罰金を払って、このトラブルを終わらせるんだ」

「慰謝料? 俺、ネットで調べたぜ。父さんの場合はただの不倫じゃなくてダブル不倫って言うケースだから、あっちの奥さんからも慰謝料を貰えることになって、相殺になることが多いって話じゃねえの?」

「なんてこった、情報社会の馬鹿野郎……」

 頭を抱えてから信治は苦笑いで顔をあげた。

「佐生さんのお父さんと俺たちが会ってたのは見たんだよな?」

「見た。父さんすげえ顔してたよな、デコピンくらったミノと同じ顔してた」

「くらったのはデコピン以上さ。……まあつまり、口止め料だな。あのとき一緒にいた男の人は弁護士だ。今の真の話を聞いて納得がいったが、きっと佐生さんご夫婦は最初から、あの日にすべてを終わらせるつもりだったんだろう。だから弁護士を連れてきて、俺に不倫の清算の話を持ちかけてきた。――あっちのお父さんにとっては奥さんが不倫をしたのは事実だが、その不倫相手である俺が独身か結婚してるかどうかはわからない。つまり俺が妻や子どもを持ってるって言いださない限りは、ダブル不倫にはならないから、俺だけが慰謝料を払ってこの問題を終わらせられるんだ」

 真は首を傾げた。苦笑する信治の顔を見て、少し考える。やっぱり腑に落ちなくて口を開いた。

「俺の間違いじゃなけりゃそれって損じゃねえの? だって父さんが妻子持ちだって言ったら、あっちも慰謝料を払うことになるんだろ? そうしないと父さんだけが慰謝料払うことになる。佐生の母さんだって悪いのに」

「言ったろ? 口止め料だって。俺が佐生さんご夫婦に慰謝料を請求すれば、きっと文乃や実に俺の不倫が知れ渡るだろう。だが俺だけが自分のへそくりから慰謝料を払えば、文乃や実に不倫をしたことがばれずに済むわけだ。本当は真にも知られずに済ませられたら良かったんだが……本当にごめんな。お前には嫌なものばかり見せつける」

「馬鹿みてえ。それって意地を張ってるだけじゃん」

 信治は声を出して快活に笑った。そんな顔は初めて見た気がしたけれど、遠い昔、家族みんなでスキー場に遊びに行ったときも、彼はこんな顔をして笑っていたと思いだす。あの頃実はまだ三歳で、よく家族で出かけることも多かった。

「真、頼むよ。一生のお願いだ。このことをどうか実や文乃に黙っていてくれないか? 俺のことを許せって言ってるわけじゃない。どのくらい時間がかかるか分からないが、これからは二度と間違いは犯さないし、家族にもしっかり向き合って、鷺岡家の父親としてまた生きていきたいんだ。もし文乃が勘付いていても、事実だってハッキリ言わなきゃそれは勘のままで終わる。やり直すチャンスが欲しいんだ。……お願いします」

 両膝に手をつき、真の父親は深く頭を下げた。自分が返事をしない限り、この頭は上がらないままなのだろう。真が今まで見てきた全てのことに見て見ぬふりをしろと、信治は言っているのだ。そうすれば全部が丸く収まる。――理緒はどうなっただろうか、と真は考えた。自分がこんな状況に置かれている以上、理緒にはおそらく、もう会えない。漠然とした予感だが確信があった。理緒と友だちになり不倫の調査をしたことがなかったことになって、代わりに信治は二度と浮気をしなくなる。彼が家族と向き合えば、鷺岡家に漂う重苦しい空気は消えるだろう。妹がもう泣かなくなるのだ。

 真が口にできる答えなんて、一つしかなかった。

「……ツイッチ買ってよ。弁天堂の、新しいゲーム機。俺への慰謝料と口止め料」

「ありがとう」

 上げられたその顔を見た瞬間、泣き出しそうになったのをぐっとこらえられたのは、実が帰ってきたからだ。

「たっだいまー! 見てみておみやげー」

 実は上機嫌だった。旅行から帰ってきた友だちにお土産をもらったと嬉しそうにする実を信治にパスして、真は入れ替わりに家を出た。玄関扉を後ろ手に閉めたときには、もうぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。

 理緒に会いたい。

 信治は不倫をやめると言った。欲しかったゲームも買って貰える。あのいけ好かない男に頭を下げさせた。なのに素直に喜べないのは、ここまで一緒に頑張った友だちと、何の感情も分かち合えないからだ。

 全てが終わった安堵か、その代償にした女の子との友情に寂しくなったからか、とにかく真は声を殺して泣きじゃくった。


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