第四章 逃げ、裏切り、大スキャンダル
4-1
「今日、残業らしいよ。遅くなるって」
信治の帰りを待たずに夕食の準備を始めた文乃が、無関心にそう言い捨てた。真は心底肝を冷やした。ついさっき見た光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。怯えたような信治の顔と、まるで示し合わせたように揃って冷たい顔をする理緒の父母。傍らの見知らぬスーツの男。きっと良くないことが起きたに違いない。もしかしたら文乃は、もう信治の不倫について知ってしまったのではないだろうか。
夕飯はハンバーグだった。大好きなはずのメニューを、真はひと口も味わうことができない。このひと口を飲み込んだら、文乃にそれとなく信治のことを聞いてみよう――。ひと口食べる度にそんな覚悟をしては挫折を繰り返して、結局核心に触れる発言はできないまま、作業のように夕食を平らげた。
実が寝付いたら話しかけてみよう。そう覚悟を決めてみても、いざ文乃と二人きりになると何も話せない。
「……父さん、遅いね」
かろうじて絞り出した声に、文乃は歯を磨きながらおざなりに言った。
「繁忙期ってやつじゃない? あんたはもう先に寝なよ。明日もラジオ体操あるんでしょ」
寝ろ、と命じられた気分で真は自室へ引っ込んだ。ほどなく文乃が寝室に入って扉を閉める音が聞こえ、とうとう家の中は静寂に支配された。
妹の寝息を聞きながら、真は寝付けず息苦しい時間を過ごした。理緒と別れて逃げる間際、ちらりと視界に入った信治の顔が、まぶたの裏で何度でも真を見る。まるでいじめられる被害者のような顔だった。真はいら立ちを覚える。お前は加害者のはずだ。不倫をして家族を裏切った。被害者はこちらだ。だというのに、どうして信治が同情を誘うような顔をするのか。その苛立ちが不安に近いことに目を背けようとして、真は眠ろうと腐心する。
寝返りを何度も打ってタオルケットを蹴り上げて、一体何時を迎えた頃か――玄関の開かれる音を聞いた。すり足気味の足音は父親のもので間違いない。文乃は起きてくる気配がない。
信治とふたりきりで話をするなら今だ、と真は思った。自室を出て、何か声をかけるべきだと考える。しかし意に反してまぶたが重たい。意識がゆったり落ちていく。結局真は眠ってしまった。
***
翌日、塾へ行くと理緒には会えなかった。塾校舎にある自習室を全て覗いたが姿はなく、いつも待ち合わせに使っていた教室のカーテンには、合図に使っていた安全ピンもない。真は授業がない日だったから、自習室で塾の宿題をしながら時間を潰し、原木の授業が終わるのを待ち伏せた。原木は真が塾に来ていたことに驚きながら、真の予想通り理緒の欠席を教えてくれた。これは絶対にただの欠席ではない。親と何か嫌なことが起きたに違いない。だから来たくても来られなかった。蒸し暑さの中に冷房の冷たさが入り混じる塾の中、真の背中をひやりと撫ぜる怖気があった。
不倫の証拠は掴んだのだから、もうどこへも寄り道する必要はない。自分達の戦いは終わったのだと、漠然とした自覚があった。久しぶりに原木と長沼に“塾帰りのタシナミ”に誘われたが、あのコンビニへはもう入りたくなくて、一人でバスに揺られて帰宅した。
家に帰ると文乃が大きめのバッグを用意していた。そういえば明日は取材に出かけると言っていた。日帰りのつもりだが、隣の県まで行くから帰りは遅くなるらしい。
前日に続いて信治の帰りは遅かったが、実が眠って真が風呂から出てきた頃に、彼は帰宅していた。
「さすがに明日は早めに帰ってこられる? 家に子どもたちだけじゃ、私が心配だから」
私が、を強調するように文乃は言った。まるで子どもを心配するのは自分だけで、信治を親とは認めないような言い方だと真は感じた。明らかに棘がある。わざとのけ者にするような言い方を、信治は確か嫌っていたはずだ。しかし真の認識に反して、
「……いや。明日は休みだし、家にいるよ」
叱られて落ち込む実のような顔をして信治は呟いた。そう、と文乃は冷たく返し、カウンターキッチンの前で立っていた真の頭を撫でて寝室へ入っていった。真は信治と目が合うと、ものすごく気まずくなって「おやすみ」と早口に部屋へ戻ってしまった。信治は何かを言いたそうだった。明日は文乃がいない。きっと真は明日、信治と話し合うことになる。
文乃と一緒に家を出て、途中で別れてラジオ体操に実を連れて行く。公民館の駐車場に集まる子どもたちの中、旅行から帰ってきたクラスメイトを久しぶりに見つけて実ははしゃいでいた。無邪気な妹の笑顔が、今は真を都合よく不幸にさせるピースの一つに思えて仕方がない。
「俺先に帰ってるよ。今日は母さんいないから、ちょっとくらい朝ご飯に遅れても大丈夫だろ」
まるで誰かに言わされるような気分で真は口を動かした。いたずらっぽく「じゃあちょっとだけ」と笑って実は友達と近所の公園へ遊びに行った。ラジオ体操カードにスタンプを貰って、真はマンションの周りをゆっくり一周ぐるりと歩き、深呼吸をして、帰宅した。無性に原木に会いたくなった。奴が今日、寝坊をしてラジオ体操を欠席して良かったと心底思う。もしも真が原木に会ったら、今から食事も取らずに長沼の家に押しかけようと提案しかねない。
重たいノブを握って玄関を開ける。キッチンで信治が朝食の準備をしていた。文乃に任せることが多いとはいえ、信治は料理が下手ではない。こんがり焼かれたトーストに、ぷるぷるの目玉焼きと軽いサラダ。プレートは三人分用意されていた。
「ミノは友だちと遊んでる。まだ帰らないかも」
「じゃあ先に食べてようか」
実の分をラップして、二人で向かい合って食卓に座り「いただきます」と手を合わせる。信治が口を開くのを、今か今かと待ち構えたが、彼は一向に口を開かない。何かを言いたそうにしているのは、手に取るように分かるのに。おそらくこちらから聞いてやらないと、何も言い出さないのだろう。実は目元と髪の色が父親譲りだ。本当にあの子は、嫌なところばかりが、父親に似てしまった。
ごちそうさまと手を合わせて、皿を片付ける父の背中に声をかけた。顔を合わせないでいる方が気楽だろうと思ったからだ。
「佐生さん」
少ししか肩が跳ねなかったから、やはり信治は真が不倫に首を突っ込んでいると知っているらしい。驚くときはもっと派手に飛び上がる男だ。
「俺、今通ってる塾で佐生さんって女子と仲良くなったんだ。おや――父さんはそのことを知ってるっけ? にんべんに左で佐、生きるで生。佐生さん」
振り返りざまに信治は、意外にも笑って見せた。爽やかに、いたずらがばれたみたいに。とても上手な作り笑顔だ。
「コーヒー入れようか。飲める?」
「ブラックでいいぜ」
大人ぶりたくてそう返したが、本当は砂糖とミルクが欲しい。文乃なら笑って砂糖とミルクをテーブルに置くだろう。
「真がどれだけ知ってるか、実を言うと父さんはハッキリ分かってない。だから真にいくつか質問をしたい。いいか?」
テーブルの上に真っ黒なコーヒーが二つ並んだ。準備万端というわけだ。真は頷いた。信治が正面に再び座る。
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